■日本の150年、何が間違ったのか
日本という国は、なぜこれほど長く漂流し続けてきたのか。この問いは、戦後の論壇でも、歴史学でも、政治学でも、繰り返し問われてきた。しかし、どれほど議論が積み重ねられても、核心に触れた言葉は驚くほど少ない。「なぜ止まれなかったのか」「なぜ暴走したのか」「なぜ敗戦に至ったのか」。問いはいつも“国家”の側から発せられ、“民衆”の側から語られることはほとんどなかった。
だが近代史の本質は「人民主権」にある。日本の近現代史を貫く一本の太い線——それは、民衆が政治の主体となり得なかったという構造的欠陥である。この一点を見落とす限り、日本の150年は永遠に読み解けない。
明治維新は「近代化」の象徴として語られる。だが、その実態は欧米型市民社会の形成ではなく、軍事国家の建設であった。民衆は政治の主体として迎え入れられたのではなく、徴兵・納税・忠誠を義務づけられる“臣民”として組み込まれた。
しかもこの三重の義務は、江戸期よりも重かった。江戸時代、農民は年貢に苦しんだが、戦場に駆り出されることはなかった。だが明治国家は、武士階級を廃したかと思えば、今度は農民・町人・職人に銃を持たせ、「天皇の軍隊」の兵士として戦場に送り出した。武士がいなくなったのではない。武士の役割が“国民全体”に拡大されたのである。
四民平等とは、民衆を国家のために均質化し、動員しやすくするための装置であり、決して民衆を政治の主体として解放するための理念ではなかった。日本の150年は、民衆不在の国家が、形を変えながら持続した150年である。この構造を見抜かない限り、日本はこれからも漂流し続ける。
■松陰、象山を訪ねる——日本近代の“原罪”誕生の瞬間
嘉永年間、黒船来航の衝撃が江戸の空気を震わせていたころ、佐久間象山は江戸の私塾で門弟たちを前に、「夷の術をもって夷を征す」という言葉を繰り返していた。象山は、欧米の科学技術・軍事力の圧倒的な優位を冷徹に見抜いていた。だが同時に、欧米に屈服する気など毛頭なかった。
その象山が、長州の若き俊英・吉田松陰を江戸に呼び寄せた日のことを想像してみたい。松陰は、藩の許可も得ずに象山の門を叩いた。象山はその無鉄砲さを叱りながらも、松陰の眼の奥に燃えるものを見抜いていた。
象山は松陰に向かってこう語ったと伝えられる。「開国すべし。ただし攘夷のための開国じゃ」。
松陰はその言葉を胸に刻み、のちに山縣有朋、伊藤博文、品川弥二郎ら、明治国家の中枢を担う若者たちに同じ思想を説いた。松下村塾で語られたのは、欧米型市民社会の理念ではなく、攘夷のための開国、富国強兵、軍事国家の建設であった。ここに日本近代の“原罪”がある。
日本は欧米に学んだのではない。欧米を凌駕し、いずれ撃つために学んだのである。この思想は、欧米型市民社会の否定、民衆の政治参加の拒絶、軍事国家化を前提としていた。
つまり日本近代は、民衆のための国家ではなく、軍事国家として出発した。
■ 「人民」が生まれなかった国——民権思想は育つ前に叩き潰された
欧米では、市民革命を経て「人民の、人民による、人民のための政府」が成立した。
だが日本では、民衆が政治の主体となる芽は、育つ前に根こそぎ摘み取られた。秩父困民党事件はその象徴である。困窮した農民たちが「生きるため」に立ち上がったにもかかわらず、政府は彼らを“賊軍”として鎮圧した。
自由民権運動が全国に広がると、政府は激化事件を口実に徹底的な弾圧に乗り出した。民衆が政治の主体となることを恐れたのである。
竹橋事件では、徴兵された近衛兵士たちが不当な待遇に抗議して蜂起した。だが政府は彼らを容赦なく処罰し、
軍隊を「天皇の軍隊」として再編した。ここに、民衆が国家の主体ではなく、国家のために動員される“資源”として扱われる構造が完成する。
そして、ここに四民平等の虚像が重なる。四民平等とは、“平等に徴兵し、平等に納税させ、平等に忠誠を強いる”ための平等にすぎなかった。江戸期よりも重い鎖が民衆にかけられたのである。
欧米では、ブルジョアジーや市民階級が王政を打倒したり、王権を憲法で縛り、議会を通じて政治の主体となった。
しかし日本では、民衆が政治の主体となる前に、国家が民衆を縛った。その結果、日本には“人民”が存在しなかった。存在したのは“臣民”である。
秩父困民党蜂起——民衆革命の火が灯った場所
春から秋にかけて、よく奥秩父へ向かう。
秩父鉄道の車窓から山々が迫り、空気が澄み、懐かしい匂いに満ちている。
皆野町に差しかかると、道路脇にひっそりと立つ「秩父困民党蜂起史跡」の碑が見えてくる。
何度通っても、胸の奥がざわつく。ここは、日本で最初に“民衆が国家に立ち向かった場所”だからだ。
1884年(明治17年)10月31日。秩父郡の農民たちは、負債の延納、雑税の減免を求めて武装蜂起した。
自由民権運動の影響を受け、彼らは自らを「困民党」と名乗り、翌11月1日には秩父郡内を制圧し、高利貸の証文や役所の書類を焼き払い、大宮郷(現在の秩父市中心部)に一種の“コンミューン”を樹立した。
これは単なる一揆ではない。江戸時代の百姓一揆とは質が違う。秩父の農民たちは、「生きるために国家を変えようとした」のである。だが、明治政府は彼らを“賊軍”と断じた。警察隊・憲兵隊は苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵が投入され、11月4日、蜂起は事実上崩壊した。事件後、約1万4千名が処罰され、田代栄助ら7名が死刑となった。
