目次
■戦場からの告発 ― “大日本帝国”の実像
■大正天皇望遠鏡事件 ― 権威の空洞化
■伊藤博文と外見的立憲主義
■ 19世紀日独比較 ― 立憲主義の土壌の違い
■銅像の不在が語る“化粧”と“骨格”
■大正デモクラシーの逆説
■民衆運動の台頭と国家の反動
■バーデンバーデンの密議と昭和軍国主義の胎動
■民主化の挫折と戦後民主主義の未完
■水俣に見る明治の“背骨”の残存
■章の総括 ― 化粧と背骨の百五十年
明治国家は、立憲主義の外観をまといながら、その内側に山県有朋が築いた軍事官僚制という“背骨”を埋め込んだ。伊藤博文の制度設計は化粧にすぎず、国家の実質は天皇大権と軍部の専制に貫かれていた。
大正デモクラシーは、この外観に初めてひびを入れたが、民衆の主体化は軍事・官僚機構の反動に押し戻され、昭和の総動員体制へと収斂した。
戦後民主主義もまた制度としては刷新されたが、国家の深層に残された“背骨”は取り替えられず、民衆の側に立つ者はしばしば排除された。
本章は、明治以来の日本近代を貫く「外観の近代と内実の前近代」という二重構造を明らかにし、その構造が戦争国家を生み、戦後にも影を落とした過程をたどる。「大日本帝国とは何か」との帰還兵の告発、帝国憲法、戦争国家の淵源、大正デモクラシーを柱としてとり上げ、「日本近代化の仮面」をはぎ取ってみる。
■凄惨な戦場からの告発-大日本帝国とは何か
戦後間もなく、筆者が耳にした日中戦争や対米戦争から帰還した将兵たちの声は、国家が掲げた「聖戦」や「東洋平和」「大東亜共栄」といった言葉とは、まるで別の世界の響きを持っていた。
彼らの語りは、理念や大義の影に隠された、むき出しの現実そのものだった。フィリピン・レイテ沖で戦艦武蔵が沈む直前、艦内は砲撃で破砕された肉片と血で満たされ、床も壁も区別がつかないほど赤黒く染まっていたという。生き残った兵士は、その光景を生き地獄と記憶した。国家の威信を象徴する巨大な軍艦は、最後には人間の身体を容赦なく呑み込み、沈んでいった。
筆者の父親もまた、中国戦線で同じような場面を目にしたと語った。
「戦闘が終わると、砲兵部隊は前線の歩兵部隊に駆け付ける」「血の海の中、死にゆく兵隊は皆、『母さん…』と呟いて息を引き取った。『天皇陛下万歳』なんて聞いたことがない」
「丘の上の敵陣地に乗り込む。足に鎖をまかれた蒋介石軍の少年兵が内臓むき出しで息も絶え絶えだった。安楽死させた」
「(北支で)日本軍が占拠できたのはせいぜい駅と駅の間。八路軍(共産党軍)のゲリラ戦法には打つ手がなかった」
「農民と共に働き戦う八路軍。日本軍は食料調達もままならず全面勝利などありえなかった」
「慰安婦は軍が直接徴用した。戦地に民間業者が来られるはずがない」
「戦争なんて、あんな無益で、ばかげたものはない」
嗚咽をこらえて語った言葉の数々は、戦場の残酷さを超えて、「『大日本帝国』とは何か」を問う響きを持っていた。
帰還兵たちの証言は、戦争がいかに“国家の大義”とは無縁の場所で進められたかを静かに告発している。
「巨大な軍艦を建造した企業は莫大な利益を得ながら、経営者たちがそこに乗り込むことは決してなかった」。
「精神主義と白兵突撃を重んじ、兵士の生命を軽視した軍の戦術は、第一次世界大戦の教訓を学ばず、無数の若者を死地へと追いやった」。
「国際法をもてあそぶかのように捕虜の首を次々にはねた」。
これらの証言は、戦場で露呈した暴力と欺瞞が、偶発的なものではなく、国家の制度そのものに埋め込まれた構造的な問題であったことを示している。
■大正天皇望遠鏡事件の意味
国家の暴力と欺瞞の根は、国家の中心に据えられた天皇制そのものにあった。立憲君主国家の外観を整えながら、その中心に据えられた君主が政治の実質を担えず、誰も責任を負わない――この構造的矛盾は、制度の成立当初から国家の深部に横たわっていた。
1930年代に中国戦地で従軍した帰還兵から、大正天皇が帝国議会開院式で勅書を丸め望遠鏡のようにして議員席を覗いたという話を聞かされたことがある。いわゆる「望遠鏡事件」である。
