青春を奪われた「大正」世代  20代は死と隣り合わせ 8月15日考 

1945年8月15日正午。6日前の8月9日午前、上空を小一時間旋回した米爆撃機が長崎に向かったため、被爆を奇跡的に免れた父は原爆の標的だった小倉造兵廠で天皇による戦争終結宣言、いわゆる玉音放送を聴いた。国民学校教員だった母は勤務先のラジオの前で頭を垂れた。

父が1931年の満州事変勃発の翌年から敗戦前年の1944年まで中国大陸、フィリピン、インドシナ半島を転戦し、帰還したことについてはフロントページ掲載記事「原爆不投下、我が命、日本の戦後」で触れた。口癖は「あんな馬鹿な戦争は二度とするものではない」だった。何度か「天皇に戦争責任はある」と語気を強めた。幾度となく生き地獄というべき戦場体験を強いられた元兵士ならではの体感から発せられた言葉で重みがあった。

「本土決戦(米軍侵攻)に備えて竹やり訓練をしているのをみて、心の中で『こんなことをして何になる』と思った」。これは母親の懐旧談である。敗戦直前、彼女は通勤途中に米軍機の機銃掃射に遭いながらも一命をとりとめた。「私たちは青春のない大正ッ子」。この言葉が胸に刺さっている。

大正期は西暦では1912年から1926年。父は1914年、母は1923年生まれ。いわゆる15年戦争の発端とされる満州事変が勃発した1931年にはそれぞれ17歳、8歳であった。総動員体制と「東亜新秩序」に向けた聖戦完遂を唱える天皇制軍国主義の下、彼らの青春は跡形もなくかき消された。敗戦前年に見合い結婚した母には花嫁衣裳はなく「髪に新しい櫛を当てただけ」の極々簡素な式だった。

初老にさしかかった時分、よほど口惜しかったようで、「デートできる若い人はいいね」と口にした。「大正ッ子の悲哀」が凝縮されていると心が痛んだ。

米軍の本土上陸に備える日本軍が立案した決号作戦によると、「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵することになっていた。徴兵された国民2600万人が陸海軍500万人と共に本土決戦に投入されることになっていた。原爆の被爆は免れた父母も本土決戦になれば徴兵され命はなかったであろう。

数字は様々あるが、米軍は本土決戦では米兵50万人に被害が出ると推測していた。またポツダム宣言受諾に至る最終交渉で日本側は「天皇の命令なくしては海外に300万余りいる日本兵の武装解除はできない」旨打電したが、米兵の命を守りたい米国側は既に敗戦処理・武装解除の過程で天皇の存在は不可欠と判断していた。日本の非武装・不戦と天皇制存続がワンセットとなる下地は敗戦前から出来上がっていた。

我が生家には御真影は掲げられていなかった。昭和30年代までは現人神・天皇の写真である御真影を掲げていた家は少なくなかった。それに違和感を感じて母にたずねると、いつのまにか父が黙って外してしまったという。

「敗戦後も少なくとも退位という形で責任を取ろうとしない昭和天皇に対する抗議だ」。こう父は考えて、御真影を取り外したのではなかろうか。ことあるごとに「天皇は戦争の責任を負って当然だ」と語っていたことからして容易に推察できる。

1945年8月15日正午に録音朗読された終戦の詔書、いわゆる玉音放送にすでに責任回避の文言がある。

「抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如(ごと)キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス

現代語訳:そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。」(太字は筆者)

仮に極東軍事裁判の法廷に召喚されこう証言したとしたら、この主張は即刻異議申し立てされ、却下されたことであろう。