皆野町の記念碑の前に立つたび、その静けさの奥に、「民衆が国家に踏みにじられた音」が聞こえてくる。
秩父だけではない。福島、加波山、大阪——自由民権運動の末期、日本各地で民衆の怒りが火を噴いた。だが政府は、彼らを容赦なく封殺した。
ここに民衆が国家の主体ではなく、国家のための“資源”として動員される構造が完成する。
■帝国憲法は「民衆を縛るための憲法」
明治国家がついに制定した大日本帝国憲法は、しばしば「近代立憲制国家の出発点」と称される。だが、それは有名無実。英国やフランスの憲法が「権力を縛るための鎖」であったのに対し、日本の帝国憲法は、民衆を縛るための鎖として設計された。
統帥権独立は、軍部を議会や内閣から切り離し、天皇大権は、国家のあらゆる権能を天皇に集中させた。軍人勅諭は、軍人に「絶対服従」を叩き込み、教育勅語は全国の子どもに「忠孝」「忠誠」「犠牲」を刷り込んだ。
この憲法は、民衆を政治の主体として扱うどころか、民衆を国家のための“資源”として扱うための制度であった。
徴兵・納税・忠誠という三重の義務は、ここで制度として完成する。帝国議会は存在したが、それは欧米の議会とは異なり、民衆の意思を反映する場ではなかった。議会は、国家の意思を“説明する場”にすぎず、民衆の声が国家を動かすことはなかった。こうして明治体制は、外見は立憲国家、内実は軍事国家という二重構造を完成させた。
この二重構造こそが、後の対米戦争の暴走を生み、敗戦後の民主化を形骸化させ、今日の政治の硬直化へとつながっていく。
■対米戦争は明治体制の完成であり、崩壊であった
1941年12月8日。日本海軍が真珠湾を奇襲した瞬間、佐久間象山が松陰に語った「夷を征す」の思想は、約100年の時を経て“現実の攘夷”として爆発した。
だが、それは勝利のための戦いではなかった。むしろ、明治体制が抱え込んだ矛盾が、ついに制御不能となって噴き出した瞬間であった。
軍部は「国体護持」を叫び、政治家は「一億玉砕」を唱え、メディアは「鬼畜米英」を連呼した。だがその背後には、民衆が政治の主体ではない国家の脆弱さが横たわっていた。
民衆は戦争を止める力を持たなかった。議会は軍部を制御できなかった。大権を有する天皇は積極的ではなかったにせよ軍の動きを認めた。民衆は愛国と挺身という渦に巻き込まれた。
1945年8月15日、敗戦の詔勅が読み上げられたとき、日本はようやく「明治体制の破綻」を知った。
だが、それは終わりではなく、新たな“民衆不在の国家”の始まりであった。
■戦後は「民衆の時代」ではなかった
敗戦後、日本は民主化したかに見えた。憲法は改正され、選挙制度は整備され、言論の自由が保障された。だが、その実態はどうだったか。
戦後日本は、民衆が政治の主体となる前に、外部の戦略によって再び方向を決められる国家へと戻っていった。
天皇制は温存され、官僚機構は戦前のまま残され、自民党は1955年体制のもとで一党優位を築いた。
そして何より、日米安保体制が日本の安全保障と外交の枠組みを決定づけた。
戦争体験者の「もう戦争はこりごりだ」という声が戦後を支えたが、その世代が消えるとともに、戦後は静かに終わりを迎えた。戦後民主主義は、民衆が政治の主体となる前に、制度としての限界に突き当たった。
■冷戦終結後、日本は“改造後”へと作り替えられた
1990年代、冷戦が終わると、日本は“戦後”をやめ、アメリカ主導の「改造後」へと再編された。中国脅威論が構築され、日米安保体制は再定義され、自衛隊は米軍の補完部隊として再編され、国家民族主義が再び台頭した。
中国脅威論は“自然発生”ではなく、国際政治の力学の中で作られた物語である。尖閣国有化、南シナ海問題、台湾有事——これらはすべて、日本を再び「前線国家」とするための装置として機能した。「分割して統治する」という古典的テーゼは「日中を対立させ東アジアを統治する」という米国の覇権戦略となっている。
一方で、世界は大きく変わっていた。グローバルサウスが台頭し、BRICSが拡大し、パクス・アメリカーナは揺らぎ始めた。だが日本は、その変化を読み取る力を失っていた。なぜか。それは、民衆が政治の主体ではない国家は、外部の変化に自ら対応する力を持たないからである。
■そして日本は長期衰退へと沈んでいく
バブル崩壊後の30年は、単なる経済停滞ではない。それは、民衆不在の国家が自らの限界に突き当たった30年である。少子化、格差拡大、賃金停滞、国際的地位の低下、政治の硬直化。これらはすべて、民衆が政治の主体でない国家の必然的帰結である。
日本は、明治以来の構造的欠陥を克服できないまま、長期衰退へと沈んでいった。
■結語——このシリーズが目指すもの
シリーズ「漂流日本」は、
明治維新から今日までの150年を、“民衆不在の国家”という視点から読み直す思想史である。
今後長期にわたり、攘夷のための開国、明治体制の構造、対米戦争の必然、戦後の虚構、改造後の再編、長期衰退の構造を順に解きほぐし、日本がなぜ漂流し続けるのか、その根源に迫る。
日本の150年は、民衆が政治の主体となり得なかった150年である。
この構造を見抜かない限り、日本はこれからも漂流する。