この逸話は史実としての確証こそ乏しい。だがしかし、重要なのはそれが戦争の最前線の部隊内部で語られていたという事実である。当時の軍人の中には、建前として天皇を尊敬しつつも、「天皇のためにやすやすと殺されてたまるか」という体制への反発や冷笑を抱く者が少なくなかった。この人物が語った大正天皇への冷笑は、天皇制国家の深部で何が起きていたのかを示唆している。
つまり、この逸話の真偽を超えて、君主を中心に据えた立憲国家という外観と、その内側で進行していた権威の空洞化が、すでに当時の人々の感覚に刻まれていたのである。望遠鏡事件は、その矛盾を象徴的に浮かび上がらせる“時代の心象風景”として理解すべきだろう。
帝国憲法はまさに「洋服」である。日本は外向きに立憲国家の体裁を整えようとした。だが、その内実は天皇大権による近代以前の専制的統治原理が支配し続けた。「靴を脱ぐ」文化が残ったように、政治の深層には近代立憲主義とは程遠い異質の論理が根を下ろしたままだった。
帝国憲法は、欧米列強に対して「日本はアジア初の近代国家」と示すための外向きの装置として導入された。条文は一見整い、議会が設置され、国民の権利も列挙された。しかし、当然ながら、そのすべてが天皇大権の枠内に置かれた。立憲主義の核心である「人民が国家権力の行使を制限して縛る」権利は顧みられず、制度の外観と政治の実質の間には決定的な乖離があった。
戦場で剥がれ落ちた“近代国家の仮面”は、いつ、どのようにして作られたのか。その起点を探るためには、明治国家の制度設計――とりわけ伊藤博文が欧州で憲法を学んだとされる「憲法修業」の原点に立ち返らなければならない。
■伊藤博文と外見的立憲主義
伊藤博文の「憲法修業(1882~1883)」は、後世しばしば美化されて語られてきた。とりわけ旧帝大系の歴史学は、伊藤が欧州で“立憲主義の奥義”を学び取ったかのように描く傾向にあり、明治国家の権威を支える物語を形成してきた。しかし実際には、彼が欧州で接した立憲主義の核心部分――市民の権利、議会の権限、社会的対立(階級闘争)を制度として調停するという思想――を理解し、受け入れる意図は最初からっまったくなかった。むしろ、自由民権運動を抑えつつ、欧米列強に対して「文明国の体裁」を整えるための制度的外観を探す旅であった。
伊藤はベルリンでルドルフ・フォン・グナイストから、ウィーンでローレンツ・フォン・シュタインから講義を受けた。だが、彼らが属していたドイツの知的世界は、日本とは根本的に異なる歴史的経験を持っていた。ドイツは1848年の三月革命を経て、フランクフルト国民会議では国民の基本権を明確に規定した「市民憲法案」を採択している。革命は挫折したものの、その後も各領邦の憲法には検閲の廃止、信教の自由、財産権、法の下の平等などの人権規定が盛り込まれ、市民社会の自立と政治参加の意識は確実に根付いていた。ドイツは市民革命の伝統と、上からの国家統一が複雑に絡み合う国であり、立憲主義の土壌は日本とは比較にならないほど深かった。
■19世紀日独は「水と油」
シュタインは、フランスの社会主義・共産主義をドイツ語圏に紹介した『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』の著者であり、社会的対立(階級闘争)を国家が調停するという「社会国家論」の先駆者であった。彼にとって憲法とは、市民社会の自立と社会的対立の制度化を前提とするものであり、国家は社会の上に君臨するのではなく、社会の内部に位置づけられるべき存在であった。これは、天皇大権を中心に国家を構築しようとしていた伊藤とは、まさに水と油の関係であった。
伊藤はシュタインの講義を受けたが、その核心部分――市民の権利を基礎にした立憲主義――を採用することはなかった。彼が求めていたのは、民権運動を抑制しつつ、天皇大権を最大限に保持できる制度であり、立憲主義の外形だけを輸入するための理論的裏付けであった。
伊藤が最終的に依拠したのは、グナイストやシュタインではなく、君権至上・官僚制中心の立場に立つアルベルト・モッセであった。モッセはプロイセン官僚制の専門家であり、行政権を強くし、議会の権限を抑える制度設計に長けていた。伊藤は彼を日本に招聘し、官制・地方制度・行政法体系の整備に深く関与させた。
