漂流日本・国は誰のために⑤戦後日本保守政治の二重構図と清和会の終焉         12月最新版

序:

戦後日本の政治は、単なる派閥抗争ではない。その深層には、明治以来の長い思想の川が二つに分かれ、互いにぶつかり合いながら流れ続けてきた政策路線がある。

一つは、西園寺公望が19世紀末パリに10年滞在しパリ・コンミューンを目撃し、後の宰相クレマンソーらに接して得た自由主義の空気、その自由主義の空気を宮中で最も実務的な形に翻訳し行政合理主義として練り上げた牧野伸顕、そして戦後の現実政治の中で官僚主導の政策決定を“合理的統治”として制度化した吉田茂へと続く、穏健保守・官僚国家・対米協調の系譜――宏池会である。

もう一つは、ウォール街とMRAが戦後日本に持ち込んだ反共思想、岸信介が占領期の闇の中で掴み取った米国保守層とのネットワーク、そして冷戦の高まりとともに“親米右派”として結晶した、強硬保守・市場原理・宗教右派的ナショナリズムの系譜――清和会である。

この二つの潮流は、戦後日本の政治を単なる政局ではなく、理念と現実、行政合理主義と反共ナショナリズム、穏健と強硬、官僚国家と市場国家という対立として形づくってきた。

宏池会と清和会の対立とは、戦後日本が抱え続けた「生存選択」の衝突であり、その根は明治期のパリと宮中にまで遡る。そしてその枝葉は、冷戦の恐怖とアメリカの影響力の中で大きく広がり、、昭和、平成から令和に至るまで、日本政治の運命を左右し続けている。

■戦後日本の漂流と二重構図

3章で述べたように、1930年代のアメリカはニューディーラーとウォール街の対立に象徴される。F・ルーズベルト政権下で社会改革を志向し、金融資本の既得権益に挑戦したニューディーラーは、ウォール街に排斥され、敗戦国日本を「実験場」とみてGHQ民政局に乗り込んだ。、平和憲法を制定し、封建社会の徹底民主化を図ろうとしたが、冷戦の本格化とともに日本からも追放された。ウォール街が戦後日本の演出者となったのである。

その結果、日本国憲法、労働三権、教育改革、財閥解体は骨抜きにされ、ウォール街と軍産複合体の冷戦戦略が日本を支配した。徹底民主化の夢が未完に終わったその後、サンフランシスコ講和を経て自民党が結成され、日本国内政治は「宏池会」と「清和会」という二重構図に絡め取られていく。宏池会=吉田茂を源流とする保守本流は合理主義を偽装しつつ「軽武装・経済優先」を掲げ、平和憲法を守る路線を歩んだ。清和会=岸信介を源流とする保守傍流は「自主憲法・自主軍備」を唱え、戦前体制の残滓を抱えたまま米国の掌の中で台頭した。

■宏池会の抵抗と平和憲法

宏池会は「軽武装・経済優先」を掲げ、戦争体験者の「二度と戦争はごめん」という悲痛な声を背景に平和憲法を守る路線を歩んだ。象徴的なのが1981年の鈴木善幸首相訪米である。日米共同声明に「同盟関係」という文言が初めて盛り込まれたが、鈴木は国会答弁で「軍事的意味はない」と繰り返し強く否定した。

外務省事務方は鈴木首相の意向を無視して文言を挿入した。しかも「同盟関係」を挿入したことを知らせなかった。同行し傍らで観ていた通産省出向の総理秘書官(当時)は「外務省は戦中派の鈴木氏がかつて社会党員であり、安保条約に疑問を持っている人物ではないかと警戒していた」と10年後に筆者に証言した。この事実は、日本の中枢が米国の意向に完璧に従属していたことを露骨に示すものだ。

鈴木の抵抗は、宏池会的平和主義の最後の輝きであった。大塚が指摘した「共同体的規範」はここでは「戦争体験者の倫理」として現れ、近代合理性に基づく平和憲法の擁護と結びついた。鈴木は1981年衆院予算委員会で「わが国が集団的自衛権の行使を前提とする軍事的役割を分担することはない。」と明確に答弁した。

■清和会の台頭と保守主流逆転

バブル崩壊以降、米国は中国台頭を予期し、護憲・平和主義の政治家を排除した。リクルート事件・佐川急便事件などのスキャンダルは田中派・経世会を直撃し、宏池会も衰退した。一方、清和会は岸信介の流れを継ぎ、CIAや統一教会と結びつき、自主憲法制定を最大目標とした。孫の安倍晋三は1993年初当選からわずか13年で首相に就任する異例のスピード出世を遂げた。背後には米ネオコンとジャパンハンドラーの圧力があった。

