日本漂流⑦en新翼賛体制、民主主義の空洞化 ― 仮面の自由主義に踊る日本


序章 仮面としての自由主義
戦後日本は憲法において「基本的人権」「主権在民」「平和主義」を掲げ、自由主義国家として国際社会に位置づけられてきた。国際的には民主主義国家として認められ、冷戦期には「自由陣営」の一員として米国とともに歩んできた。しかし国内に目を向けると、自由主義は形式として存在しても実質は空洞化し、仮面として機能しているにすぎない。選挙は行われても投票率は低迷し、議会は多数派による強行採決が常態化し、メディアは権力監視よりも「空気の共有」に傾く。人々は「選挙があるから民主主義だ」と安心し、メディアは「言論の自由があるから健全だ」と語る。しかしその背後では、異論の排除と同調圧力が支配している。

この仮面の自由主義は、戦前の帝国憲法における「偽装近代」と連続している。帝国憲法は立憲主義の仮面をまといながら、天皇大権を絶対化した。帝国議会は民権保障ではなく戦争資金調達のために存在した。戦後の自由主義もまた、形式的には民主主義を掲げながら、実質的には従属構造に支配されている。虚構の系譜は続いている。

一節 戦前翼賛体制の具体事例
戦前の翼賛体制は、強制的総動員によって成立した。大政翼賛会はその象徴である。1940年、近衛文麿内閣の下で結成された大政翼賛会は、既存政党を解散させ、国民を戦争遂行に総動員するための組織として機能した。議会は形式的に存在したが、実質は翼賛会の下に統合され、異論は排除された。

翼賛会は「一億火の玉」をスローガンに掲げ、国民を戦争に動員した。新聞やラジオは翼賛会の宣伝機関となり、異論は「非国民」として弾圧された。例えば、1941年の太平洋戦争開戦時には、新聞各紙が一斉に「聖戦」「自存自衛」を掲げ、戦争への異議は完全に封じられた。

さらに、戦前の議会は民権保障ではなく戦争資金調達のために存在した。日露戦争の際、日本はロンドン市場で外債を発行した。英国投資家は「議会で予算が審議され、透明性が確保されていること」を条件に引き受けた。議会は民衆の権利を広げるためではなく、外債発行を円滑にするための金融装置だった。形式的には立憲主義を掲げながら、実質的には戦争遂行のための制度であった。

このように、戦前の翼賛体制は戦争遂行のための総動員体制であった。立憲主義は仮面として存在し、その背後では強制と熱狂が支配していた。

二節 現代の労働現場
現代日本の労働現場には、戦前の総力体制の残滓が生き続けている。終身雇用、年功序列、企業内組合を「三種の神器」とする日本型経営システムは、戦時総力体制を受け継いだものである。これが戦後復興と高度経済成長の原動力となったが、同時に労働者の権利を制約する仕組みでもあった。
統計を見ればその実態は明らかである。非正規雇用は1990年には雇用全体の約20%だったが、2020年には約40%にまで拡大した。勤労者世帯の平均月収は2000年の約56万円から2011年には約51万円へと減少し、2022年には48万円台にまで落ち込んだ。労組組織率は1948年の55.8%をピークに2019年には16.7%となり、ストライキは激減した。

さらにブラック企業の存在が社会問題化した。電通の新入社員過労自殺事件は象徴的である。違法な長時間労働が常態化し、労働基準法違反で強制捜査が行われた。電通の「鬼十訓」は「取り組んだら放すな、殺されても放すな」と社員に叩き込んだ。これは戦中の「戦陣訓」と重なり、企業ファシズム精神が戦後も生き続けていることを示している。

このように、現代の労働現場は形式的には自由主義を掲げながら、実質的には戦時総力体制の残滓に支配されている。労働者は権利を放棄し、企業に従属する。自由主義は仮面として存在し、その背後では抑圧と同調が支配している。

三節 不作為型翼賛体制
戦前の翼賛体制は強制的総動員だった。だが現代の翼賛体制は「不作為」によって形成される。人々は権利を積極的に行使せず、政治参加を回避する。その結果、権力は批判を受けずに強化される。民主主義は形を保ちながら、その中身を失っていく。

この構造は生活保守主義と結びついている。人々は「政治に深入りすれば生活が危うくなる」と考え、権利の行使を避ける。労働組合の組織率は低下し、ストライキは消え、団結権は事実上放棄された。選挙への参加も減り、投票率は低迷する。こうして民主主義の基盤は弱まり、権力は批判を受けずに強化される。

不作為型翼賛体制は、戦前の強制型翼賛体制とは異なるが、帰結は似ている。人々が権利を行使しないことによって、権力は無批判に拡張され、民主主義は形だけ残る。戦前は「一億火の玉」と叫ばされたが、現代は「沈黙の多数派」が体制を支えている。

2010年。首都圏と北関東を結ぶJR電車の車中のことだった。

四節 米国管理下の新翼賛体制

現代日本の翼賛体制は、米国の管理下で形成されている。日米安保条約と地位協定を基盤に、米国の方針を無批判に追認する構造が定着した。戦前の天皇大権国家への翼賛が、戦後は覇権国アメリカへの翼賛に置き換わったにすぎない。

