■岸ー安倍ライン:日米覆う最も深い闇
1970年代までの日本の世論は総じて「平和憲法を擁護し、専守防衛に徹して軍事大国には決してならない」との意思を明確にしていたと言える。それは1955年の保守合同以降、政権与党自民党の主流派閥で保守本流を自負してきた吉田茂を源流とする宏池会の「軽武装・経済優先」路線と裏表の関係にあった。敗戦による窮乏と絶望の淵から経済復興を求めて立ち上がろうとした戦争体験者の過半は軍国日本の再来を忌避していたからだ。彼らには「あんな戦争二度とするものではない」と語気を強めて口にする者が目立った。
安倍晋三の所属した自民党派閥清和会は統一教会、勝共連合と連携していた安倍の祖父岸信介元首相の流れを受け継ぎ、自主憲法制定を最大の政治目標に据えた。A級戦犯容疑者として収監されていた岸が釈放に当たり米中央情報局(CIA)の協力者にされたことはあまねく知られている。日本が7年に及ぶ米軍による占領から「独立」して5年後、事実上のCIAエージェントとなった戦前の政治エリートが1957年に内閣総理大臣となった。常識からすれば”あってはならないこと”であった。
そしてその孫安倍晋三が半世紀後の2006年に当選4回ながら戦後最年少の52歳で首相に上り詰めた。これもまた”あり得ないこと”であった。政権は一度挫折したが、5年後に復帰して歴代最長となる。2020年の二度目の退陣から2年経て安倍は選挙遊説中に暗殺された。岸ー安倍ラインは背後からウォール街、CIA、ネオコン、軍産複合体、統一教会に抱え込まれてきた。それだけに最大限に利用されつつも、「先の戦争は自衛のための聖戦だった」との"信念”に固執する超国家主義的体質のため米国の日本封じ込めの最前線に立たされていた。換言すれば、戦後の日米関係の闇が最も深い位置にいたことになる。
■ポスト冷戦:「日米同盟」の始動
日米関係の闇の一つとして想起せねばならないのが1981年の鈴木善幸首相訪米にまつわる一大事件である。日米関係を巡る大事件であったが故に、メディアは今や何事もなかったかのように事件の経緯を時の彼方に埋没させてしまった。呪文のごとく「日米同盟基軸」を唱える政治家や官僚たちの中でも今では鈴木首相訪米を巡る大騒動を記憶している者は稀なはずだ。
戦後が40年近く経ると、戦争体験世代は減ってゆき、「二度と戦争はごめん」との声も以前ほどの力強さを失いつつあった。「反戦・平和」は「日米同盟」に吸収され、形骸化してゆく。日米首脳会談後の共同声明に「同盟関係」という文言が初めて盛り込まれ、それが「軍事同盟」と解釈されるようになったのは1981年鈴木首相訪米以降である。戦後史の分水嶺として記憶に刻み込んでいなければならない。
1911年生まれで軍隊経験もある鈴木善幸は「戦争は二度とごめん」世代を代表する自民党ハト派の政治家の一人である。敗戦直後の1947年に「護憲、非武装・平和、民主主義擁護」を至高の価値とした社会党議員として政治活動を始めている。その後社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移る。保守政党に転属したものの、保守合同後は自民党主流リベラル派の宏池会に所属し、高度経済政策の礎を築いた池田勇人に師事。田中角栄とは盟友となった。
■「同盟」拒否した首相

1980年6月に首相在任のまま急逝した大平正芳を後継した鈴木は1981年5月に訪米、レーガン大統領との首脳会談に臨む=写真。会談後に発表された日米共同声明に盛り込まれた「同盟関係」という表現に鈴木は驚愕、動転した。首脳会談ではレーガンは「同盟」という言葉を使わなかったからだ。鈴木は同行記者団に「軍事的意味合いはない」と語り、「日米同盟」という表現を事実上拒絶した。帰国後の国会答弁でも閣議でも鈴木は「(同盟関係という言葉は)新たな軍事的意味を持たない」「わが国が集団的自衛権の行使を前提とするような軍事的な役割りを分担するといったようなことを意味するようなものでは全くない」と軍事同盟を否定する判断を一貫して示した。
