1991年のソ連邦崩壊を受け喧伝された「平和の配当」は幻であった。昨今のウクライナ情勢をにらみながら米国は東アジア・極東でも中国のみならずロシアが脅威であると認識せよと日本を煽り始めた。日米安保体制を絶対条件とする日本の自民党政権はこの10年ほど中国非難に使ってきた「力による現状変更を行っている国」としてロシアを追加し、その根拠として北方領土問題を挙げた。1990年代、東西冷戦終焉に伴い、国連中心主義を唱え始めた日本の非自民党政権に対し、米国はナイ・イニシアティブと呼ばれる1994年「東アジア戦略報告(EASR)」で日米安保適用地域の極東からアジア太平洋地域への拡大を指示し1997年「日米同盟再定義」へと進む。その過程で日米同盟関係の維持・強化が、アジア太平洋地域の安定にとって不可欠と再確認された日米首脳による1996年「日米安保共同宣言」が出された。30 年近くの歳月を経て日米に「ロシアという共通の敵」が復活した。中国に加えロシアを安全保障上の敵と明確に位置づけ、日米安保体制の一層の強化というプロパガンダに乗せられてしまえば、経済衰退の只中での防衛費の飛躍的増大で日本社会がさらなる疲弊に陥るのは必至。戦後日本の惨めさが改めて浮き彫りにされている。
■ロシア非難の先頭に立つ
小野寺五典・自民党安全保障調査会長はこのほどFNN系報道番組に出演、ロシアと軍事紛争にあるウクライナ情勢を巡り「この問題は必ず日本に影響する。自国は自国で守るというスタンスがなければ、日本もウクライナと同じようなことになる」と警告した。これを軍事専門家と紹介された香田洋二第36代自衛艦隊司令官(元海将)が「ウクライナ危機が高まれば、日本の近海でも米露が一触即発の状態になる」と後押し。その上で元防衛相の小野寺会長は日米の安保ムラを代表してこう扇動した。
「ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。ロシアはいま日本にも相当嫌がらせをしている。オホーツク海は深く、そこに原子力潜水艦を潜ませている。いざという時に攻撃することが最大の戦略だ。米国もそこを狙って突破してくる。実はいま千島列島付近も米国とロシアの主戦場になっている。北方領土問題は軍事的なことを考えてもたやすいことではない。話し合いは必要だが、話し合いで領土が帰ってくることはあまり大きな期待はせず、むしろ今回、ウクライナ問題で日本は強い姿勢に出る必要がある。」
要は、極東・東アジアでも中国だけでなくロシアの脅威が迫っているとし、北方領土問題は話し合いに期待せず、オホーツクの深海や千島列島に潜み日本に対し攻撃態勢にあるロシア軍に備えよ、と訴えたのだ。ウクライナの軍事緊張はワシントンの指令に従い防衛費増加と軍備拡大へと進む自民党政権にとって格好の追い風となった。否、中国に加え、北方のロシアという脅威の二重化は日米安保ムラにとって慈雨とさえいえる。
こんな中、ほぼ連日開催される自民党安保調査会・国防部会に出席しているという記者上がりの参議院議員が自身のユーチューブ・チャンネルで「ロシアは択捉島に核ミサイル基地を設置する可能性がある」とアドバルーンをあげた。
ところで、香田元海将は退官後、ハーバード大学アジアセンター 上席研究員に招聘されている。帰国後は伊藤忠商事顧問、ジャパン マリンユナイテッド顧問、国家安全保障局顧問となった。米国の大学や研究所で研鑽し、日米安保ムラのアドバイザーとなるのが近年の幹部自衛官の退職後の定番コースだ。小野寺元防衛相は政界に入る前にジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所客員研究員を務めている。上の参議院議員は三菱総合研究所政策・経済研究センターの国家戦略立案専門研究員を経て議員となっている。米国のインナーサークルに深く組み込まれているはずの彼らの上の発言がどこからもたらされているのかの解説は不要であろう。
■牽強付会な「力による現状変更」論
「G7(主要7カ国)の中で日本だけがロシアの力による現状変更を受けている。それは北方領土だ。」この小野寺発言は事実を歪めている。1945年2月にクリミアの保養地ヤルタで開かれた米英ソの会談で密約があった。それはナチスドイツの降伏から3か月以内にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して対日軍事侵攻するとの秘密合意である。米英はスターリンにその見返りとして日露戦争で失ったサハリンの南半分を回復し、さらに千島列島をソ連が占領するのを許した。
