2021年は満州利権を巡る対立を遠因とする日米開戦80周年である。この米国と日本が同盟して今は中国と軍事的ににらみ合い、東アジアの緊張を高めている。前掲記事「永く日本を縛る中国敵視」では、明治維新を機に日本をアジア侵略へと向かわせた中国敵視と朝鮮蔑視を刷り込んだ皇国史観の淵源が古代倭国にあることを指摘した。そして大日本帝国の頂点に天皇を神聖不可侵な現人神として据えた前近代的な祭政一致の戦前体制を自発的に清算することなしに、東アジアで真の共生志向の新秩序は構築できないと訴えた。このような歴史認識に加え、1995年に内外に向け公表された村山首相談話にある「近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていく」との誓いは、米国、英国、フランスといったかつてアジアを植民地支配した旧欧米列強とともに中国包囲の新冷戦に参加する今日の日本政府に対する確たる重しとなっている。
■ギリギリの「政冷経熱」
「異質で脅威となった」共産中国を封じ込めようとする今日の米国主導の西側諸国の動きに日本政府は積極的に関与してきた。ただし、間もなく米国を凌ぐまでに勢いづいた巨大な中国経済と日本経済との繋がりはあまりに大きく、おいそれとデカップリング(切り離し)できるものではない。中国は2020年、コロナ禍をいち早く封じ込め世界の主要国中で唯一プラス成長を成し遂げた。習近平指導部は「双循環」を新発展モデルとして掲げ、輸出依存から国内市場の発展重視へと向かい、旺盛な内需の拡大実現を図ろうと進んでいる。戦後日本の高度成長時代を彷彿させる、豊かさの享受へとまっしぐらに進む14億人の巨大市場は日本企業のみならず西側企業にとって垂涎の的である。
ならば共産中国との共存の道もなんとか確保しようとするのが政治の役割となる。安倍政権(当時)は2018年10月に経済界の代表約500人を率いて7年ぶりに中国を訪問した。さらに米国、英国、フランスの艦船が南シナ海にある中国が軍事拠点とした人工島の周囲12カイリを航行する「航行の自由作戦」には今日に至るも自衛隊は不参加である。また2020年4月に予定しながら延期された習近平総書記の国賓訪日が中止されていないのも日本政府が「政冷経熱」路線をギリギリ維持して行こうと努めているからに他ならない。
対中接近はやり過ぎれば虎の尾を踏む。実際、対日司令塔となっている超党派の米シンクタンク「国際戦略問題研究所(CSIS)は2020年7月に「安倍首相を媚中へと向かわせている政界とその周辺人物」を名指し批判した。その一人は経産省出身で安倍最側近の官邸官僚・今井尚哉総理補佐官だったが、もう一人は二階俊博自民党幹事長であった。その後、二階幹事長はパージされるどころか安倍後継の菅政権生みの親となった。これはワシントンからの圧力をかわしたというよりも、親中派として振る舞うその活動が虎(米国)に一定の利益をもたらすシステムが出来上がっているためではないか。
欧米メディアに戦前の天皇制軍国主義を賛美する極右政権と酷評された安倍前政権とその路線の継承を誓った菅現政権ですら中国との共存の道を探っているのは、自社連立政権を率いた社会党党首・村山富市首相が内外に向けて公表した1995年8月15日談話(村山談話)が後継政権の踏襲せざるを得ない国際公約となり、確かな歯止めとなっているからだ。
■社会党の遺産:安倍政権を縛る
1989年冷戦終焉と1991年ソ連邦崩壊は、親米・日米安保基軸を唱える保守政党・自民党と安保破棄・非武装中立を唱えた社会主義政党・社会党が競争、対立した二大政党時代、いわゆる55年体制を崩壊させた。詳述は避けるが、その崩壊過程の中で「瓢箪から駒」の形で誕生したのが自民・社会両党の連立した村山政権であった。これにより社会党は自衛隊合憲、日米安保条約是認へと政策を180度転換した。
村山内閣は1994年6月から96年1月までの短命に終わり、村山の後継首相には自民党総裁の橋本龍太郎が就任する。いわゆる「自民・社会・新党さきがけ」の連立政権は1998年6月まで続くが、この野合と言われた連立により自民党は単独での政権復帰に道を拓き、ヨーロッパ型社会民主主義の旗を掲げ社会民主党(社民党)と党名変更した社会党は消滅への道を辿ることになる。
