バブル崩壊と伴に「保守本流」排除加速 反共強国と清和会支配2

2020年11月28日付本ブログ掲載記事「本格捜査は期待できず 『桜を見る会』事件雑感」で「東京地検特捜部はワシントンと深く繋がっている。日本学術会議問題を巡る野党の杉田和博官房副長官の国会証人尋問要求が一月も経たずに雲散霧消したように、安倍氏本人の国会尋問も、検察から任意にせよ事情聴取もないままこの『事件』は越年とともに立ち消えになる」と予想した。実際その通りになった。安倍内閣は第2次政権下で「内閣が何度倒れてもおかしくない事件」と言われた森友、加計両事件を無傷で乗り切り、歴代最長政権となった。清和会が総裁派閥かつ与党最大派閥として政界を支配できたのは、数多な政治スキャンダルを摘発してきた検察庁が安倍2次政権を筆頭に歴代の清和会政権に忖度した結果とみて大過あるまい。言葉を換えれば、米国は1980年代の早い段階から中国台頭を予期し、護憲・平和主義、軽武装・経済優先(吉田ドクトリン)を原則とし、日中友好に前向きな戦後保守本流の系譜にある政治家の排除を加速してきた。それは米国によるバブル経済崩壊を手始めとする日本経済弱体化計画と軌を一にした。

■55年体制崩壊と政界再編

1989年の東西冷戦終結と1991年のソ連邦崩壊、そして中国の台頭は日本の政界の権力構図を大きく変えた。いわゆる55年体制が崩壊したのみならず、台頭する中国と東アジアを重視する米国の世界戦略転換と並行する形で日本の保守政界内の力関係や構図も激変して行く。

1990年前後以降ここ30年余りを振り返えると、政界を揺るがすスキャンダルが繰り返し浮上した。大半が東京地検特捜部に摘発されて、少なからぬ保守政界有力者が失脚したり、政治力を大きく削がれてきた。こんな中、清和会系の大物議員らが深手を負うことは決してなかった。

以下、ごく簡単にスキャンダル史と政界再編の動きを振り返ってみる。

まず1988年に発覚したリクルート事件と1992年に浮上した東京佐川急便事件は、闇将軍田中角栄がキングメーカーとして君臨した田中派を大枠で継承した経世会(竹下派)を直撃した。竹下内閣(1987年11月~1989年6月)は総辞職に追い込まれ、娘が竹下の息子と結婚した盟友・金丸信自民党副総裁も東京佐川からの献金疑惑に続き脱税容疑で1993年に逮捕され間もなく死去した。

とりわけリクルート事件は未公開株が大量に譲渡され、その賄賂性が問われた。だが未公開株の譲渡対象が広範で職務権限との関連性が薄いとされて、検察に立件された政治家は中曽根政権下の官房長官藤波孝生ら二人にとどまった。だが、当時の竹下登首相中曽根康弘前首相をはじめ小渕恵三官房長官、宮沢喜一蔵相ら現職、元職の計17人の閣僚経験者、安倍晋太郎幹事長、渡辺美智雄政調会長といった自民党幹部、さらには野党を含め21人の衆参両院議員が未公開株を譲渡されていた。関係した政治家多数を要職から遠ざけたため、事件はリクルートパージ」と揶揄された。

2つのスキャンダルは既成政党への批判と不信を高めた。「カネと政治」の問題が議論の的となり、派閥政治解消も視野に入れて、中選挙区から小選挙区比例代表制への選挙制度改革を中心とする政治改革が焦眉の課題となり、政界再編の大きなうねりを生み出す。

社会、公明、民社の3党と社会民主連合は1993年6月、宮沢内閣不信任案を提出。自民党から小沢一郎、羽田孜、渡部恒三ら39議員が賛成し、不信任案が可決されて宮沢内閣は衆議院の解散、総選挙へと踏み切る。前年に立ち上げられていた細川護熙率いる日本新党に続き、武村正義、鳩山由紀夫らが政治改革などを唱えて「新党さきがけ」を、小沢一郎らは「政界再編」、「政治改革」を掲げて新生党を結成した。

選挙結果は、上の3つの新党が「新党ブーム」に乗って躍進し、自民、社会両党は惨敗。非自民・非共産8党派の連立政権・細川内閣が発足し、自民党は1955年の結党以来初めて下野した。55年体制を崩壊させた東京佐川急便事件だったが、皮肉にも細川が佐川急便から1億円借入していた問題を自民党に徹底追及されて細川内閣は1年も持たずに瓦解。間もなく「瓢箪から駒」の形で生まれた自民・社会・新党さきがけ連立政権を経て自民党は単独政権復活へと向かう。

しかしながら政治改革の実現を一致点として政権を発足させた細川内閣は1994年3月、改革の核となる衆議院の小選挙区比例代表並立制(中選挙区制から小選挙区制への選挙制度改革)を実現し、日本の政治システムは大きな転換を遂げる。