小野寺は「国後、択捉、歯舞、色丹の北方4島は千島列島に含まれず日本固有の領土である」との戦後の日本政府の主張があたかもロシアを除き国際的に認知されているかの如く、「力による現状変更を行った」としてロシアを非難している。
しかし、無条件降伏した際に日本が受諾したポツダム宣言によると、その第8条には「日本国の主権が本州、北海道、九州及び四国に限られるとのカイロ宣言の条項は履行されなければならない。主要4島周辺の諸小島の帰属は我々の決定に委ねなければならない。」とある。したがって、たとえ北方4島が千島列島に帰属せず「周辺の諸小島」と解されたところで、それが日本に帰属するかどうかはカイロ、ポツダム両宣言に署名した米英と当時の中華民国の3カ国によって決定されることとなる。1945年8月の日本降伏を受けて、同年9月にソ連は千島列島の一部として4島を占拠しており、米英中はこれを黙認した。実際、マッカーサー率いるGHQは1946年1月末、千島列島、歯舞群島、色丹島などの地域に対する日本の行政権を停止している。
昨今の中国脅威論で流行りとなった「力による現状変更」をロシアが行ったとの主張は牽強付会というべきである。
■片面講和で曖昧に
ソ連をはじめインド、チェコなど10カ国以上が締結せず片面講和となった1951年サンフランシスコ平和条約では千島列島の領有権を放棄している。しかし、千島列島の定義を曖昧にして後に4島が千島列島に含まれないと日本政府に主張させる余地を残した。
日本政府が「4島=固有の領土」と主張できているのは米国の対ソ戦略上の産物である。実際、米国務省が作成した同条約草案には1947年8月、1949年1月の段階では4島は日本の領土に盛り込まれていない。1949年10月草案において初めて「日本国の領土的範囲」として4島が加えられた。
1949 年 10 月 13 日草案 の第 1 章 領土条項 第 1 条第 1 項「日本国の領土的範囲は、四主要島並びに瀬戸内海の島々、佐渡、隠岐列島、択捉、国後、歯舞諸島、色丹、対馬、五島列島、北緯 29 度以北の琉球諸島、及び孀婦岩までの伊豆諸島を含むすべての隣接小諸島から成る。」
ただし次のような注目すべき注釈が付記された。
「択捉、国後、歯舞諸島及び色丹の島がヤルタでソ連に約束された千島(クリル)諸島の一部を構成するか否かについては、議論のあるところである。現在これらの島を占領しているソ連がそれを手放す見込はほとんどないにせよ、これらを日本に残す方が望ましいとの判断には、政治的、経済的及び戦略的理由がある。我々は、ソ連がそれを手放す見込がまずないことを承知で、この処置を提案すべきであると考えるのであって、そうすれば、ソ連が手放さない場合、我々は日本人の間で好意を獲得し、ソ連は日本人に不評をかうであろう」。
■小野寺歪曲発言の背景
「北海道の北半分(留萌ー釧路ライン)の占領をもくろみながらも果たせなかったソ連はその見返りとして北方4島を不法占拠した。4島は一度も他国に占領されたことのない日本の固有の領土であり、その占領は国際法に違反する」
概ねこれが日本の歴代政権の主張である。
しかし、平和条約の領土関係規定第3条1項からは上記草案レベルでの4島の名は消え、「千島列島は放棄する」とされた。条約締結を受けて開かれた1951年10月の衆院日米安保特別委員会で西村熊雄外務省条約局長は「(サンフランシスコ平和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考える」と答え、国後、択捉両島(南千島)の領有を事実上放棄していることを認めた。
その後、日本政府はソ連との国交回復交渉に向けて上の米国務省1949 年 10 月 13 日草案に付された注釈の線に沿って4島返還要求へと転じた。米国も後にヤルタ密約を「無効」と宣言している。それらはひとえに米国の対ソ冷戦の産物である。
よく知られたことだが、米国はロシア(ソ連)が米軍基地設置の可能性大として択捉島、国後島の返還を拒んでいるのを逆手にとり、日ソ間の北方領土問題の話し合い解決を妨害した。1956年に出された日ソ国交回復共同宣言で、ソ連と平和条約を締結しての歯舞、色丹の2島返還で妥協した日本の鳩山一郎政権に対して、ワシントンは「4島一括返還要求を崩すな」と横やりを入れ、妥協解決を妨げた。
「日本が国後、択捉をソ連に帰属させるのなら沖縄を米国の領土にする」との当時のダレス米国務長官の発言は「ダレスの恫喝」として名高い。プーチン政権下での4島を巡る日ロの話し合いでロシア側が「歯舞、色丹を返還したら米軍基地が設置されるか」と尋ね、日本の安倍政権事務方は「可能性はある」と答えている。日米安保条約と地位協定を踏まえれば、米軍は日本のどこにでも基地を置けられるからだ。