この経緯から見ると、過去に「国策を誤り」、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たとして、「痛切な反省の意」と「心からのおわびの気持ち」を表明した村山談話は、繰り返すが、世界、とりわけ中国、韓国をはじめとするアジア諸国への普遍的な公約として後継の歴代政権が引き継がざるを得ない遺産となった。(談話全文は末尾に掲載)
冷戦の終結と日本のバブル経済崩壊に続く、新自由主義政策の本格導入は格差拡大を招き、「失われた30年」と言われる日本経済の停滞と国際的地位の低下は社会の右傾化を生み出した。それは日本の政治に米国の占領政策を否定し、憲法改定をはじめ戦前回帰を志向する歴史修正主義の大きな潮流を生んだ。その象徴が在任歴代最長となった安倍政権である。村山談話はこれを期せずして予期して、連立与党内での自民党右派などの執拗な妨害を押し切り公表を実現した。
問題の安倍首相は終戦70周年談話において「植民地支配」、「侵略」という言葉を用いたものの、明らかに主語を意図的に曖昧にした。だが、この二つの用語に加え、村山後の歴代政権が踏襲した「反省」、「お詫び」という4つのキーワードを維持した。安倍首相は国会答弁で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と繰り返したものの、70年談話では「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」と村山談話をさらに一歩踏み込んだ面もみられる。
そして戦争自体を違法とした1928年パリ不戦条約を踏まえ、「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」との戦争放棄を謳った日本国憲法9条尊重の誓いとも受け取れる文言を盛り込んだ。
冷戦終結は、一時的にせよ、社会主義への魅力を失わさせ、これとともに党勢衰退を余儀なくされた社会党。野合と非難されながら敢えて自民党との連立に踏み切って激しい非難を浴び、支持離れを加速させたが、その遺産となった村山談話は与党・政権党であったからこそなし得たものである。安倍内閣をはじめ右傾化した後継政権をきつく縛っている。
■村山談話の限界
村山談話の成立過程を振り返ると非常に厳しい条件があった。
第一に自民党との連立政権であったことだ。社会党は最初に「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」という国会議決草案を提出した。だが自民党などからの反発にあい、表現の修正を余儀なくされた。決議自体に反対する議員も多く、全会一致で可決されることの多いこの種の決議としては異例の241人もの大量欠席者を出し、賛否が拮抗した。
結局、1995年6月に与党議員70人を含む241人が欠席する異例の事態の中、251人が出席し、230人の賛成で可決された。与党からは自民党議員らが「議決はそもそも不要」などとして70人が欠席したが、このうち社会党所属議員14人が「修正案は自民党などに譲歩しすぎ」と反発して欠席した。
参議院でも同様の決議を提出しようとしたが、日本会議の柱となった生長の家を支持母体とする自民党参議院幹事長の村上正邦らが強硬に抵抗したことで、提出を見送られた。このため社会党は8月15日の敗戦記念日に首相談話を出そうと動く。
村山自身はこう回顧している。
「終戦後五十年の節目の年。国内的にも国際的にもけじめをつけられる問題についてはけじめをつけ、二十一世紀の展望に道を開くのがこの内閣の役割と考えた。しかし、戦後五十年の国会決議は自民党や各会派の保守強硬派の突き上げで、散々なことになった。」「それならば、歴代首相が示してきた『おわび』を集大成し、21世紀のアジア外交の基本理念を首相談話で示すしかなかった」。
敗戦を認めず、太平洋戦争を植民地からアジアを解放する聖戦だったと主張する狂信的な国家主義者や皇国史観にとりつかれた右翼政治家を数多く抱える保守党との連立政権として公表された1995年内閣総理大臣談話には自ずから限界もある。
例えば、中国、韓国、東南アジア諸国の国名を挙げることを避け、戦争犯罪とその責任について具体的な言及はない。筆者が前掲記事「永く日本を縛る中国敵視」で指摘した古代史を踏まえての歴史認識への言及など、村山内閣を囲む環境を考えれば、望むべくもなかった。
