森辞任が映す「変わらぬ日本」 逆コースと清和会 差替

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などと女性蔑視発言を行い国内外で怒りと非難を巻き起こした東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が2月12日辞任した。問題の蔑視発言があったのは2月3日。以降10日間というもの、五輪開催国組織委員会トップの五輪精神を踏みにじる発言に日本のみならず、世界中から即時辞任を求める声が相次いだ。失言・暴言王と揶揄されてきた森は本ブログの主要テーマである「変わらない日本」「戦前体制を清算できない日本」を具現する人物である。首相在職中の2000年には「日本は天皇を中心とする神の国」と述べて大日本帝国を賛美している。差別と服従を強い、人権を蹂躙する家父長制に支配された戦前体制を問題視できない人物だから、折に触れて女性を差別、蔑視する本音が露骨に飛び出てしまうのだ。問題は森個人の資質だけでなく、政権与党がこのような旧体制思想に育まれた利権まみれのボス政治屋を次々と生み出す日本政治の病巣にある。

■「逆コース」人脈に入る

石川県能美郡根上町(現能美市)の森家は江戸時代から庄屋を務める名望家で、祖父、父ともに長く地元町長を務めた。喜朗は戦前の典型的な旧家の長男として1937年に生まれている。学生時代は安保条約賛成の声を盛り上げるため東京都内の各大学の弁論部有志で結成した右派学生組織「学生同友会」に参加。その縁でフジサンケイグループを率いる水野成夫を紹介され、安保闘争の最中1960年に産経新聞に入った。

産経傘下の業界紙記者時代、岸信介側近の衆議院議員今松 治郎と知り合い秘書となったのが政界入りのきっかけである。今松は主として警察畑を歩んだ内務官僚で戦後は公職追放されている。追放解除後の1952年の総選挙に旧愛媛3区から出馬して当選。岸を師と仰ぎ尊敬した今松は、岸一次内閣では1957年に総理府総務長官(初代)に就任した。1962年の岸派分裂後も最後まで岸派に残るが、1967年に死去。

森は今松の後継者として愛媛から1969年の衆院選に出馬も検討したものの、結局地元の旧石川1区で立候補した。だが当時の田中角栄自民党幹事長は森を「泡沫候補」と呼んで、公認しなかった。そこで救世主となったのが元首相岸信介だった。岸は、森が今松の元秘書だと聞いて石川県にまでわざわざ足を運んだ。非公認ながらこの初選挙で森はトップ当選を果たす。

A級戦犯として収監されながら1948年に釈放され、その後10年を経ずに首相となった岸は、共産主義の侵攻を阻止するためにはファシスト、軍国主義者であっても利用した米国の対日政策転換、いわゆる「逆コース」路線で生み出された代表的政治家である。この岸に見込まれた森が岸の娘婿安倍晋太郎とその息子の安倍晋三、岸信夫らと強い絆で結ばれていることは言うまでもない。

■清和会を率いる

1962年11月、岸信介は「十日会(岸派)」の解散を宣言。派閥を解散して後継者の福田赳夫を中心とした新派閥を作ろうとしたが、これに川島正次郎を中心としたグループが反発して岸派は分裂する。

こうして1976年から2年間総理となる福田赳夫をリーダーとした現在の清和会が結成された。引退した岸の強い意向もあり、1986年に安倍晋太郎が清和会会長となる。森は安倍の下、派閥内の三塚博、加藤六月、塩川正十郎と並び安倍派四天王と呼ばれる。

1998年末に森喜朗が三塚の後継会長となった。森は2000年に首相に就任、福田以来の総裁派閥となる。清和会は森の退陣後に小泉純一郎が首相に就任、森は派閥の会長に復帰する。党内第一派閥となって小泉に続き、安倍晋三、福田康夫、そして再び安倍が総理となり、永田町の「清和会支配」が出来上がる。やがて森は日本の保守政界のドンとして米放送業界をはじめとする膨大な利権をさばく東京五輪組織委員会を率いることとなる。

【写真】安倍政権での内閣改造や自民党役員人事では、森は助言というより誰がどの役職に就くのか、安倍に『指示』を出したという。したがって1次、2次で計9年近く存続した安倍政権の実態は森・安倍政権、あるいは清和会・日本会議政権とも形容できる。

 

 

 

 

■超国家主義装う機会主義集団

清和会の礎を築いた岸信介は追放解除された1952年に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立、会長となる。翌53年、再建連盟が総選挙に大敗したため右派社会党に入党しようとしたものの、党内の反対が激しく入党できなかった。このため一転して吉田茂率いる自由党に入党したが、吉田の「軽武装、経済優先」路線に反発したたため1954年に自由党を除名されている。そして鳩山一郎とともに日本民主党を結成し、1955年の保守合同へと進む。そして首相に就任したばかりの石橋湛山が急病で倒れ、在任3カ月余りで辞任し1957年2月に棚からぼた餅式に総理の座を射止める。石橋の突然の病には米工作説も流布された。

ここで浮かび上がるのは占領憲法否定、自主軍備、自主外交を唱えながらも、政策的には真逆だった当時の右派社会党に入党しようとした露骨な機会主義、日和見主義的な性向である。論者の中には、戦前には革新官僚と呼ばれた国家社会主義者の岸は満州時代ソ連の計画経済に傾斜、政権を担ってからは国民皆保険制度など社会福祉政策も重視して実行しており、右派社会党へと動き掛けたのはそれなりの理由があると擁護する者がいる。だがそれは牽強付会な議論である。

この日和見ぶりは第一次政権で米国の占領政策や東京裁判に異を唱え戦前回帰を公然と志向した安倍晋三が一次政権での挫折を教訓に第二次政権では口先だけの「憲法改正」を唱えながら、米国の指示通り株高誘導の経済政策アベノミクスを看板に据え、安保・外交面では「100%米国とともにある」隷属型軍拡路線を採用したことと相通じる。

■森失言は「失言にあらず」

森は2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会において現職首相として挨拶し、「いま私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になることをしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね、私達が活動して三十年になったわけでございます。」と述べた。

極右宗教団体「生長の家」を母体の1つとし、安倍政権の骨格となった日本会議が発足して3年経たばかりのことだった。森は”失言”の後「(日本会議を支える)神道政治連盟関係者の皆さんにリップサービスしただけ」と言い訳をした。だが彼の脳裏には行政府の長としての「主権在民」や「政教分離」を定めた憲法順守義務などかけらもなかったはずだ。

政治家の失言は「本音の漏洩」とよく言われる。だが森のそれはあまりに軽く、露骨すぎた。発言内容をみても失言のレベルを遥かに超えている。だが森を先頭ランナーとする歴代清和会政権が安倍超長期政権を生み出し、戦後日本の政界、否、その社会風景を大きく変えてしまうこととなる。

 

:2020年11月12日掲載記事「岸信介から安倍晋三への道 親米右派の系譜4」などを参照されたい。