その結果、明治憲法は、ドイツ帝国憲法の「国家の骨格」だけを取り込み、各邦憲法に存在した人権規定や、1848年革命が生み出した市民的立憲主義の伝統は完全に切り落とされた。これは外見的立憲主義の典型と言える。ビスマルク憲法が権利章典を欠いていたことは、伊藤にとってむしろ都合がよかった。市民の権利を憲法の中心に置かずとも、立憲国家の外観を整えることができたからである。
こうして、伊藤の訪欧は「立憲主義を学ぶ旅」ではなく、「立憲主義の核心を避けつつ、外観だけを輸入する旅」として終わった。ここに、日本近代を貫く二重構造――外観の近代と内実の前近代――の出発点があった。
■戦争国家の淵源―化粧の伊藤、背骨の山県
皇居外苑を歩くと、まず目に入るのは楠木正成の騎馬像である。
南朝の忠臣として語り継がれた武将が、いまも皇居を守るように立っている。その少し先、靖国神社の参道に入れば、今度は大村益次郎の像が迎える。維新の軍制改革を担った人物だ。
だが、この国の近代国家を実際に設計し、軍事官僚制という“背骨”を国家の奥深くに埋め込んだ二人――伊藤博文と山県有朋――の姿は、どこにもない。
皇居にも、靖国にも、東京のどの中心部にも、彼らの銅像は存在しない。
山県の巨大な騎馬像は、かつて東京・陸軍省構内にそびえていた。没後間もなくの昭和初期、軍国日本の象徴として建てられたものだ。しかし敗戦後、占領軍は「軍国主義的記念物の撤去」を方針として打ち出し、忠魂碑や軍人像は次々と公共空間から姿を消した。山県像もその対象となり、撤去されたのち、保管場所を転々とし、最終的に故郷の山口県萩市へ移された。
一方、伊藤博文の銅像は、東京には最初から存在しなかった。憲法制定や内閣制度の創設に関わった“制度の人”でありながら、国家神話の中心に置かれることはなかった。彼の像が立つのは、生誕地の山口だけである。
この「不在」は、明治国家の本質を静かに物語っている。
憲法、議会、内閣制度――それらは伊藤が丹念に塗り上げた“外壁の化粧”にすぎなかった。国家の内部構造を決めたのは、山県が築いた軍事官僚制であり、天皇大権を名目とした軍部の専制であった。
銅像がどこに立ち、どこに立たないのか。その配置そのものが、明治国家の“表”と“裏”を端的に示している。
繰り返すが、前節でみたように、伊藤博文は、近代日本の制度設計者として語られる。憲法を起草し、内閣制度を導入し、議会政治の枠組みを整えた。教科書的には「立憲主義の父」である。
伊藤が導入した立憲制度は、天皇大権を核心とし、軍事部門を議会統制の外に置いた。
伊藤は、近代国家の“顔”を作った。
だが、その顔の下に軍事官僚制という“背骨”を国家に埋め込んだ山県有朋こそ、明治国家の“裏の設計者”である。
彼が作り上げたのは、軍事官僚制を国家の中心に据える構造であった。すなわち、参謀本部の独立、軍部大臣現役武官制、国防方針の非公開化、天皇大権を盾にした軍部の政治的不可侵性、大権費として議会の審議を免れる軍事予算、人事の軍部専権化ーである。
これらは単なる制度の寄せ集めではない。山県は、国家の“背骨”を軍事官僚制で固め、政治の上に軍事を置く構造を一貫して作り上げた。
伊藤が作ったのは“化粧”であり、山県が作ったのは“骨格”だった。
そして、後の日本はこの骨格に従って動き、ついには国家総動員体制へと突き進むことになる。
■大正デモクラシーの逆説―総動員体制の胎動
1921年、ドイツの保養地バーデンバーデンで、陸軍の若手将校たちが密かに会合を開いた。彼らが語り合ったのは、来るべき大戦を視野に入れた国家改造構想であり、軍事力と国家総動員体制を前提とした昭和軍国主義の胎動そのものであった。
青年将校たちは、そこで「長州閥(山県閥)を倒す」と誓い合ったが、それは実際には山県が制度として埋め込んだ軍制思想を再起動する行為であった。
この会合の意義は、山県が埋め込んだ軍事官僚制の“背骨”の上に、次の世代が肉付けを始めたことにある。つまり、国家総動員体制の源流は昭和ではなく、大正期の軍部内部に芽生えていた。その根は、明治国家の制度構造そのものにあった。
