東大病の源は「変わらない日本の後進性」ー刺傷事件に際して  近代日本考 

明治体制のキャッチフレーズの1つに「富国強兵」がある。天皇の統治する国家は教育制度においても「欧米列強に伍する」富んだ強い国家建設のための有為な人材、すなわち天皇制国家の中枢となる官僚育成を主たる任務として最高学府(大学)を設置した。先ず東京大学一校が設けられた。1886年帝国大学令が出された際、「東京」の2文字を消され帝国大学となった。1897年京都帝大設置まで20年間東大は唯一無二の存在となる。以降、東京帝国大学、敗戦後は東京大学と称しながら、官僚主導の日本社会で絶対的権威として君臨してきた。かつて日本の支配を受けたアジア諸国のエリート層にも「University of Tokyo」「トーダイ」の名は驚くほど浸透している。まさに戦前、戦後を繋ぐ「変わらない日本」否「変われない日本」の精神文化的後進性を示す中核をなしている。

2022年年明け、その東京大学で行われた大学入学共通試験の初日に大学前路上で受験生らが襲われる刺傷事件が発生した。現行犯逮捕された医学部志望の高校2年男子生徒は犯行時、「僕は来年東大を受ける」「偏差値73の高校から来た。実力はある」と叫んでいたと報じられた。現在の学力では「東大は無理」と判定されたことが犯行を誘引したとされる。犯罪心理や犯行態様の分析はさておき、高2三学期段階での「不合格見通し」と凶行とが結びついたとすればまさに前代未聞である。「トーダイ」合格に過剰執着するいわゆる東大病患者の存在は恐らく東大開学とともに古いのであろう。だがそれが無差別刺傷事件を引き起こすとは想定外であった。病は一線を超えた。

■天皇制支配と重なる東大信仰

「東大だけが全てではない」「点数だけで人の評価はできない」。このような常識的なコメントがネットに溢れている。しかしながらこの種の慰めは東大病患者に効き目はまったくない。自由、自治・自立、民主という多元型理念を基礎とする西欧型近代市民社会の出現を弾圧し、経済、軍事面からの欧米へのキャッチアップに専念した官僚主導の日本型権威主義社会の抱える病根に由来しているからである。オーバーではあるが、極論すると、価値一元的な日本社会では東大合格は「至高の存在」になるパスポートとなる。実際、世間という名の日本社会はいまだに「東大卒」を疑似的にせよ信仰対象のごとく扱いがちだ。

東京大学「学生生活実態調査報告書」2018年によると、「なぜ東大を受験したのか」との東大生に対する質問には「社会の評価が高い」との答えが50.6%。過年度の調査でもいずれも半数を超えている。言葉を換えれば、大半の学生は、動機は複数あるにせよ、最高の社会的評価を得たくて東大に入学したはずである。したがって、「浪人してでも」とこだわっていたのが52.9%と半数を占めた。この50.6%、52.9%という割合は学生らの自己抑制がもたらした数字ではないだろうか。本音ベースでは「他大学に価値を見いだせないこだわり派」の割合はずっと高いと思われる。

「人に最高に認知されたい」との18歳未成年の受験動機を責めることはできない。天皇 からの褒章である恩賜の銀時計が最優等生に授与された東大を頂点とする戦前の教育体制はいまだ清算されていない。東大信仰は天皇制支配と重なる。問題の核心はここにある。後述する1960年代末に起きた「自己否定」「東大解体」を一大スローガンとする全共闘運動の本質は戦前すなわち「帝国大学」を引きずったままの1960年代大学の封建体質・前時代権威主義の告発にあった。その意味でこの時期の学生運動の問いかけは今こそ見直す価値がある。

【写真】恩賜の銀時計   明治天皇は東京帝国大学の卒業式に臨席、成績優秀者に恩賜の銀時計を授与した。「東京大学百年史」によると、元は、陸軍大学や海軍大学の成績優秀者に授与されたが、東大でも恩賜の銀時計の授与が始まった。1897年から1918年まで授与制度が続き計323人が対象になった。授与された者は「銀時計組」として一族郎党、故郷の誇りと称えられた。

 

 

 

■東大なるものが育むもの

戦前は帝大、官立高等専門学校、私大の順で卒業後の給与、昇進など待遇に厳然たる格差があり、私学蔑視がまかり通っていた。戦後は特定の週刊誌が東大合格者高校別ランキング速報ではやし立てるのをはじめ、最近ではTVクイズ番組で「東大王」などといった形で番組が制作され東大を必要以上に特別視するマスメディアの報道が大きな弊害となっている。新興のネット世界がこれに輪をかけている。これを反映して日本の高校を評価する切り札として「東大合格者数」が掲げ続けられている。あたかも東大以外に価値ある大学を見いだせない、東大を絶対化する風潮はエスカレートするばかりだ。もっとも、今日では国立大医学部合格がこれに並びつつあるが、医師が「成長しない失われた日本において破格の安定した高収入を得て、先生と呼ばれて尊敬される」ためその根は同根である。