■「改革」の換骨奪胎と安倍1強

細川内閣による選挙制度改革に併せ、「官僚主導から政治主導」の名の下、霞ヶ関官僚支配からの脱却を図る公務員人事制度の改革が目指される。だが20年近くもの歳月を経て2014年に第2次安倍内閣の下、ようやく内閣官房に内閣人事院が設けられた。首相官邸(内閣人事局)は各省庁の審議官・局長クラス以上の幹部職員約600人の人事権を掌握した。小選挙区立候補者(1人)の公認権が党トップの総裁や幹事長に握られるようになっていたのに加えて、政権政党の中央官庁への支配力が格段に強化されたのだ。「人事がすべて」の官僚は首相とその取り巻きの意向にまったく逆らえなくなった。

総理総裁にかつてない強力な権限が与えられ、安倍2次政権(2012~2020)では「安倍1強」との言葉が定着。また同政権では官僚が公文書の改ざんすら行って首相のスキャンダルをもみ消すまでに至った。2017年には「推し量って相手に配慮する」との意の忖度が「新語・流行語」の年間大賞に選ばれたのは記憶に生々しい。

詰まるところ、安倍2次政権は細川内閣以降の政治改革・公務員(霞ヶ関)改革を換骨奪胎してしまったのである。そもそも小選挙区制導入は派閥政治の解消はもとより、政権交代の緊張感が常にある2大政党制を目指したものだった。2大政党制への流れは2009年の民主党政権の誕生で定着するかに見えたが、同党が安保、改憲、対米関係で意見が一致しない野合集団であったことなど政権基盤の脆弱さと政権運営の稚拙さ、加えて内外メディアの激しい民主党政権バッシングが加わり、わずか3年で自民党は政権に復帰する。下野した民主党は分裂し、野党勢力の混迷と弱体化で再び自民党は半永久的な政権与党へと進んでいる。

■旧田中派と宏池会の衰退

安倍第2次政権誕生への道を振り返ると、1988年のリクルート事件発覚から2006年の橋本龍太郎元首相の急死に至る間、自民党内では旧田中派人脈が東京地検特捜部の集中砲火を浴びて弱体化し、保守本流とされた宏池会は清和会に潰され、分裂・衰退した。

清和会支配が出来上がる過程で、旧田中派・創世会の流れを受け継いだ橋本派(平成研究会)の郵貯を原資とする財政投融資に依存した公共事業依存体質に対し政治腐敗の根源としてすさまじい攻撃が加えられる。その中心となったのが岸派・清和会を取り巻く御用メディアであり、田中金権政治を引き継ぐ守政治を葬るかのごとく演出された小泉政権の構造改革路線はこの流れとともに展開する。2001年自民党総裁選出馬にあたって小泉純一郎の発した「自民党をぶっ壊す」とは「橋本派をぶっ壊す」ことに他ならなかった。

時間は前後するが、橋本を後継した小渕恵三首相(1998~2000)が倒れ、脳死状態にあったとされる2000年4月3日、当時の森喜朗幹事長(森派=清和会)、青木幹雄官房長官(小渕派=旧田中派系)、村上正邦参議院議員会長(江藤・亀井派=旧中曽根派系)、野中広務幹事長代理(小渕派)、亀井静香政調会長(江藤・亀井派)の5人が都内のホテルで密談。小渕が倒れた翌日早々と後継に森喜朗を選んだ。

このいわゆる5人組による不透明極まる森総理選出が「加藤の乱」の遠因となり、5人組から外された宏池会の一層の混迷と衰退を招く。2000年11月20日の衆院本会議に向け、野党は森内閣不信任決議案提出へと動いた。自民党の加藤紘一宏池会会長と同会所属議員や盟友議員グループが、野党の動きに同調し倒閣運動となった。しかし、加藤グループは自民党内で清和会を中心とする主流派勢力の巧妙な切り崩しにあい、倒閣は挫折する。この自民党の内紛で加藤は力を失ってしまったうえ、翌年の自民党総裁選での小泉純一郎当選に道を拓き、森に続き清和会系の小泉が総裁となる。

橋本派は2004年に小泉政権下に起きた日歯連闇献金事件で自民党最大派閥から脱落する。領袖橋本龍太郎も2年後に怪死とみても過言でない死に方をした。その後、2009年から2013年にかけて当時民主党幹事長だった小沢一郎には刑事訴訟が続き、小沢の政治力は大きく損なわれてしまう。

■岸釈放条件を遵守する清和会

このように結果として清和会支配の完成を促したスキャンダルに巻き込まれ、力を失っていった政治家、政治グループに共通するのは戦後民主主義や日米安保の評価、さらには対中関係を巡る清和会とのスタンスの決定的な違いである。

岸信介の巣鴨拘置所からの釈放条件は安倍晋三の「100%米国とともにある」との発言に凝縮され具現している。米保守本流は早い段階で冷戦終結後の中国台頭を予期しており、清和会主導の与党自民党を必要としていた。

1997年に極右組織日本会議が結成され、やがて安倍1次政権のイデオロギー装置を装うことになる。安倍1次政権(2006~2007)の挫折を踏まえ、ワシントンは2007年に日本会議をコントロールし、日本人をもっぱら中国敵視へと向かわせることを目的とした日本会議の兄弟組織を日本に立ち上げる。彼らは中韓をヘイトしながらひたすら安倍政権を支えた。

次回はこれを米国の冷戦後の世界戦略の動きに照らし合わせながら点検する(続く)