序:戦後日本の漂流と二重構図
1930年代のアメリカ政治は、ニューディーラーとウォール街の対立に象徴される。ニューディーラーはF・ルーズベルト政権下で社会改革を志向し、金融資本の既得権益に挑戦したが、ウォール街は彼らを排斥し、居場所を失わせた。敗戦日本がその「実験場」となり、GHQ民政局に派遣されたニューディーラーは民主化と平和憲法制定を推進した。しかし冷戦の本格化とともに彼らは排斥され、ウォール街が戦後日本の演出者となった。
この構図は戦後日本政治に移植され、吉田茂を源流とする宏池会=保守本流と、岸信介を源流とする清和会=傍流という二重構図を形成した。これは大塚久雄の「共同体的規範」と「近代合理性」のせめぎ合いとの言葉を想起させる。日本の近代化は共同体的規範の強靭さゆえに遅延を余儀なくされ、その遅延ゆえに戦後政治の漂流が生じたのである。
戦後80年を迎えようとする今も「戦後を終わらせる展望」は開けない。経済成長の果実を享受した時代は過ぎ去り、政治は二重構図の対立に絡め取られたまま、出口を見いだせない状況にある。
■宏池会の抵抗と平和憲法
宏池会は「軽武装・経済優先」を掲げ、戦争体験者の「二度と戦争はごめん」という悲痛な声を背景に平和憲法を守る路線を歩んだ。象徴的なのが1981年の鈴木善幸首相訪米である。日米共同声明に「同盟関係」という文言が初めて盛り込まれたが、鈴木は国会答弁で「軍事的意味はない」と繰り返し強く否定した。
外務省事務方は鈴木首相の意向を無視して文言を挿入した。しかも「同盟関係」を挿入したことを知らせなかった。同行し傍らで観ていた通産省出向の総理秘書官(当時)は「外務省は戦中派の鈴木氏がかつて社会党員であり、安保条約に疑問を持っている人物ではないかと警戒していた」と10年後に証言した。この事実は、日本の中枢が米国の意向に完璧に従属していたことを露骨に示すものだ。
鈴木の抵抗は、宏池会的平和主義の最後の輝きであった。大塚が指摘した「共同体的規範」はここでは「戦争体験者の倫理」として現れ、近代合理性に基づく平和憲法の擁護と結びついた。鈴木は1981年衆院予算委員会で「わが国が集団的自衛権の行使を前提とする軍事的役割を分担することはない。」と明確に答弁した。
■清和会の台頭と安倍晋三
一方、清和会は岸信介の流れを継ぎ、CIAや統一教会と結びつき、自主憲法制定を最大目標とした。孫の安倍晋三は1993年初当選からわずか13年で首相に就任する異例のスピード出世を遂げた。背後には米ネオコンとジャパンハンドラーの圧力があった。
アーミテージ・レポートは逐条で日本に要求を突きつけた。2000年第一次レポートは「集団的自衛権行使の容認」「有事法制の国会通過」「米軍と自衛隊の統合」を掲げ、2012年第三次レポートでは「新安保法制制定」を迫った。安倍政権はこれら要求をことごとく実現し、自衛隊を米軍の世界戦略に組み込む体制を完成させた。
ここに見えるのは、「共同体的規範の復活」である。安倍晋三の政治路線は、近代合理性よりも共同体的規範に依拠し、戦前回帰的な政治文化を再生した。そのスピード出世は合理的な制度の産物ではなく、米ネオコンの世界覇権戦略と日本国内の岩盤保守層が囚われている血統と結社の力によって複合的に支えられた。
■中国脅威論と愛国心称揚 ― 世論操作の装置
中国脅威論は単なる外交上の懸念ではなく、国内世論を操作する装置として機能した。天安門事件、ウィグル独立運動、香港雨傘運動など、中国国内の動揺は米英諜報機関の関与が指摘され、日本国内では「中国は不安定で危険な国家」という印象が強化された。尖閣諸島国有化をめぐる緊張は、民主党政権の失策として批判され、安倍政権の「強い日本」路線を正当化する材料となった。
1997年の日本会議設立趣意書には「美しい日本の再建と誇りある国造り」と記されている。これは共同体的規範の復活を象徴する文言である。愛国心称揚は、戦前の皇国史観を想起させ、戦後民主主義の基盤を揺るがした。スポーツ会場での「ニッポンすごい」熱狂、テレビ番組での「日本礼賛」、学校教育での「道徳」強化は、共同体的規範を再生する心理的装置となった。
これは大塚の言う「近代合理性の遅延」である。合理的な制度よりも共同体的規範が優先され、政治は再び共同体の力に支配された。
■対中包囲網と国際戦略構想
ここで補強材料として、筆者のブログ記事「米の単独覇権支えるべく、日本はユーラシア跨ぐ 戦後終焉の展望開けず」(2024年3月9日)を参照する。同記事では、日本の安全保障環境を次のように描いた。
日本は、ユーラシア大陸におけるロシアや中国を封じ込めようとする米英アングロサクソン同盟のための「防人」にすぎない。冷戦後、NATOは防御的な組織から攻撃的な性格を持つ地球規模の集団安全保障網へと変質し、その中で日本は事実上一員として中国包囲網の先頭に立たされている。安倍政権期には2007年に首相自らNATO本部を訪問し、さらに2017年には日本政府代表部を設置した。これは「事実上のNATO加盟」とみなされ、ウクライナ支援を含めた米英戦略の一環に組み込まれることとなった。
このような状況の中で、日本人は「かつて唐の侵攻を恐れて東国から九州に配備された防人」のように扱われている。つまり、中国脅威論は単なる地域的懸念ではなく、米国の単独覇権戦略の一部として日本に押し付けられたものであり、日本は主体的な選択を欠いたまま、国際戦略の前線に立たされているのである。
■結語 安倍派の終焉と戦後日本の漂流
安倍晋三の政治路線は、米国戦略に従属し、自衛隊を米軍の世界戦略に組み込むことを目的としていた。中国脅威論と愛国心称揚はそのための世論操作装置であり、安倍政権は「タカ派の貴公子」として担がれた。しかし、親米の衣の下に反米の鎧を隠し持つ安倍の存在は、やがて米国にとって「利用価値を失った危険な存在」となり、暗殺と安倍派解体は必然の帰結となった。
宏池会は一貫して「軽武装・経済優先」を掲げ、疑似的ではあるが近代合理性に基づく政治路線を歩んだ。鈴木善幸の抵抗はその象徴であり、共同体的規範に回帰する清和会とは質的に異なる。森・安倍の拝米・反米は、宏池会の対米姿勢とは根本的に違うものであり、戦後日本政治の二重構図を鮮明に浮かび上がらせる。
本稿は、この二重構図を通じて、戦後日本政治の「深い闇」を描き出そうとするものだ。ニューディーラーとウォール街の対立が戦後日本に移植され、錯綜した形ながら「宏池会と清和会の対立」として展開された。そして安倍派の終焉は、共同体的規範の復活とその崩壊という歴史的必然として位置づけられる。戦後日本の漂流は、ここに至って一つの帰結を迎えている。