沖縄で米軍基地を取材していた2004年8月13日白昼。宜野湾市の米普天間飛行場に着陸しようとした米軍ヘリが隣接する沖縄国際大学構内に墜落した。飛行場敷地外であるにもかかわらず、駆け付けた沖縄県警や宜野湾市消防本部はもとより、大学関係者や宜野湾市当局すら米軍は排除した。いち早く現場に赴いた米海兵隊関係者は墜落ヘリの消火作業に当たるとともに大学の構外周辺全域を立ち入り禁止とした=写真=。大学関係者に負傷者はなかったが、墜落したヘリが接触した同大1号館にいた職員20数名は保護されることなく規制ロープ外に追い出された。現場中継する地元テレビ局の記者たちが声を震わせ米軍の理不尽な対処を伝えていたのを今も鮮明に思い出す。
米軍が現場を封鎖し、事故機を搬出し現場検証を終えるまで日本の警察、消防、地元自治体が現場に一切立ち入れなかったのはどういうことか。ヘリは米軍基地外で事故を起こしたのに、米軍が駆け付けた日本の警察や消防を追い散らせたのはなぜか。その答えは「日本国憲法を超える」日米地位協定にあった。「地位協定合意議事録」によると、事故現場を米軍が封鎖すれば日本国の捜査が及ばないのだ。米軍の基地内外、場所を問わず、米軍の財産に対する捜査権は日本にはないのである。この事故は日本全土が米軍の治外法権下に置かれているのを白日の下に晒す衝撃的出来事だった。
にもかかわらず日本政府は在日米軍の地位について「治外法権的なステイタスはない。その地位は日米地位協定により付与されている」と詭弁を弄してきた。それは日米地位協定の運用が日米両国の代表者で組織される日米合同委員会により協議されていることを建前としているからだ。ところがこの合同委員会の米側出席者はシビリアンではなく、一人の在日米外交官を除き全員が軍人である。しかも、委員会は協議の場とは名ばかりで、在日米軍が日本の中央省庁幹部に直接指示する場なのである。
■地位協定で軍事占領継続
1972年米外交文書(Foreign Relations of the United States、FRUS)によれば、日本がシビリアンコントロールを無視した事実上の軍政下に置かれているのは「アメリカ大使館がまだ復活してない占領中にできあがった、米軍と日本の官僚との間の異常な直接的関係を占領後も維持する」ためである。日米合同委員会研究の第一人者吉田敏浩は「日米合同委員会は米軍が『戦後日本』において、占領期(1945-1952)の特権をそのまま持ち続けるためのリモコン装置である」と適切かつ辛らつに表現している。
このような異様な二国間関係が生じた理由について、占領が終わる直前の1950年代初頭、米軍は日本を独立させることに絶対反対の立場をとっていたことが挙げられる。言うまでもなく、朝鮮戦争勃発に象徴される対ソ連や中国との冷戦の決定的深化による。当時、アイゼンハワー政権の国務長官となるジョン・F・ダレスはトルーマン大統領特別顧問として講和条約締結予備交渉のため訪日したが、「米政府がどうしても日本を独立させるというなら、『在日米軍の法的地位は変えない対日講和条約』を結ぶべし」(米陸軍省次官ボルヒーズ)との国防総省・陸軍省を頂点とする軍部からの強い圧力にさらされていた。
実際、1951年のサンフランシスコ講和条約締結と同時に相互防衛条約ではない片務的な日米安保条約が締結。翌年には1960年日米地位協定に引き継がれる日米行政協定が締結された。最低高度や飛行禁止区域を定めた日本の航空法第6章の規定が米軍機には適用されないように、日本人の人権擁護を柱とする日本国憲法は米軍に関しては無効となっている。
占領時代の米軍の権力は絶対。日本の国内法など無視して行動でき、米軍のさじ加減一つで日本の領土のどこでも基地にして、いつでも軍事演習をして、日本人を殺傷しても不問であった。ジョン・ダレスの有名な「日本全土にわれわれは好きな時に、好きな場所に、好きなだけ基地を設ける」との言葉は日本政府に対してというより、米軍部へ向けた言葉とみるべきである。
■日米安保体制と皇統存続は裏表
ここで瞠目すべき事実を記さねばならない。あらゆる政治的実権をはく奪され国民統合の象徴になったはずの昭和(裕仁)天皇が上記1950年代初頭に日米安全保障条約締結と米軍駐留継続によって日本の共産化を阻止してほしいとダレスやマッカーサーに直訴していたことだ。そのために米軍による沖縄の永続的占領を願い出いている。日本の軍事占領継続は天皇自ら米側の意向を汲んで懇願したものである。この事実は米公文書の一次資料から実証した豊下樽彦著『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』『昭和天皇の戦後日本 〈憲法・安保体制〉にいたる道』に詳しい。