それから34年後の2014年から15年にかけて、第二次安倍政権の下、集団的自衛権行使が閣議了解で容認され、新安保法制が成立した。米国の指示は「憲法改正せず容認せよ」であった。解釈改憲で集団的自衛権の行使を容認することは憲法九条をどうひっくり返しても無理があった。2015年6月4日の衆院憲法審査会で、参考人の3人の有識者全員が集団的自衛権の行使容認について「違憲」を表明。自民党など安倍政権与党が推薦した長谷部恭男早稲田大教授も「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と明言した。それでも安倍政権は「他に選択肢なし」とばかりに、数の力でしゃにむに自衛隊法改正を柱とする新安保法制を成立させたのである。
鈴木の「わが国が集団的自衛権の行使を前提とする軍事的役割りを分担することはない」「わが国は平和憲法のもと、非核三原則を国是とし、シビリアンコントロールのもとに専守防衛に徹し、近隣諸国に脅威を与えるような軍事大国になる考えは毛頭ない」との断固たる決意声明は日本がやがて米国管理下の軍事大国化に向けて始動し始めることへの予感と危惧から生まれたものではなかろうか。その危惧は宏池会の没落、安倍率いたタカ派清和会の興隆と国際貢献の大合唱によって現実のものとなる。鈴木のかつての言動は意図的にも抹消しなければならなかった。
■闇を作る日本外務省
ところで、なぜ首相の鈴木の了承なしに共同声明に「同盟関係」という言葉が盛り込まれたのか。それは日本の外務省の隠微な動きにあった。当時ある省庁から官邸に首相補佐官として出向し、鈴木訪米に同行した官僚は事件から10年近く経た頃、筆者にこう明かした。
「共同声明を作成した事務方の外務省は形だけ総理から意見を聞き『同盟関係』についての説明を避けた。外務事務方は総理の意向を無視し、『日米同盟関係』との文言の入った共同声明文を二日目の首脳会談前に記者団に配布した」「鈴木総理は日本社会党に在籍経験のあるただ一人の自民党総裁経験者だ。戦前の青年時代は社会主義に傾斜し、大山郁夫や賀川豊彦らに触発され学生運動に参加した経歴を外務官僚が警戒した」。
実際帰国後、鈴木は外務省の姿勢に激怒する。「日米軍事同盟という意味を含んだ同盟」との伊東正義外相の見解と軍事的意味はないとする鈴木の発言との相違が問題となる中、当時の高島益郎外務事務次官が「軍事的な関係、安全保障を含まない同盟はナンセンス」と公然と鈴木を批判したためだ。鈴木はその後、共同声明文は外務省事務方が一方的に作成し、自身の意向が無視されたことを知ったという。レーガンが会談で「同盟関係」を口にしなかったのも、米政府と日本外務省とが事前に示し合わせていたためであろう。
■支配された日本の中枢
そもそも同盟国とは「第三国から自国への攻撃に対し武力行使を含む相互扶助を約束した二カ国以上の国家間の結合」のことであり、同盟関係とは即ち軍事同盟である。鈴木は日米がこの同盟関係にあることを否定した。ところが自分の知らないうちに共同声明に「同盟関係」が入れられてしまい、日米が同盟関係にあることを前提に「『同盟関係』に軍事的意味はない」と苦しい反論に追い込まれてしまった。日本の首相が米政府とタッグを組んだ日本外務省の罠に嵌ったことになる。
本ブログは2022/12/15掲載記事「米国の日本支配に背を向け敗戦否認する政治報道 報道の自由放棄し戦後史歪曲」でこう書いた。
「鳩山由紀夫民主党政権で首相側近として金融財政政策を支えた元衆議院議員はホテルオークラ本館付近から東京・赤坂の米国大使館ビルを眺め、「あれが日本の司令塔」と語った。この司令塔は北方の国会議事堂、首相官邸、自民党本部、霞ヶ関官庁街を三角形の底辺とするとその頂点に位置する格好で日本の政治中枢ににらみを利かせている。元衆院議員は「植民地提督である駐日大使の指示を受けて、日本政府の主要な人事、政治・経済・外交政策は決まる。最も忠実なのは財務、外務、法務・検察だ」と明かした。鳩山氏は首相就任後間もなく「日本の中枢はここまでアメリカに支配されているのか」と絶句した」。
同じく民主党政権の菅直人元首相は「外務省はアメリカの代理人だった」と振り返っている。安倍晋三も回顧録で、「日米間の核持ち込み密約を時の総理に知らせるかどうかは、外務省が勝手に決めている」と語っている。日本のメディアも議会も、植民地提督に最も忠実な財務、外務、法務・検察と米権力の密室の動きを補足できない。
外務省の事務次官が公然と鈴木総理を「安保外交音痴」とばかりに批判できたのは、戦後の日米関係を覆う闇の中からの指図があればこそであろう。(続く)