ゴルバチョフ口説いた文鮮明 旧統一教会、究極目標のソ連解体に暗躍 

統一教会は韓国人、キリスト教の仮面をかぶったCIA主宰の米国の政治工作団体であるー。本ブログはこれまで統一教会問題の核心をこう表現してきた。ソ連最後の指導者ミハエル・ゴルバチョフが8月30日に死亡したが、統一教会は米英のソ連邦解体計画に関与し、1991年12月のソ連崩壊に直結した同年8月のゴルバチョフ追放クーデター未遂事件を誘引する役割を果たした。キリスト教を偽装するこのカルト教団は裏工作に徹するCIAではとてもなしえない力を時に発揮した。統一教会は反共団体の究極の目標であったソ連解体で大きな役割を果たし、しかも財団資金を賄い退任後のゴルバチョフの活動を丸ごと支えたのだ。「朝鮮半島や日本での反共運動の担い手」という統一教会を巡る既成概念は覆されている。にもかかわらず、日本の既成メディアは統一教会とソ連崩壊の関係についても固く口を閉ざす。

■文鮮明とゴルバチョフ

【写真】本の著者は久保木修己・初代日本統一教会会長。安倍晋三元首相に多大な影響を与えたとみられる。2004年発刊の遺稿集「美しい国」は安倍のベストセラー、2006年刊行の「美しい国へ」に受け継がれた。

 

教祖文鮮明は1990年4月にクレムリンに乗り込みゴルバチョフ書記長に「宗教の自由を認め、共産主義を棄てなさい」と口説く。それは1989年から翌90年にかけ東欧諸国に民主化ドミノが起きソ連型社会主義が相次ぎ放棄されていた最中であった。ゴルバチョフは東欧諸国への軍事介入を断念し民主化を容認せざるを得なかった

「共産主義を棄てよ」と説く文鮮明に対し、ゴルバチョフは「棄てる」とは言わなかった。だがゴルバチョフは89年12月に人民代議員大会を設置し、90年3月には複数政党制と大統領制を人民代議員大会で採択させ、事実上ソ連でもスターリン型の一党独裁体制は破棄されていた。その政治改革の到達点が社会民主主義路線であるとはっきり示唆するようになり、翌91年にはソ連は解体の瀬戸際に追い込まれた」と捉えた連共産党保守派によるゴルバチョフ追放クーデター未遂事件が発生。この際に、ゴルバチョフは兼任していた共産党書記長を辞任し、ソ連共産党を解体した。

米英はソ連共産党保守強硬派の危機感を煽り1991年8月クーデターの企てへと動かせ、これを発火点として同年12月のソ連崩壊を達成した。文鮮明は改革に抵抗する保守強硬派にゴルバチョフへの不信を増幅させる格好の人物だったようだ。そのクレムリン訪問も米ソ首脳により東西冷戦の終結が宣言された直後の絶妙のタイミングであった。

それでは文鮮明はどのようにしてクレムリンに送り込まれたのか。

鮮明は「(1990年4月にモスクワで開かれた)世界言論人会議に出席したが、私の関心はゴルバチョフ大統領との会見に集中していました。当時、ペレストロイカ政策が成功し、ソ連国内でのゴルバチョフの人気はとても高いものでした。それこそアメリカの大統領には10回でも会うことができる私でしたが、ゴルバチョフに会うのは難しい時でした。」と回想している。この回想を素直に受け取れば、よほどのコネクションがなければゴルバチョフとの単独会見などありえなかったということだ。

■ブッシュの代理:クレムリンへの道

米国の統一教会元幹部らの証言によれば、統一教会は共和党大統領候補として当選したドナルド・レーガン、ジョージ・ブッシュ親子、ドナルド・トランプの選挙を資金面で支え組織を挙げて支援している。これら共和党系歴代大統領の下で1970年代半ばから1980年代にかけ権力中枢にのし上がってきたジャック・チェイニー、ドナルド・ラムズフェルド、ルイス・リビー、ポール・ウオルフォビッツら権勢をふるうネオコンと統一教会の関係も強固なものとなる。チェイニーらが経営に携わった軍需関連企業ハリバートンなどへの隠れた投資活動も活発化したとみられる。

この統一教会と結びついた米国のネオコンたちが日本の自民党の主流をリベラル派とされた保守本流宏池会から安倍晋三長期政権の派閥清和会へと転換した。清和会政権により戦後日本の安保・外交政策は中国封じ込めを目的とする好戦的な大軍拡路線へと転換する。

レーガン大統領(1981-1989)は統一教会傘下の「ワシントンタイムズ」を愛読し、同紙の取材を通じてしばしば重要なメッセージを発した。脱税罪で収監された文鮮明の身柄釈放を嘆願した岸信介の手紙を受け取ったレーガンは、実現はしなかったが、釈放を働きかけたという。これはレーガンの政治活動にとって、文鮮明と統一教会の存在がいかに大きなものであったかを示唆した。

12/7/1988  New York

1970年代半ばにCIA長官を務め、「統一教会の支援がなければ大統領になれなかった」と公言していたというブッシュ父大統領の経歴はCIA一色と言える。1948年に大学を卒業後、ハリバートン関連会社に勤め共産圏を含め世界各国で石油資源情報の収集にあたる。CIAの生みの親の一人、第五代CIA長官(1953-61)アレン・ダレスにスパイとして雇われた貴族出身の亡命ロシア人ジョージ・ド・モーレンシルトとブッシュ父は頻繁に接触して共産圏の石油関連情報を得て、CIAに提供していたという。

アレン・ダレスはCIA長官として1954年の統一教会創設に深く関わっており、ブッシュ父が早くから統一教会と関係を持ったのは間違いない。後年統一教会ブッシュ父子の大統領選挙で大掛かりな戸別訪問を展開、資金援助を与え、一方父子は教会の「広告塔」として関連イベントで頻繁に講演し、多額の報酬を得ていた。