豊下の実証的論考は日本の新聞、テレビなど一般メディアに完全無視され続けている。ウィキペディアですら「米国への接近を望んだ昭和天皇による『天皇外交』が存在したのではないかとの仮説を示しており、その実証に努めている」とお茶を濁している。
裕仁天皇は1945年9月末に連合国総司令官ダグラス・マッカーサーと初会見し、「自分の身はどうなってもいい。国民を窮乏から救ってほしい」と述べたと報道された。この発言を頭から否定する必要はないが、彼にとって最重要事項はいうまでもなく皇統の存続であった。「神武以来2600年余り124代にわたる」とされた皇統を自分の代で断絶させることが彼にとって断腸の思いであったことは容易に推察できる。対米敗戦で皇統は断絶の絶体絶命の危機に陥ったのだ。もはや米国に媚びて皇国を存続させるしか道は残されていなかった。
その前段となったのは1917年のロシア革命と皇帝ニコライ2世一家処刑。日本の皇室と宮中は戦慄した。日本の権力中枢にとってコミュニズム・フォビアが現実のものとなった衝撃には計り知れないものがあった。
財閥と癒着し腐敗した名ばかりの政党政治と民本主義「デモクラシー」が治安維持法制定による特高支配、統帥権干犯を口実とした文民排除と軍部専断によって雲散霧消したのは、あらゆる形態の「民主」を絶対大権を有する天皇とその側近が根絶やしにしたかったからにほかなるまい。別稿ですでに述べたように「日中戦争や対米戦争突入は軍部の暴走による」との見方は天皇免責のための詭弁である。
三井、三菱の10倍以上の規模と推定される天皇財閥を頂点とする大日本帝国の寡占資本・財閥は「泥沼化した」日中戦争で大いに潤った。軍需生産に偏った日本経済の莫大な超過利潤は財閥に吸収された。まさに天皇制ファシズムを生み出した日本の軍産複合体が対米戦争のエンジンであった。詳述を避けるが、金融・貨幣制度をはじめとする日本軍産複合体の統治手段の中国(華北、華中)への導入と軍事侵攻を認めず、完全撤退を求めた米国との軍事対決はいずれにせよ不可避だった。米側も日本が参戦するまであらゆる手段を弄して挑発したはずだ。
■「地位協定は触らない」と語った岸田文雄
日米地位協定は天皇制ファシズムと互換されたものと言えまいか。日米地位協定に関して、「『米軍』に絶対に逆らえない『日本の悲劇』」としばしば語られる。一方、天皇制ファシズムに関しては、「『近代天皇制』に絶対に逆らえなかった『日本臣民の悲劇』 」と弁明されるからだ。
「本土決戦の結果壊滅したとしても日本人が3人でも生き残れば皇統は存続できる」との狂気の沙汰の言葉を吐き、本土決戦を回避した裕仁天皇を諫めるとうそぶいた”大言論人”徳富蘇峰。かつての自由民権運動の青年闘士は天皇制ファシズムを煽りに煽り、晩年は狂った超国家主義者になり果てていた。それでも1945年8月15日の玉音放送を受けて、当時の東京毎日新聞社長は山梨に蘇峰を訪ね、同社顧問辞任を申し出た蘇峰を慰留した。
哲学者三木清は敗戦から1か月余り経た1945年9月末獄中死しているのが確認された。聖戦貫徹を叫んだ翼賛メディアは政治犯の釈放にもまったく無関心だった。だが大方の流れが民主主義に向かうと一転して軍国主義を懺悔し、民主主義を礼賛、唱道した。メディアばかりか、戦犯容疑者を含めほとんどの保守政治家は大勢順応、上辺だけアメリカ民主主義にひれ伏した。18年間の獄中生活から解放された共産党指導者徳田球一は米軍を解放軍と称え、感謝デモを企画したほどだ。
米情報はこのほど、現首相の岸田文雄が「地位協定だけは触らない」と語った、と明かした。首相就任前か、後かは不明だ。
抵抗権に自覚なき民は永久に権力者に隷属する。民衆だけではない。権力者もまた安きにつきより強大な権力者に服従する。日米安保体制はその歪んだ権力の多重性を浮き彫りにしている。
【写真】左は2022年5月訪日したバイデン米大統領。前任者と同様、米軍横田基地に到着、ヘリで都内の米軍ヘリ基地に移動。米国が日本を実質統治していることを誇示した。下の写真は岸田首相が2023年1月に訪米、ホワイトハウスを訪れた際のもの。防衛費倍増、敵基地攻撃能力、安全保障3文書を手土産に、バイデンに媚び、「称賛」されると満面に安どの笑みを浮かべた。