ポツダム宣言受諾は”条件降伏” 岩盤として残った戦前の基層

「変わらぬ日本」。なぜ日本社会の基層に根付く戦前と戦後との連続性ににこだわるのか?さらに理由を述べてみる。

■宣言受諾:天皇信仰からの解放?

戦前・戦中の日本の天皇大権を基礎とする専制的統治者にとって国体護持こそ「絶対価値」だった。したがって、戦後民主主義を考え、評価する上でカギとなるのが天皇制が象徴として存続したことである。曲がりなりにも国体が護持されたため、戦後社会は戦前の統治システムをその基層に温存した。バブル経済崩壊後の「失われた30年」において、基層が表層にマグマのように噴出し始める。

掲載記事「変わらぬ日本その1」で「1970年代、少なくとも、メディア関係者の間では、天皇制は民主主義に合致しないとの意見が多数派であったと断言できる。」と書いた。

これに対しては、英国をはじめ世界には成熟したかなりの数の民主主義国が象徴国王を抱いた形だけの立憲君主制を敷いているではないか、との反論が出よう。しかしながら、日本の近代天皇制が専制的軍事国家に包み込まれ、近代史上に他に類を見ない極め付きの暴力装置と化した経緯に目をそらすわけにはいかない。

話は少々脇道に逸れるが、英国と日本との現代君主制を巡る世論にも断絶とも言える差がある。

英国を代表する週刊誌「エコノミスト」は1994年に君主不要論をさらりと以下のように論じた。

「正しい問いは、王制は現代デモクラシーにとってふさわしい構成要素なのか、である。我々は、君主制の時代はもはや去ったと考える。」(1994年10月22日号)

 

日本では今や象徴天皇制を是認する世論は7割を超え、「君主不要論」はタブーとさえ化している。

復習してみよう。日本を無条件降伏させたとされるポツダム宣言の核心は何だったのか?

日本人を天皇信仰から解き放つことにあった」。

ところが日本が宣言を受諾する際、米国の主流派は天皇制存続を暗黙合意していた。当然にも、それが米国の「国益に最も適う」と判断されたからだ。したがって、無条件とされた日本の降伏は事実上条件付きとなった。

 

■天皇制と憲法9条

ならば、憲法制定過程において天皇制存続(国体護持)はどのようにして可能となったのか。

天皇制存続は戦後の非戦・平和運動のバイブルとなった憲法9条の「戦争・武力行使の放棄、戦力の不保持」とバーター取引されていた。幣原喜重郎首相(当時)が1946年1月にマッカーサーに提案し、採用されたというのが今日ではほぼ定説になっている。ただ米国に帰国後赤狩りの標的となったGHQ・民生局(GS)の社会民主主義者・ニューディーラーが主導したとの見方の方が力関係からして理解しやすい。

「戦力を一切持たず、戦争を放棄した」日本であれば、「国民の総意(民主主義)」に基づき、天皇制を「国民統合の象徴」として存続させても、日本が再び他国の脅威になることはないというのが幣原の論理であった。国際協調外交を貫いた幣原にしても国体護持は絶対だった。

ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルドといった巨大金融資本・ウオール街を後ろ盾とし日本の貴族階級・天皇側近と結ぶ前駐日大使J・グルーらが率いる米保守支配層は米国単独での新憲法制定を急いだ。天皇制存続に暗黙合意していた米国は、ソ連、豪州など極東委員会(在ワシントン)を構成する過半の国が天皇制廃止を主張していたのを警戒したためだ。

マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は焦っていた。GHQ民生局による新憲法草案の取りまとめは1946年2月3日に着手され、同13日に草案は日本政府に提示された。一方極東委員会は1946年2月26日に第一回会合を持った。し烈な時間競争が展開された

■憲法草案は広範に議論?

極東委員会は第1回会議を開き、活動を開始した日本政府が同年3月6日に「憲法改正草案要綱」を突然発表してマッカーサーが支持声明を出すと、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。そこで同委員会は3月20日付文書で、憲法草案が可決される前にこれを審査すべきと主張。4月10日に憲法改正問題に関する協議のためGHQの係官をワシントンに派遣するようマッカーサーに求めたが、拒否された。

4月5日に東京で開かれた対日理事会の初会合でマッカーサーは、「憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになる」と主張した。極東委員会では、米国代表であるフランク・ロス・マッコイ議長ですらマッカーサーを支持しなかった。

同委員会は1946年4月10日に実施された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。しかし総選挙は予定どおり実施された。これを受けての第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」は審議され、憲法改正手続きは10月7日に終了する。

■国体護持した占領憲法

GHQは上記総選挙をもって、日本政府の「3月6日案(憲法改正草案要綱)」に対する国民投票と見なそうとした。言うまでもなく、それには無理がある。国会議員(代議士)を選出する総選挙を国民投票と見なすことはできない。改正される明治憲法には定めがなかったが、何らかの形での独立した国民投票が必要だった。現憲法第一章(天皇条項)における天皇の地位はそれを通して初めて「主権の存する日本国民の総意に基づく」ことになるからだ。

極東委員会が至極当然に批判したように、敗戦直後の人々の第一の関心は当面の生活の維持、安定にあり、新憲法草案にまで関心は向かなかったと見るべきである。総選挙をもって国民投票とみなすGHQの姿勢はあまりに強引と言わざるを得ない。今日の米国でもマッカーサーの越権行為との見方が有力である。

安倍政権の取り巻き・日本会議に代表される偏狭なナショナリストたちが貶(おとし)める「わずか9日間で作成された米国製ペイスト憲法」こそが天皇制を存続させたのである。マッカーサーとその周辺による占領憲法草案の「押し付け」がなければ天皇制の存続もなかった。彼らはこの事実を謙虚に直視すべきである。

■「八月革命」という詭弁

現憲法前文は「日本国民は、…ここに主權が人民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と謳い、民定憲法と宣言している。明治憲法の改憲手続きには、国民投票の定めはない。現憲法への改憲手続きは明治憲法の条文に従って行う他に手段がなく、国民の意思(総意)は反映されなかった。

このため、学者を中心に憲法改正限界説が唱えられ、日本国憲法の成立過程をいかに法的に説明するかが問題となった。そこで問題は「ポツダム宣言の受諾によって主権の所在は天皇主権から国民主権へ移行した」とする宮沢俊義の八月革命説により決着が図られた。これは限りなく詭弁に近い”学説”である。宣言のどこを読んでも、米英中の三カ国は日本に人民自らの手で民主的政府を樹立せよと求めているに過ぎない。あえて言えば、GHQ・GSによる憲法草案の起草は「人民主権を確立する革命の主体」形成を促進しようとしたものであり、日本民衆の総意をくみ取ったわけではない。八月革命説は他に説明の仕方がなかったにせよ、言い逃れ、欺瞞であるの誹りは免れない。

天皇制との両立を求められる戦後民主主義は手続き的にも正当性を得ていないのだ。何らかの措置を講じ、1947年憲法、とりわけ象徴天皇制の是非を巡る国民投票の実施が不可欠だったと考える。この投票は筆舌に尽くしがたい戦禍を生き抜いた戦中世代の多くが存命していた1950年代に遅くとも実施されるべきであった。荒唐無稽と誹られようと、「国民の総意」は国民投票を通じてしか具現しないからだ。