少なからぬ例外はあるものの、このような社会風潮に育まれた末の東大入試での合否結果は20歳にも満たない青年たちの精神構造に計り知れない歪みを与えてきた。東大病重症患者の2大グループは「東大に行けなかったことを終生異常に悔いる」集団と「東大合格あるいは東大卒という肩書を必要以上にひけらかす、受験知はあっても知性は感じさせない」集団である。もっとも、日本社会を最も歪めてきたのは不要な天下り先を巧妙に限りなく作り上げ税金をたかり尽くす特権利益追求集団「高級官僚OB」と言える。この集団をほぼ独占支配してきたのがいうまでもなく「東大出」である。 

戦前日本の大学で学んだ研究者は戦前を清算したうえで戦後を生きようとしただろうか。1938年、労農派教授グループ事件で検挙・起訴され、戦中は東大を休職させられたマルクス経済学者大内兵衛は東大安田講堂事件を巡り岩波書店発行『世界』1969年3月号に巻頭論考「東大を滅ぼしてはならない」を寄稿した。その中の、「東大全共闘運動といえども…大学という特殊部落の構造を変えるに相違ない」との表現が部落解放同盟の激しい抗議を呼び起こし、謝罪文掲載へと追い込まれた。加えて、当時の週刊誌報道などによれば、大内は「安田講堂に籠城したのは地方の学生。東大生はこんなことはしない」「(封鎖解除に当たった)機動隊員をねぎらいたい」と語ったという。

この事件は東大内部に連綿と蓄えられてきた特権意識が白日の下に曝された象徴的出来事だった。鎮圧後の荒廃した安田講堂を視察した当時の佐藤栄作首相は、事態の早期収拾という政治的思惑から、東大廃校すら匂わせる発言をした。実際、佐藤政権は早々と1968年12月末、大学側の意向を無視して翌年3月実施の入学試験中止を大学当局に命じた。これへの憂慮が大内論考のタイトル「東大を滅ぼしてはならない」となった。マルクス経済学の権威とされ碩学であるはずの学究が「特殊部落」という言葉遣い・差別用語にまるで無頓着だったことへの驚きもさることながら、「東大を潰されてなるものか」との強烈な意思表示過去の反体制論の撤回に等しかった。「日本の戦前リベラリズム」の皮相さがむき出しにされたのであった。

【写真】1969年1月18日朝、東大正門を通過して安田講堂封鎖解除に向かう警視庁機動隊。門柱に「帝大解体」のスローガンが書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

■標的となった丸山真男

1969年1月19日、30時間を超す攻防の末、安田講堂の封鎖は機動隊により解除、300人以上が逮捕された。戦後民主主義の旗手と仰がれた政治学者丸山真男は当時東大法学部教授であり、その思想を欺瞞として否定する学生たちの攻撃の的となった。研究室を破壊され、多数の稀覯本を紛失した丸山は学生の暴行を「ファシストでもおこなわなった蛮行」と憤慨、非難した。1971年丸山は職を辞した。

(丸山さんは)大衆的な集団的圧力もまた自由の脅威となりうるという、そういう集団的な大衆行動の圧力という、そういう面を非常に強く感じられたんじゃないかと思う。」

こう振り返る社会学者で東大名誉教授の折原浩は「闘争の行き過ぎもあろう。だけど全共闘がいろいろな大学の在り様を問題にする、人間の原点を問題にする、学問の在り方を問題にする、それに答えを出し切れなかった。丸山さんはロマン主義というか、そういう風に抽象的に集約してしまうわけですあの盛り上がった「生(せい)」から何を学ぶかっていう発想、全部 落ちちゃう。あれだけ犠牲を払ったのに、一体何をその後やっていくのかそれを相手方の責任に転嫁してしまうと、後の秩序に戻っていく人たちも何も問題を汲み取れないんです。」とカリスマ丸山の思想と行動に疑念を投じた。