政党もメディアも、米国の軍事的・政治的権力に対して批判を控え、肯定的な姿勢を示す。国民は外敵への恐怖扇動にさらされ、対中露冷戦やウクライナ危機をめぐる米国の方針を「国民的コンセンサス」として受け入れる。こうして日本は形式的には自由主義国家でありながら、実質的には米国管理下の新翼賛体制に組み込まれている。

この構造は戦前の翼賛体制と異なる点もある。戦前は天皇大権の下で国民が戦争に総動員されたが、現代は日米安保体制の下で米国の戦略に国民が総動員される。違いは強制か不作為かであり、帰結は民主主義の空洞化である。人々は権利を行使せず、沈黙と同調によって体制を支える。民主主義は形式として存在するが、実質は空洞化している。

五節 戦前翼賛体制との連続性

戦前の翼賛体制は、大政翼賛会を中心に政党を解体し、国民を戦争に総動員する仕組みだった。新聞やラジオは翼賛会の宣伝機関となり、異論は「非国民」として弾圧された。議会は形式的に存在したが、実質は戦争資金調達のための装置であった。日露戦争時の外債発行においても、議会の存在は金融市場への説明責任を果たすためであり、民権保障のためではなかった。

この構造は戦後も続いた。戦後の自由主義は形式として存在し、実質は従属構造に支配される。戦前の翼賛体制が天皇大権への翼賛であったのに対し、戦後は米国への翼賛に置き換わった。虚構の系譜は途切れることなく続いている。

6 節 不作為型翼賛体制の心理

戦前の翼賛体制は強制的総動員だった。だが現代の翼賛体制は「不作為」によって形成される。人々は権利を積極的に行使せず、政治参加を回避する。その結果、権力は批判を受けずに強化される。民主主義は形を保ちながら、その中身を失っていく。 

この構造は生活保守主義と結びついている。人々は「政治に深入りすれば生活が危うくなる」と考え、権利の行使を避ける。労働組合の組織率は低下し、ストライキは消え、団結権は事実上放棄された。選挙への参加も減り、投票率は低迷する。こうして民主主義の基盤は弱まり、権力は批判を受けずに強化される。

不作為型翼賛体制は、戦前の強制型翼賛体制とは異なるが、帰結は似ている。人々が権利を行使しないことによって、権力は無批判に拡張され、民主主義は形だけ残る。戦前は「一億火の玉」と叫ばされたが、現代は「沈黙の多数派」が体制を支えている。

7節 安保闘争と民主主義の試練
戦後日本において、民主主義の可能性を試した最大の政治的事件は安保闘争であった。1960年、岸信介内閣が日米安全保障条約の改定を強行したことに対し、学生、市民、労働者が全国的に抗議運動を展開した。国会周辺には数十万人が集まり、警官隊との衝突も起きた。これは戦後民主主義が初めて「街頭の力」として可視化された瞬間であった。

しかし、安保闘争は最終的に条約批准を阻止できず、岸内閣は退陣したものの、日米安保体制は定着した。人々は「声を上げても変わらない」という無力感を抱き、政治参加への意欲は次第に衰退した。1970年代に入ると、ベトナム反戦運動や反基地闘争も勢いを失い、「政治の季節」は終焉を迎えた。街頭の熱気は消え、生活保守主義が台頭した。人々は政治よりも消費に心を奪われ、民主主義は形式として残りながら、実質的な参加は減退していった。

この過程は、戦前の翼賛体制が強制的に異論を封じたのに対し、戦後は「不作為」によって異論が消えていく構造を示している。安保闘争の敗北は、戦後民主主義の限界を象徴する事件であり、以後の日本社会に「沈黙の多数派」を定着させる契機となった。

8節 新自由主義導入と社会の変容
1980年代から1990年代にかけて、日本社会は新自由主義政策の導入によって大きく変容した。中曽根康弘内閣は「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を進めた。これにより労働戦線は分断され、労働組合の力は大きく削がれた。1986年の労働者派遣法は非正規雇用を拡大させ、雇用の安定は失われた。

新自由主義は「効率」「競争」を掲げ、社会に柔軟性をもたらすとされたが、実際には格差と不安定を拡大した。非正規雇用は1990年には全体の20%だったが、2020年には40%に達した。所得は縮小し、勤労者世帯の平均実収入は2000年の約56万円から2022年には48万円台にまで落ち込んだ。労働組合の組織率は1948年の55.8%をピークに2019年には16.7%となり、ストライキは激減した。

この過程で、労働者は団結権を事実上放棄し、労働基本権は空洞化した。労働運動に敵対してきた自民党政権が経済団体に賃上げを斡旋するという倒錯した現象も生まれた。労働組合は「御用組合」と化し、政府と一体化していった。これは戦前の「産業報国会」を想起させる構造であり、民主主義の基盤を弱めるものであった。