1910年代から20年代にかけての、いわゆる大正デモクラシーの時代。日本の都市には新しい光が満ちていた。銀座にはモダンガールが闊歩し、カフェにはジャズが流れ、雑誌は恋愛と自由を語り、若者たちは新しい時代の匂いに酔いしれた。政治の世界でも政党内閣が誕生し、普通選挙法が成立し、議会政治がようやく近代国家の外観を整えたかに見えた。都市文化と政治改革が同時に花開いたこの時代は、吉野作造の民本主義とともに、後世しばしば「日本にも民主主義の萌芽があった」と語られる。
しかし、その光の背後で、まったく異なる風景が広がっていた。軍人たちの目には、都市の自由と華やかさは“国家の弛緩”として映っていた。陸軍大学校では「都市文化は国防の敵」と教えられ、モダンガールは「国防婦人の対極」と断じられた。青年将校たちは、議会政治を「国を滅ぼす軟弱な制度」とみなし、軍人雑誌には「軟弱文化への怒り」が繰り返し書き立てられた。都市の恋愛と自由は、軍人の精神世界では“国民精神の堕落”と理解されたのである。
その一方で、都市の底辺では別の熱が燃え上がっていた。第一次大戦後の不況と物価高騰のなかで、労働者たちは次々とストライキに立ち上がり、無産階級運動が急速に広がった。大逆事件で処刑された幸徳秋水の後継者として知られている大杉栄のようなアナーキストは、国家と資本の支配を根底から問い直し、労働者の自立と自由を訴えた。彼の言葉は、都市の若者や労働者に強い共鳴を呼び、ロシア革命を震源とする社会主義の台頭は大正期の“もう一つのデモクラシー”として確かな存在感を持っていた。
しかし、国家はこの動きを決して許さなかった。1918年の米騒動、1921年の労働争議の激増、1922年の日本共産党創立――こうした動きは、国家権力者にとって「社会秩序崩壊」の前兆と映った。1923年の関東大震災の混乱の中で大杉栄らが甘粕正彦陸軍大尉によって虐殺された事件は、国家が“危険思想”社会主義をしゃにむに根絶しようとする姿勢を象徴した。治安維持法が普通選挙法と同時に導入され、監視と弾圧の強化が民意の拡大を押しのけた。大正デモクラシーの裏側には、暗い影が常に寄り添っていたのである。
軍人たちは、この社会の揺らぎを“国家の危機”として受け止めた。都市文化の自由、労働運動の高揚、社会主義者の言論――これらは彼らにとって、来たるべき大戦に耐えうる国家の基盤を弱体化させる危険な潮流に見えた。だからこそ、軍人たちは「国家改造」を叫び、政治の外側から国家の方向を変えようとしたのである。
軍人たちは軍隊の最高指揮権、すなわち天皇の大権である統帥権を“魔法の言葉”と感じた。政府、議会から独立したこの権限は陸軍大学校では政治家を黙らせる呪文として扱われた。青年将校たちは、統帥権を唱えれば内閣も議会も無力化できると信じた。この“言葉の魔力”は、やがて統帥権干犯論として制度の外側にまで膨張し、軍人をのさばらせ、政治を圧倒する根拠となった。
こうして、大正デモクラシー背後で、山県軍制思想という前近代的統治原理が静かに、確実に国家の内実を支配し続けた。都市の光と軍靴の音。モダンガールの笑い声と、青年将校の怒り。労働者のストライキと、特高の監視。議会の演説と、統帥権の呪文。これらが同時に存在したのが大正期の日本であり、その矛盾が昭和の破局へとつながっていった。
■剥がれ落ちた明治の”化粧”
若手将校たちの目には、大正期の“自由の空気”は耐えがたい光景だった。
軍縮で将来は閉ざされ、俸給は低く、結婚もままならず、農村出身の彼らには都市の享楽が“別世界”に見えた。
そこへ追い打ちをかけたのが、政党政治の腐敗である。
政友会も民政党も財閥からの政治資金に依存し、選挙は金権選挙、派閥抗争は利権の奪い合い。映ったのは、「政治家は国を売って利権に群がり、財閥は国家を私物化している」という光景だった。
血盟団事件は、その憤激がついに爆発した象徴である。そして、この憤激に“思想”を与えたのが北一輝であった。北は『日本改造法案大綱』で政党政治を「国賊」と断じ、財閥を「寄生虫」と呼び、天皇親政の名の下に国家改造を唱えた。