愛弟子で紛争鎮圧後東大法学部長や宮内庁参与を歴任した三谷太一郎に折原のような疑念はない。「戦前からのリベラルな伝統」の担い手と評価して次のように丸山を擁護した。

「先生にとっても非常にショッキングな運動であり、また事件であったと思う。当時の学生のいわゆる大学闘争に対して、もちろんその問題提起的な意味というものは認めておられたと思うんですが、大学が戦前、戦中から築いてきた良き意味でのリベラルな伝統が、あれによって断絶することが先生にとっては不本意だったんじゃないか。」

三谷が引き継いだ東大法学部は教え子で安倍晋三トップブレーンとなった団塊の世代の北岡伸一や御厨貴をはじめ再び御用学者の巣窟と化した。

■帝大解体を怠ったGHQ-その結末

敗戦後の占領下の日本改革の担い手、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の教育制度改革に帝国大学と呼ばれた大学の組織自体を解体、廃止しようとする動きはまったくみられなかった。「帝国」の2文字は削除されたものの、国家主義者教官の公職追放や大学運営の民主化と自治推進という言葉でうやむやにされ、組織は丸ごと温存された。俗称ながら「旧帝大」は今日も受験業界をはじめ絶対的権威として大手を振って生きている。

「東大解体・帝大解体」のスローガン1968年に医学部学生の無給インターン制度や医局廃止要求に端を発する全共闘運動の柱として東大の学生自らが打ち出したものだ。このころ一世を風靡したベストセラー小説「白い巨塔」は旧帝大医学部の内幕と病巣をよく抉り出している。

運動の理念は画期的であったものの、運動に「暴力の自己目的化」が生じ、翌69年初めの安田講堂事件で鎮圧された。当時の変革パッションは今や雲散霧消し、見る影もない。それに続く世代の過半は彼らを誇大妄想で秩序破壊の「過激派」として忌避した。日本社会に蔓延ってきた「右でも左でもなく是々非々で生きる」という処世術が息を吹き返す。世知にたけた「現実主義」が跋扈する。帝大解体運動は永い永い反動期に入る。

帝国大学を実質解散させずに戦後教育をスタートさせてはならなかった。GHQは当初、東大本郷キャンパスに司令部本部を置こうとした。ただこれが実現していても戦前の大学制度をその根元から改革しようとする動きがなかったため東大は旧態依然の体質を色濃く残したまま存続したはずだ。1960年代末の学生反乱はこれを攻撃、批判の的とした。学生らの唱えた「自己否定」とは差別構造の頂点にいる己の否認であり、その結果、「帝大解体」は当為となったのである。

一方、当時の佐藤内閣は「学生運動の温床」と見做す自治会廃止、産学共同を推進するモデル校設立へと向かう。東京教育大を廃校とし、同大を後継するモデル校として1973年に筑波大学が開学した。折から台頭した新自由主義が教育界を席巻し、2000年代初めには国公立大学の法人化が行われ、国支給の科学研究費の削減と併せ、産業界との連携による運営費の自己調達が推奨された。

大は2020年、先端研究施設の建設等を資金使途とする200億円に上る大学債発行に日本の大学で初めて踏み切った。公営大学が民営化していく動きは東大紛争への反動でもある。この流れに対する異議申し立ては科研費縮小、若手研究者らの不安定雇用、経営に行き詰まる地方国立大の縮小・合併の動きなどへの不満の声として出ているにすぎない。現状、これが「帝大解体」運動の結末である。

■明治150年の膿が噴出

1980年代に日本に滞在していたある米国人学生は「日本にはチャンスが1回しかない」と大学入学制度や一社終身雇用に象徴される日本社会の在り方を批判した。地方ミドルクラス育ちの彼らの多くはまずは地元の州立大などで学び、さらに向学心と能力があれば奨学金を得て東部アイビーリーグに進むのが通常コースと語った。仮にハーバードやイェール、プリンストンなど有名大学で修士号、博士号を得たからといって日本のように「学歴ロンダリング」と揶揄されることはない。米国の多様性を重んじる価値多元社会と日本の価値一元社会の差は歴然としていた。

三木武夫内閣(1974~76)で文部大臣だった教育社会学者永井道雄=写真=はテレビ出演し、胸を張り、開口一番「皆さん、私は東大を出ておりません」と語りかけた。そして「大学制度の形は富士山型ではなく、(多くの峰が競う)八ヶ岳型が好ましい」と訴えた。その姿は戦後史に刻まれるべきである。

今回の刺傷事件は明治以降150年余りの日本の社会体制に一貫して蓄積されてきた膿が噴き出た感がある。1960年代末の大学紛争を正面から受け止め「日本の大学に欠けていたものは何か、大学改革はどのような意味があるのか」と訴えて、当時の教育行政に一石を投じた永井の言葉は再吟味されなければならない