新自由主義政策の導入は、戦後民主主義の「生活保守主義」と結びつき、人々を政治から遠ざけた。権利の放棄と沈黙が広がり、不作為型翼賛体制が強化されたのである。

9節 大学改革と右傾化 天皇制存続の異常性を問う

戦後日本の漂流を制度的に方向づけた大きな起点の一つが、筑波大学の開学であった。1973年に「新構想大学」として発足した筑波大学は、東京教育大学を廃校に追い込み、学生自治会の根絶を狙った治安対策の産物であった。安保闘争敗北後の「政治の季節の終焉」を受けて、国家は大学制度改革を通じて左派排除を制度化したのである。自治会費の代理徴収制度は廃止され、学生寮は解体され、学生同士の接触を最小化する監視体制が敷かれた。こうして「政治的無関心」が制度的に作り出され、大学は「体制順応」を助長する場へと変質した。

この過程には統一教会や自民党清和会との結びつきが深く関わっていた。筑波大学の初期運営に関与した理学部教授福田信之は、文鮮明に心酔し、学内で統一教会系サークルを公認する一方で、学生自治会を廃止した。大学改革は「反共親米転換構想大学」として推進され、CIAやKCIAの支援を受けた反共体制の一環として位置づけられた。筑波大学モデルは、戦後民主主義を内部から侵食し、右傾化の制度的起点となったのである。

ここには、「無礼者、切るぞ」と下を威圧し、「殿のお望みであれば何事でも」と上に従う目線――江戸時代から連綿と続く縦社会の構造が、維新以来今日まで途切れることなく生き続けている。大学制度改革は、この縦社会の延長線上で、権力への従属を制度化し、異論を封じる仕組みを強化した。こんな中、次期天皇候補者の一人秋篠宮悠仁が2025年に筑波大に同大付属高校に続き推薦入学した。同大永田学長は「光栄なこと」と言ってはばからなかった。

この制度的右傾化を外部から鋭く照射するのが、友人のドイツ団塊世代からの便りである。彼は「最高戦争責任者の孫が戦没者追悼式を主宰する不思議な国」と日本を評した。ナチスの最高戦争責任者は永久訴追されるのに、日本では裕仁天皇が免責され、皇統が存続した。戦没者追悼式を「最高戦争責任者の孫」が主宰し、「おことば」を述べる異常性は、ドイツ人にとって衝撃である。そこには敗戦直後に日本の政治学者が指摘した「無責任の体系」が戦後も続いている姿がある。

ドイツのヴィリー・ブラントが命を懸けて謝罪と融和を進めたのに対し、日本には「勝ち馬に乗らず己を貫いた指導者」がいない。記憶の文化(Erinnerungskultur)を持つドイツと、戦争責任を曖昧にした日本の差は歴然である。日本の言論界は裕仁天皇の戦争責任否定と天皇制存続に向けて努力し続け、国民は異常を異常と感じなくなった。

筑波大学モデルによる制度的右傾化と、天皇制存続の異常性は、戦後民主主義の形骸化を内外から照射する二つの柱である。安保闘争敗北、新自由主義導入、大学改革による右傾化、そして天皇制存続の異常性。これらはすべて「仮面の自由主義」と「不作為型翼賛体制」の連続的展開である。

10節ドイツ判事の独立と自立

1980年代初め、当時の西ドイツに滞在してい筆者は、トルコ人労働者が容疑者となった殺人事件の公判を取材していた。法廷には「写真撮影禁止」と掲げられていたが、どうしても冒頭の様子を記録したいと思い、書記官に尋ねると「裁判官の許可が必要だ」と告げられた。

裁判官室には日本のように書記官にブロックされることなく自由に行けた。扉をノックすると、突然現れた東洋人に驚きながらも、主席判事は落ち着いた眼差しで私を迎え入れた。そして「撮影は被告人と検察官が同意すれば可能だ」と即座に答えたのである。上司の指示もなく、最高裁の顔色をうかがうこともなく、自らの判断で即決したその姿に、私は衝撃を受けた。

翌日の法廷で裁判長は「日本の記者が写真撮影を希望している。被告人、検察官の意見を求めます」と静かに語りかけた。被告人も検察官も同意し、撮影は許可された。司法の独立とはこういうものか、自由な制度とはこういうものだ――その場で、自由と自立が制度として定着している社会の重みを肌で感じた。

日本の裁判官が最高裁の統制下に置かれ、独立を自ら放棄している姿とはあまりに対照的だった。ここにも「自由、自立の定着」における日独の差が歴然としていた。筆者の77年の生涯で最も強く記憶に刻まれた出来事となった。

結語 虚構を見抜く力
戦前の翼賛体制は強制的総動員によって成立した。戦後の安保闘争は民主主義の可能性を試したが、敗北によって人々は沈黙を選んだ。1980年代以降の新自由主義政策は労働基本権を空洞化させ、社会を不作為型翼賛体制へと導いた。

日本は形式的には自由主義国家である。だが実質は「仮面の自由主義」と「新翼賛体制」に支配されている。投票率の低下、労働基本権の衰退、メディアの同調、不作為型政治参加。これらは民主主義の空洞化を示す。

仮面を見抜き、透明性と合理性を取り戻す。強い言葉より強い制度、即断より熟議、誇りより責任を選ぶ社会こそが、熱狂に流されず、破綻に強い。