1931年の満州事変は、政府の命令ではなく、現地の関東軍将校たちの独断で始まった。その独断は偶発ではない。北一輝の思想と、バーデンバーデン以来の“国家改造の衝動”が、現場の空気として凝縮していた。奉天郊外の柳条湖。夜の闇の中で小さな爆発が起き、線路の一部がわずかに歪んだ。
それだけで、関東軍は「満鉄爆破」を口実に一気に行動を開始した。現場の将校たちは、「いま動かなければ日本は滅びる」という確信に取り憑かれていた。同時に民衆の熱狂がそれを“国家の意思”に変えてしまった。
満州事変の成功体験は、青年将校たちに忘れがたい記憶を残した。
- 「上官の命令を無視しても成功した」
- 「政府は後追いで承認した」
- 「国民は熱狂した」
- 「新聞は称賛した」
“成功の方程式”は、彼らの胸に深く刻まれた。
そして1936年2月26日。雪の東京で、青年将校たちはついに銃を取った。彼らは北一輝の思想を携え、満州事変の成功体験を背負い、政党政治の腐敗を憎み、都市の享楽を堕落と見なし、天皇親政の名の下に国家改造を実行しようとした。
銃声は、明治国家の“化粧”が完全に剥がれ落ちた瞬間だった
■大正デモクラシーの挫折から戦後民主主義の未完へ
大正デモクラシーは、日本近代史のなかで民衆が初めて政治と社会の主体として姿を現した時代だった。普選運動、労働運動、女性解放運動、部落解放運動、大学自治、思想の自由――いずれも、国家の外縁に置かれてきた人々が、自らの生活と尊厳を守るために声を上げ始めた。その動きは、外観だけの近代国家を装っていた明治以来の体制に、初めて内側から風穴を開けるものだった。
皇居前の広い空は、いつも静まり返っていた。石畳の上を学生や会社員が行き交い、近代国家の外観をまとった東京の街は、一見すれば平穏そのものだった。しかし、堀の水面に映る白い雲のように、その近代の姿は薄く、触れればすぐに形を失うものだった。民衆が声を上げるたび、見えない網のような官憲の視線が街を覆い、自由の芽を激しく摘み取っていった。
1920年前後、労働争議は全国で急増した。1921年、神戸の川崎造船所では数千人規模の争議が起き、工場の門前には労働者たちが肩を寄せ合って立っていた。「賃金を上げろ」「人間らしく働かせろ」かすれた声が冬の空気に吸い込まれていく。門の向こうでは警官隊が無言で並び、靴音だけが冷たい地面に響いていた。生活の叫びは、国家にとっては“秩序の乱れ”と映った。
女性たちもまた声を上げた。1920年代初頭の銀座通りで、平塚らいてうは小さな木箱の上に立ち、「女性は太陽であった」と声を張り上げた。道行く女性たちは足を止め、胸の奥で何かが揺れた。しかし、通りの向こうでは警官が腕を組み、じっと彼女の動きを見つめていた。若き日の市川房枝が「女性にも選挙権を」と訴えると、群衆の後ろで警察官が手帳を開き、誰が拍手し、誰がうなずいたかを静かに記録していた。希望の光と官憲の影が、同じ路上にくっきりと並んでいた。
こうした民衆の台頭は、山県有朋を頂点とする軍事・官僚機構にとって、国家秩序を揺るがす“極めて危険な兆候”と映った。山県軍制思想の核心は、軍は民意の外に置かれ、国家の中枢として絶対的な権威を保持すべきだという信念である。民衆が政治の主体となることは、彼らにとって「国体の破壊」にほかならなかった。したがって、民衆運動が広がれば広がるほど、国家側の反発は強まり、弾圧は制度化されていった。
1922年に山県が死んでも、その思想は軍・警察・官僚機構に深く根を張り続けた。労働争議への警察介入、女性運動や学生運動への監視、部落解放運動への密偵派遣、反戦運動の抑圧――これらはすべて、民衆の主体化を「国家の危機」とみなす発想の延長線上にあった。大正デモクラシーは、民衆の側に制度化の力が育ちきらなかったこともあり、国家の反動を跳ね返すことができなかった。こうして、民衆の自由の拡大は未完のまま押し戻され、その反動として昭和の翼賛体制が成立。明治体制の完成としての大攘夷と大破局が待ち受けていた。