言葉を換えれば、その原因は、敗戦国日本が米国に単独占領された間接統治の下、早々と戦犯釈放や公職追放解除が行われ戦犯や右翼政治家が政界に多数復帰した民主化と戦前体制清算の不徹底にある。内発的に自らの統治機構を民衆主体で抜本変革したことのない、大勢として権力に逆らうことを避け、権威に卑屈なまでに従順な傾向の目立つ国民性を諫める形となった村山談話は55年体制の一翼を担った社会党への「挽歌」となった。
■談話その後:不信どう拭う
村山は1998年6月に出版された首相体験録(インタビュー)本の中で敗戦50周年談話の背景についてこう述べている。
「総理のときにアジアを回って思ったのは…過去の歴史からして(日本への)疑念や不信を完全に払拭しきっているとは言えない。これだけの経済大国になった日本が再び誤りを繰り返すことがあるかもしれない。」「日米安保条約は(日本の軍事大国化の)一つの安全弁の働きをしているのは間違いない。『ビンのフタ』論じゃな。そういう疑念があること自体よろしくない。」「過去の歴史に対する認識をきちんと位置付け、(世界との)信頼関係をしっかり根付かせようとした。」
安保条約を「ビンの蓋」とする米国をはじめ旧戦勝国はその腹の底では日本の保守政権への不信感を拭えず、警戒を続けている。本ブログでは一貫してこれを強調し、直近では11月23日掲載の「『日本の右翼政権に軛かける』 新日英同盟と拡大NATO 」で触れた。
中国は2015年8月の安倍談話公表前に「安倍首相が植民地支配や侵略の文字を消し村山談話を変えると発言している」と懸念していた。中国中央電視台(CCTV)は同年1月、村山富市元首相に取材した。村山氏はこう答えた。
「それは不可能。談話は国際的な約束事。村山談話は、日本の進むべき道を示すとともに、世界への誓約となった。これを変えたり修正することはできない。諸外国は、『日本は何を考えている、何がしたいのだ』と思うだろう。それは、日本の信頼低下につながる。安倍首相が新しい談話を発表すると言ったが、あらゆる点から考えて、村山談話を変えることはできないだろう」。
【写真】2015年7月、雑誌「人民中国」の取材に応じる村山元首相
同紙は「村山元首相に聞く、隣国との和解で切り拓かれる未来」と題する記事を掲載。
インタビューに際し、「20年前の1995年8月15日、当時の村山富市首相が戦後50年の節目に発表した『村山談話』は、日本にとってどんな意味を持つのか。安倍首相がこの8月に発表する『安倍談話』が『村山談話』の精神を継承するものとなるのか。中国、韓国をはじめ世界がこれに注目している。」と書いている。
2015年安倍談話の内容は曲がりなりにも上の村山氏の指摘通りになった。訪中する日本の政治家たちは与野党問わず今日の日中関係の土台となっている村山談話の重さを痛感しているという。
2020年にはこう発言した。
「歴代内閣が村山談話を踏襲していることは当然のこと。先の大戦について『侵略ではないとか、正義の戦争であるとか、植民地解放の戦争だったなどという歴史認識は、全く、受け入れられるはずがないことは、自明の理』。「日本の多くの良心的な人々の歴史に対する検証や反省の取り組みを『自虐史観』などと攻撃する動きもありますが、それらの考えは全く、間違っています」「日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶(おとし)めるのでは、ないでしょうか」。
「『村山談話』が、今後の日本、アジア、そして世界の和解、平和、発展に貢献してくれることを期待したい」「アジアの平和と安定の構築のためには、日中両国の、安定的な政治・経済・文化の交流・発展を築いていかねばなりません。その成就を祈るばかりです」。
今日、日米安保条約破棄はタブーと化した。だがタブーに挑まずして日中両国関係の安定的発展は築けない。問題の直接的な根は日本の敗戦後の歩みにある。タブーを克服する強靭で柔軟な知力、構想力、そして行動力が求められている。
村山談話全文
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話) 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(1995年8月15日、外務省ウェブサイトより)