アーミテージ・レポートは逐条で日本に要求を突きつけた。2000年第一次レポートは「集団的自衛権行使の容認」「有事法制の国会通過」「米軍と自衛隊の統合」を掲げ、2012年第三次レポートでは「新安保法制制定」を迫った。安倍政権はこれら要求をことごとく実現し、自衛隊を米軍の世界戦略に組み込む体制を完成させた。

CIA資金による自民党結党、ジャパンロビーの暗躍、米金融財閥の影響は、岸派=清和会を支える基盤となった。岸は「自主憲法・自主軍備」を唱えたが、実際には米国の掌の中で親米・反共路線を歩んだ。安倍晋三も「戦後レジュームからの脱却」を唱えながら、実際には米国の指示通り隷属型軍拡路線を採用した。

湾岸戦争、9・11、イラク戦争を経て、清和会は主流派へと逆転した。小泉純一郎の「自民党をぶっ壊す」は橋本派を葬る宣言であり、森に続き清和会系首相が続いた。安倍晋三の最長政権は、米国の圧力と清和会支配の完成を象徴した。

ここに見えるのは、「共同体的規範の復活」である。安倍晋三の政治路線は、近代合理性よりも共同体的規範に依拠し、戦前回帰的な政治文化を再生した。そのスピード出世は合理的な制度の産物ではなく、米ネオコンの世界覇権戦略と日本国内の岩盤保守層が囚われている血統と結社の力によって複合的に支えられた。

■永田町に徘徊する皇国日本の亡霊

自民党の右傾化は民主党政権(2009~2012)との政権交代で急進化した。鳩山政権の防衛相を務めた北澤俊美は国会質疑での安倍晋三の言葉遣いに「軍事への憧憬を感じる」と述べた。祖父岸信介を継いで日本国憲法をGHQによる押し付け憲法として排除し、一貫して憲法改正を唱えた安倍。この「強い軍事大国」志向は戦前の皇国思想に裏付けられている。

安倍が2009年に死亡した中川昭一を後継して会長になった議員連盟「『創生』日本」は自民党を中心に会員約100人。安倍存命中での2012年の「憲法改正誓いの儀式」と称する会合では、自民党の改憲草案すら否定、「党改憲草案は国民主権、基本的人権を尊重、平和主義を堅持している。平和主義は堅持するとされた。この3つはGHQによる押し付けで戦後レジュームそのもの。なくさなければ真の自主憲法にはならない」(長勢 甚遠元労働相)との発言が飛び出たとされる。

長瀬発言を補完するかのように稲田朋美元防衛相は「国を護るためには国民が血を流す必要がある。2600年もの間、皇室を奉じて来た日本だけが道義大国を目指す資格がある」、高市内閣内閣府特命担当相城内実は「「日本にとって一番大事なのは皇室であり国体」と発言、国民主権を否定し、戦前回帰と天皇大権を示唆している。

高市首相は安倍の最側近として、この議員連盟を支えた。永田町には皇国日本の亡霊が昼夜を問わず徘徊する。その亡霊が高市政権の中で陰となって活動している。高市の「存立危機事態」対中強硬発言、安全保障担当側近の「核保有すべきと思っている」発言、経済や民生分野への支援の大幅削減と殺傷兵器輸出への尽力。どれを見ても「強い軍事大国」という亡霊が姿を現したものだ。

ただし、靖国神社、日本会議、遺族会を頂点とする自民党支持基盤・岩盤保守層への配慮、すなわちそれが票田確保優先であることはみえみえ。そして企業団体献金で支えられる軍事・防衛産業への見返りを意味する。

高市自民党のニューパートナーとなった日本維新の会創設者、橋下徹は2025年12月25日に民放報道番組に出演、日中関係を巡り「軍事力で追いつくまで中国に頭を下げる」と語った。これは明治維新の「列強に追いつく軍事大国の建設」志向と符合する。明治維新から約140年後に登場した安倍政権の強烈な軍事大国志向を継承するものだ。追いつこうとする相手は、中国だけでなく、米国かも知れない。

ネオコンに支配された清和会政権は宏池会政権時代の平和と護憲、民主を「戦後レジューム」の否定としてずたずたにした。

■中国脅威論と愛国心称揚 ― 世論操作の装置

中国脅威論は単なる外交上の懸念ではなく、国内世論を操作する装置として機能した。天安門事件、ウィグル独立運動、香港雨傘運動など、中国国内の動揺は米英諜報機関の関与が指摘され、日本国内では「中国は不安定で危険な国家」という印象が強化された。尖閣諸島国有化をめぐる緊張は、民主党政権の失策として批判され、安倍政権の「強い日本」路線を正当化する材料となった。

1997年の日本会議が設立され安倍政権を支えた。その趣意書には「美しい日本の再建と誇りある国造り」が記されている。これは共同体的規範の復活を象徴する文言である。愛国心称揚は、戦前の皇国史観を想起させ、戦後民主主義の基盤を揺るがした。スポーツ会場での「ニッポンすごい」熱狂、テレビ番組での「日本礼賛」、学校教育での「道徳」強化は、共同体的規範を再生する心理的装置となった。

