古代から日本を縛る中国敵視 戦前体制の清算は不可欠    

日本人の中国人に対する対抗心は19世紀末の日清戦争勝利を境に優越感に変わった。その後の中国侵略では「横暴な中国人を懲らしめる」という意味の「暴支膺懲(ようちょう)」「膺懲支那」がスローガンとなり、驕り高ぶった日本人は中国人を侮蔑してシナ人と呼び、中国戦線に参加した日本の将兵はチャンコロと蔑んだ。1945年の敗戦後、このような侮蔑語は社会の表層からいつしか消え去った。だが、日本人に刷り込まれている中国と対峙する帝国意識、対中敵愾心の淵源は古代倭国に遡る。この根深い中国観を見直し、戦前体制からの完全脱却を志向すれば、現在進行形の米中冷戦と米国主導の中国封じ込め戦略への参加にブレーキが掛るはずだ。

■大帝国に対抗する小帝国

日本古代政治史家、倉本一宏氏は「近代日本のアジア侵略の淵源は古代の倭国や日本にある」と明快に説いている。(「戦争の日本古代史」好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで 講談社現代新書)

以下、私見を若干交えながら、同書終章「戦争の日本史-近代日本の奥底に流れるもの」を要約紹介してみる。

前近代の日本および倭国は、外国勢力の侵攻を撃退したものを除くと、対外戦争の経験は極めて少なかった。国外で実際に戦争を行った例は、五世紀の高句麗との戦い、七世紀の白村江の戦、十六世紀の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の3回しかない。

中国と戦争をしたのは白村江の戦と秀吉の朝鮮侵攻だけである。ただし、戦場は朝鮮半島で、中国に攻め入った事例はない。近代の朝鮮問題を巡って戦われた日清戦争や日露戦争も朝鮮半島を主な戦場の一つとした。

対外戦争をほとんどしてこなかった日本は、何故に近代に突然、朝鮮を手始めにアジアへの侵略を始めたのか。もちろん、直接的には「明治維新」後の藩閥政府の東アジアでの覇権を求めようとした帝国主義志向に解明の道がある。しかし、その淵源は、古代の倭国や日本にあり、中華大帝国に対抗しようとする小帝国志向が長い歴史を通じて醸成され、蓄積された。それを通じて対中国観と対朝鮮観、そして敵国視が幾度にもわたって再生産され、近代日本人のDNAに植え付けられてしまった。

キーワードは「東夷の小帝国」である。日本および倭国は中華帝国よりは下位であるが、朝鮮諸国よりは上位に位置し、蕃国を支配する小帝国であるとするというものだ。一見荒唐無稽な主張に思えるが、例えば①四世紀末から五世紀初頭にかけ百済、伽耶、新羅を「臣民」にしたという認識、②倭国の支配者が五世紀に朝鮮半島南部に対する軍事指揮権を中国(宋)の皇帝から認められたことを記憶に深く刻印したこと-は、後世まで大きな影響を及ぼした。

一方、東アジア史の専門家、岡田英弘氏はこの間の事情を著書「日本史の誕生」(筑摩書房)で要約次のように述べている。

「七世紀半ば(六六〇年)、唐帝国は新羅と連合し、倭国の同盟国・百済を滅ぼした。百済再興を図ろうと援軍を送った倭国は六六三年の白村江の戦で唐軍に大敗。アジア大陸から締め出され海中に孤立した倭人は結集して日本列島最初の統一王国・日本国を作った。」「中国に対抗して独自のアイデンティティを主張するため国史『日本書紀』を編纂し、七二〇年に完成させた。」「『日本書紀』で表現された日本は、中国とは対立する、まったく独自の正統を天から受け継いだ国家であるとの一種の中華思想に基づいているため、中国と日本とを両立できなくしてしまった。これは永く日本の性格を規定した。

以降、万世一系の天皇の統治する日本は「自国を朝鮮半島の支配権を巡って中華帝国と対抗するもう一つの帝国である」と規定されてきたのだ。

■明治維新の原動力

尊王思想は江戸中期に「将軍は天皇から大政(国政)を委任されて日本国を統治している」との大政委任論となって現れる。一六四四年に中国・明が滅び、漢民族が満州族の清に滅ぼされたため、日本こそが儒学の正統だとの認識が儒学者の間で定着した。山鹿素行は「日本こそ中国である」と論じた。儒教思想の日本への定着は、華夷思想の日本への定着を意味し、近代の皇国史観の原型を形作り、「日本版中華思想」の下地となった

江戸時代中期から後期にかけて発達した古典研究の一学派である国学は,儒教、仏教渡来以前の,日本固有の精神,文化に傾斜し、古事記、日本書紀をはじめ神道、歌学、有職故実などの諸領域にわたる研究を対象とした。幕末期の平田篤胤にいたって復古思想がことさら強調されて皇国史観の礎・水戸学を興隆させ、尊王攘夷をスローガンにした倒幕運動の思想的拠り所、明治維新の原動力となった。

尊王攘夷の思想には上で詳しく見たように朝鮮蔑視、中国への対抗心が刷り込まれている。これを理解すれば今日の日本政府が米国に追従して中国包囲網へ積極的に参加しようとするパトスが理解できる。

吉田松陰を心酔させて、高杉晋作、久坂玄瑞、明治の元勲となった伊藤博文や山縣有朋らにも間接的に影響を与え、維新の志士たちの必読書だったと言われる水戸学の会沢正志斎の「新論」、大久保利通に東京遷都のヒントを与え、満州を手始めに中国征服を世界征服の第一歩とすることを提唱して、昭和期の日本陸軍幹部ら超国家主義者が愛読したとされる佐藤信淵の「混同秘策」、そして対米戦開始直前に旧文部省が公表した「国体の本義」などは「日本書紀」以来の日本版中華思想のバリエーションと言える。

■優越感の逆転に際して

この日本版中華思想の大破たんが1945年8月15日のポツダム宣言受諾・敗戦である。米国の戦中、戦後の対日政策の策定ではロックフェラー財団が大きな役割を果たした。1951年サンフランシスコ講和締結を翌年に控えジョン・F・ダレス率いる使節団の一員として訪日したジョン・ロックフェラー3世=写真は太平洋戦争の最中米国の対外政策決定に対して著しい影響力を持つ外交問題評議会(CFR)で行われた対日占領方針を巡る討議に参加。「日本占領に際しては朝鮮蔑視、中国、ロシア、アジア諸国に対する優越感、米英をはじめ西洋諸国と対等に扱われたいとの強い願望を利用すべき」と提言している。

今や経済力、軍事的なプレゼンス、国際的発言力のいずれにおいても中国が日本を逆転し、日本人は対中優越感を喪失した。米中冷戦が決定的となった今日、ワシントンは大方の日本人が抱く屈辱感と反感、そして優越感を取り戻したいとの願望を逆手に取り、日本政府を中国包囲網の重要な駒として最大限に利用している

2000年近い日中関係史を冷静に見つめ、「東アジアでの覇権争い」という時代錯誤なナショナリズムとその確執から解放されて、新たな和平・共存の道を模索すべき時期に際会している。まずは中国蔑視と対中優越感の淵源と言える皇国史観、戦争責任の根源である戦前レジューム=近代天皇制の清算が求められる。