1985年3月にゴルバチョフはソ連共産党書記長に就任。ペレストロイカ、グラスノスチを合言葉に停滞したソ連社会に新風を吹き込んだ。その時、米英の保守派エスタブリッシュメントは「チャンス到来」と冷ややかに微笑んだのではなかろうか。米国の大統領はレーガンで、副大統領はブッシュ父。最強の反共破壊工作コンビだったからだ。

レーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と呼んだ1983年にはレーガン政権はネオコン論客を動員して新たなソ連解体計画の作成を終えていたはず。当時のソ連はアフガン侵攻や米国との軍拡競争などで疲弊し、庶民の生活レベルでは二大国とは名ばかりの経済的窮状に追い込まれていた。ゴルバチョフら改革派の台頭は自然な流れであった。改革政策をソ連解体にまで導くー。これがワシントンの差し迫った目標となる。

ペレストロイカ政策で統一教会はソ連での布教が可能になった。急速に進む米ソ緊張緩和、冷戦終結の流れの中で文鮮明のブッシュ代理人としてのクレムリンへの道が切り拓かれていく。

■ソ連解体計画の進捗

レーガン大統領は1982年にバチカンを訪れローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会見した。ウォーターゲート事件報道で名高いカール・バーンスタインの著作「The Holy Alliance」によると、会談の大半の時間がソ連の東ヨーロッパ支配の問題に費やされ、ソ連を早急に解体するための秘密工作を実行することで合意したという。ポーランド出身のパウロ2世の登場と1984年に米国とローマ教皇庁が正式に外交関係を樹立したことで米国の対ソ秘密工作は本格的に動き始めたようだ。

その翌1985年にゴルバチョフが登場しペレストロイカ政策が打ち出された。だがこれを考案したのはKGB第一副議長でKGBの頭脳といわれたフィリップ・ボブコフだとされている。ボブコフと KGB の同僚らは「ペレストロイカは自分たちが考案した」と公言していたという。KGB経由でソ連共産党政治局にペレストロイカが導入され、ゴルバチョフの改革志向と共鳴したとしても、「ソ連の政治体制改革」が「ソ連の崩壊」へとつながったのはひとえにゴルバチョフ率いたソ連共産党政治局の責任であろう。このころは統一教会もモスクワを中心にソ連でかなり活発に活動していたが、ボブコフらを西側諜報機関とつなぐ糸は見いだせない。

ゴルバチョフは1991年7月にロンドンG7サミットに招待された。経済宣言は、ゴルバチョフの参加を讃え「我々はソ連における政治上及び経済上の転換に向けた動きを支持し、ソ連の世界経済への統合を支援する用意がある」と謳った。これはペレストロイカを新自由主義の導入にまで進めるよう促したことになる。ゴルバチョフが市場万能主義導入を拒否すると、翌8月に「クーデター未遂」が引き起こされ、ソ連を強引に消滅させたボリス・エリツィンが登場する。

ルスラン・ハズブラートフ元ロシア最高会議議長によると、エリツィンは指導者としての任期中ずっと数百人ものCIA工作員に取り囲まれ、指図を受けていたという。米国の傀儡とまで言われるエリツィン一派こそペレストロイカに便乗してソ連解体を図ったグループとみて間違いない。CIAと統一教会は一体であり、エリツィン政権発足以前から統一教会グループは「政治的道具」として宗教、教育、文化などさまざまな分野で活動していたと思われる。

高名なロシア人宗教学者は「統一教会はまず、莫大な資金を注ぎ込んでロシア教育省と太いパイプを築いた。学校教師らをロシア南部のビーチリゾートへ連れていき、セミナーをやるなどして、啓蒙活動を展開した」と明かし、「ソ連の国家元首が、現役の一国のトップとして一番最初に文鮮明に会ってしまった。ゴルバチョフの側近らにプロ意識がなかった」と批判している。

■「青臭い」ゴルビー

 

冷戦を公式に終結させたとされる1989年12月に開かれたマルタ会談。

共同声明発表に当たって、ゴルバチョフは次のような談話を発表した。

「世界は一つの時代を克服し、新たな時代へ向かっている。我々は長く、平和に満ちた時代を歩き始めた。武力の脅威、不信、心理的・イデオロギー的な闘争は、もはや過去のものになった。私はアメリカ合衆国大統領に対して、アメリカ合衆国と戦端を開くことはもはやないと保証する。」

これを読んでワシントンに集う米ネオコン達=写真=は「なんと青臭い!」とせせら笑ったという。

ソ連崩壊からわずか3カ月後。1992年2月に米ネオコンによって米国防総省の新世界戦略と称される国防計画ガイダンス(Defense Planning Guidance・DPG)草案が作成された。作成の中心となったのは当時の国防次官ポール・ウォルフォウィッツで、ウォルフォウィッツドクトリンとも呼ばれる。ソ連亡き後の新世界秩序とは米国の単独覇権世界であり、米国の脅威となる勢力は力で潰すと謳った極めて好戦的な内容だ。

ゴルバチョフは国連軽視、先制攻撃、単独行動も辞さない米帝国主義の本性を甘く見た。彼の理想主義はネオコンの凶暴で冷徹なリアリズムから見ればあまりに脇が甘かった。文鮮明をクレムリンに入れたのも同様であろう。

9月1日付朝日新聞朝刊は2009年にゴルバチョフが来日した際に面会した作家佐藤優の回想を掲載している。

「米国帝国主義への警戒心が欠如していたのですか」と問うと、ゴルバチョフはニタッと笑い「おまえの言う通りでいい」と答えた。