これは大塚の言う「近代合理性の遅延」である。合理的な制度よりも共同体的規範が優先され、政治は再び共同体の力に支配された。

■自衛官重用と文民統制の影

安倍政権期には自衛官OBが防衛相に登用され、文民統制が揺らいだ。中谷元の防衛相就任はその象徴であり、集団的自衛権行使容認と安保法制成立の期間に自衛官OBが防衛省トップを務めた。

田母神俊雄の「日本は侵略国家であったのか」論文は旧軍人脈の復古主義を露呈し、尖閣デモや核武装容認発言へとつながった。鳩山由紀夫首相を侮辱した自衛隊幹部の発言も、文民統制の危機を示した。防衛省は2015年に統合幕僚監部へ権限を一元化し、従来「背広組」と呼ばれた防衛官僚と「制服組」と呼ばれた自衛官幹部を対等とする制度改正を行った。

これは一見すると合理化のように見えるが、実際には文民統制の重しを外す危険な制度変更であった。戦後日本の安全保障体制は「文民統制」を原則としてきたが、この改正は旧軍のような暴走を抑止する仕組みを弱める方向に働いた。

安倍政権期には、自衛官OBが防衛相に登用される事例が増え、軍事の専門性が政治を凌駕するかのような風潮が広がった。これは「軍事のプロ」崇拝の道を開き、戦後民主主義の根幹を揺るがすものであった。

さらに、自衛官OBは退官後に軍需企業やシンクタンクに天下りし、日米軍事産業の利害を代弁する存在となった。彼らは台湾有事や尖閣危機を煽り、世論を軍拡へと誘導した。ハーバード大学研究員の肩書を持つ元将官らが共同で著作を発表し、「台湾有事は日本有事」と訴える姿は、米国の戦略と自衛隊幹部の利害が結びついた新しい形の「安全保障言説装置」として機能した。

このように、安倍政権期の自衛官重用は、戦後日本の安全保障体制の根幹を変質させるものであった。文民統制の影が薄れる中で、戦前の皇軍的精神が復活し、共同体的規範が軍事領域に再生される危険が顕在化したのである。

■対中包囲網と国際戦略構想

ここで補強材料として、筆者のブログ記事「米の単独覇権支えるべく、日本はユーラシア跨ぐ 戦後終焉の展望開けず」(2024年3月9日)を参照する。同記事では、日本の安全保障環境を次のように描いた。

日本は、ユーラシア大陸におけるロシアや中国を封じ込めようとする米英アングロサクソン同盟のための「防人」にすぎない。冷戦後、NATOは防御的な組織から攻撃的な性格を持つ地球規模の集団安全保障網へと変質し、その中で日本は事実上一員として中国包囲網の先頭に立たされている。安倍政権期には2007年に首相自らNATO本部を訪問し、さらに2017年には日本政府代表部を設置した。これは「事実上のNATO加盟」とみなされ、ウクライナ支援を含めた米英戦略の一環に組み込まれることとなった。

このような状況の中で、日本人は「かつて唐の侵攻を恐れて東国から九州に配備された防人」のように扱われている。つまり、中国脅威論は単なる地域的懸念ではなく、米国の単独覇権戦略の一部として日本に押し付けられたものであり、日本は主体的な選択を欠いたまま、国際戦略の前線に立たされているのである。

■結語 安倍派の終焉と戦後日本の漂流

安倍晋三の政治路線は、米国戦略に従属し、自衛隊を米軍の世界戦略に組み込むことを目的としていた。中国脅威論と愛国心称揚はそのための世論操作装置であり、安倍政権は「タカ派の貴公子」として担がれた。しかし、親米の衣の下に反米の鎧を隠し持つ安倍の存在は、やがて米国にとって「利用価値を失った危険な存在」となり、暗殺と安倍派解体は必然の帰結となった。

宏池会は一貫して「軽武装・経済優先」を掲げ、疑似的ではあるが近代合理性に基づく政治路線を歩んだ。鈴木善幸の抵抗はその象徴であり、共同体的規範に回帰する清和会とは質的に異なる。森・安倍の拝米・反米は、宏池会の対米姿勢とは根本的に違うものであり、戦後日本政治の二重構図を鮮明に浮かび上がらせる。

本稿は、この二重構図を通じて、戦後日本政治の「深い闇」を描き出そうとするものだ。ニューディーラーとウォール街の対立が戦後日本に移植され、錯綜した形ながら「宏池会と清和会の対立」として展開された。そして安倍派の終焉は、共同体的規範の復活とその崩壊という歴史的必然として位置づけられる。戦後日本の漂流は、ここに至って一つの帰結を迎えている