まさにワシントンは日本政府に恩を着せながら4島を政治的、戦略的に利用している。日米安保条約体制下では北方領土問題は永久に解決できない仕組みができている。
一連の経過を踏まえれば、北方領土問題の話し合い解決はあり得ないと示唆する小野寺発言は米国の代理人としての意図的なロシア攻撃である。日本の支配層はロシアと和解してはならず、絶えずロシアを北の脅威と位置付けねばならないのだ。
■幕末の19世紀半ばに遡る
現下のウクライナを巡る情勢は、1815年から1914年に及ぶ「イギリス帝国の世紀(imperial century)」と呼ばれたいわゆるパクスブリタニカの時期に遡って連動している。当時、ユーラシア大陸の西端クリミア半島で起こり東端カムチャッカ半島に波及した英国とロシアとの戦争は現在の米英とロシアとのウクライナを巡る対決と同じ構図にある。
クリミア戦争(1853年〜1856年)で英国はフランスとともにバルカン半島にその影響力を広げようとしたロシアを破った。その戦争の最中、イギリスはユーラシアの東端でもロシアに対する封じ込めに出た。
戦争は太平洋側のロシア極東でも行われている。フランス海軍とイギリス海軍の連合艦隊は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキーの包囲戦を行った。英仏連合軍は激しい砲撃を実施し1854年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。(左図を参照)
ロシアは、この戦いと並行しながら、エフィム・プチャーチン海軍中将を日本との開国交渉にあたらせていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発、1853年8月に長崎に到着し外交交渉に着手した。1855年1月には日露和親条約が締結されている。
一方ジェームス・スターリング中国・東インド艦隊司令官率いるイギリス海軍が1854年9月に長崎に来港した。ロシアのプチャーチン艦隊はすでに長崎を去っていたが、スターリングはイギリスとロシアが戦争中であり、ロシアはサハリンおよび千島列島への領土的野心があると幕府に警告した。
米国は1854年に日米 和親条約を締結後、ペリー米艦隊が開港させた箱館(函館)に半月滞在し、不凍港を求め箱館に進出していたロシアを監視した。英国がダントツの数の艦船13隻を寄港させた当時の北海道・函館は日本における米英とロシアとが対峙する最初の場所となった。
■NATO加盟し英国と同盟する日本
ウクライナ戦争とも言い換え可能なクリミヤ戦争の只中、英国はロシアを極東から排除するコマとして日本を使い始め、やがて日英同盟(1902~1923)を締結することになる。今日の米英は北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大によるプーチン・ロシアとの対決を主導する一方で、極東・東アジアでは日本を中国包囲網の先兵としてだけではなく、ロシアの封じ込めにも露骨に活用し始めた。
ここ10年で日本は事実上NATO加盟国となり、英国は米国に次ぐ日本の軍事同盟国となりつつある。日本の安保ムラは米英の意向を自動的にくみ取るかのようにロシアの脅威を煽り始めた。注
植民地支配・帝国主義の時代は20世紀で終わった。しかしながら皮肉にも、クリミア戦争勃発から170年近く経った21世紀の今日に至るも、世界のパワーバランス・抗争地図に大きな変化は見られない。領土不拡大を取り決めた大西洋憲章や国連憲章は形骸化しつつある。英米ブロックとロシア・中国ブロックの対立はユーラシア大陸と太平洋における覇権を巡るかつてない規模の軍事緊張を引き起こしている。
今回のロシアのウクライナ軍事侵攻は第二次大戦後の国連を柱とする国際秩序を根底から破壊した。それは戦勝国連合(国連:theUnited Nations)の柱である安全保障理事会常任理事国5カ国を米英ブロックと中露ブロックへと決定的に分裂させ、国連の存在の一層の形骸化を伴う世界の二極対立の復活を意味する。
注:2020年11月23日掲載記事「『日本の右翼政権に軛かける』 新日英同盟と拡大NATO」、2021年11月25日掲載記事「中国を封じ込め日本を操る米英の策略を見抜け 近代日本第三期考1 差替版」など一連の関連記事を参照されたい。
下の2つの図は20世紀初めにロシアが中央アジアから東アジアにかけて南を勢力圏とした英国に包囲されている姿を示している。1902年に同盟国となった日本が中国東北部(満州域)まで勢力圏を伸ばしたロシアを締め出しそこに自らの権益圏を形成するのを英国はある程度までは黙認できたはずだ。