満州の大地もまた、その反動の現場だった。冬の満州は果てしなく白く、開拓団の人々は凍りつく風の中で鍬を振るいながら、「国のため」と自分に言い聞かせていた。その背後には、国家が描いた“理想の版図”に民衆を押し込める冷徹な力があった。
敗戦後、占領軍民生局(GHQ)は大正デモクラシーが掲げた理念を制度として再構築した。普通選挙、労働三権、男女平等、部落差別撤廃、大学自治、思想・表現の自由――これらは大正期の民衆運動の延長線上にある。しかし、民主化を推し進めたニューディーラーが追放されると、改革の担い手は失われ、制度は形だけ残り、中身は徐々にしぼんでいった。
戦前の精神構造を引き継いだ官僚・司法・警察は、戦後も「国家秩序の維持」を最優先とし、民衆の側に立つ文化は育たなかった。高度経済成長は、企業利益=国益という論理を強化し、労働運動や公害被害者の声は「国を危うくする」として抑え込まれた。水俣病取材の現場で被害者に投げかけられた保守系水俣市会議員らの「お前らは国も水俣も潰す」という言葉は、まさに戦前の国体思想の残滓であり、民衆の主体化を恐れる国家の深層心理そのものだった。
水俣病被害者の側に立って生涯献身した医師原田正純は万年国立大助教授に据え置かれた。原田が勤務した国立熊本大の有力教授の研究室に学長から電話があった。その場にたまたまいあわせた筆者は学長が激しく原田を罵る声を耳にした。有力教授が「学長先生、彼は過激派ではありませんよ」ととりなしても聞く耳をもたなかった。
2012年死去した原田の棺の前で妻は「教授にはしてくれなかったね」とささやきかけた。その声は立身出世志向とは真逆の「民衆の側に立つ者への国家のいわれなき報復」を憂えるものだった。
原田は筆者にこう語ったことがある。
「被害の発生と拡大は、当該企業、立法・行政・司法の不作為による。だから被害者の立場に立つのは、これらの不作為を真ん中に押し戻すことなんだ。中立とはこういうことじゃない」。
明治の化粧は大正でひび割れ、昭和で剥がれ落ち、戦後はその化粧だけが新しく塗り直された。しかし、背骨は一度も取り替えられなかった。
では、この背骨を温存したまま、日本はなぜ戦後アメリカに全面的に追従する国家へと変貌したのか。
アメリカは日本の何を見抜き、何を利用し、何を残したのか。そして、戦後日本の民主主義は、どこまでが自らの力で、どこからがアメリカの設計だったのか。
次章では、敗戦後の日本を長期にわたり方向づけたアメリカという国家の性格と、その関与の目的を解きほぐす。
明治以来の“背骨”と、アメリカの戦略が交差した地点にこそ、戦後日本の姿がある。
参考文献
伊藤之雄『日本の近代 5 立憲国家の確立』中央公論新社
宮地正人『明治国家の構造』岩波書店
坂野潤治『日本近代史』ちくま新書
佐々木克『明治憲法の思想』吉川弘文館
原武史『大正天皇』朝日選書
家近良樹『山県有朋と明治国家』講談社学術文庫
岡義武『山県有朋』岩波文庫
原剛『参謀本部と陸軍大学校』中公新書
秦郁彦『昭和史の軍人たち』文春文庫
半藤一利『昭和史 1926–1945』平凡社
吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』中公新書
山之内靖『大正デモクラシー』岩波新書
井上寿一『大正デモクラシー』中公新書
井上寿一『昭和史の決定的瞬間』講談社現代新書
大杉栄『日本脱出記』岩波文庫
大杉栄『自叙伝』岩波文庫
佐野学『日本無産運動史』岩波書店
田中惣五郎『日本労働運動史』岩波書店
吉見俊哉『戦後日本の生政治』筑摩書房
吉見俊哉『親米と反米』岩波新書
五百旗頭真『占領と改革』講談社学術文庫
田中耕太郎『日本の官僚制』岩波書店
中野晃一『日本のポピュリズム』岩波新書
加藤典洋『敗戦後論』講談社
原田正純『水俣病』岩波新書
原田正純『水俣が映す日本』岩波書店
石牟礼道子『苦海浄土』講談社文庫
宮本憲一『公害の政治経済学』岩波新書
宮本憲一『戦後日本の構造』岩波書店
網野善彦『日本社会の歴史』岩波新書
小熊英二『〈日本人〉の境界』新曜社
成田龍一『日本の近代とは何か』講談社現代新書