序 東京の地形に刻まれた英米150年の影
地下鉄九段下駅を出て千鳥ヶ淵へ向かう。都内有数の桜の名所も、早朝は静まり返っていた。濠沿いの遊歩道を進むと、石造りの巨大な建物が視界に入る。英国大使館だ。
1万2千坪を超える敷地。都心の一等地に、これほどの空間を占有する外国公館は他にない。この地に英国公使館が移転したのは1874年。明治7年のことだ。
吹上御苑にあった太政官政府庁舎とは濠を隔てて300メートル程度の至近距離。維新政府の高官たちは、ロンドンで発行する外債の交渉を進めるため、英国公使館を頻繁に訪れていたことが当時の外交記録からうかがえる。記録によると、半蔵門を抜けて英国公使館まで政府高官たちはロンドン・シティでの外債発行を巡り足繫く往復した。明治初期の財政運営をめぐる緊迫した往来が、この地で日常的に行われていた。
明治国家形成の背後に、すでにアングロサクソンの影が濃く差していたことを、この風景は雄弁に物語る。
英国は19世紀後半、ハリー・パークス公使、アーネスト・サトウ通訳、ジャーディン・マテソン商会、トマス・グラバーらを通じて、日本を“対露前哨地”として組み込む戦略を進めていた。日清戦争、日露戦争は、英国のユーラシア戦略と密接に連動していた。代理戦争と呼んでも過言ではない。
英国、アメリカによるユーラシア大陸を睨んだ対露封じのための対日戦略は、幕末に萌芽をみせ、やがては米英アングロサクソン同盟として日本の中国侵略の封じこめに転じた。その行き着く先に日本史上最大の惨禍を招いた対米戦争がある。敗戦後はアメリカによる占領が待っていた。
皇居半蔵濠から視線を南方へ移すと、赤坂一丁目の台地に米国大使館が見える。永田町と呼ばれる首相官邸、国会、そして霞が関官庁街――日本の政治中枢を三角形の底辺として俯瞰する位置にある。
戦後日本の“総督府庁舎”と揶揄されることもあるが、地形的にも象徴的にも、その存在感は否定しがたい。日本の要人たちは、いまも人目を避けるようにして、この丘の上へ向かう。彼らは人目を避けたいが故に米大使館と官邸や隣接ホテルとの間に地下道があるとの信憑性の高い推測がある。
日米安保条約と地位協定は、占領期の軍政を条約形式に置き換えただけであり、日本の安全保障・外交・軍事の根幹は、いまもアメリカの戦略体系に組み込まれたままである。敗戦後の日本は、主権国家として再出発したのではなく、アメリカの対ユーラシア戦略の“要石”として再配置されたのである。
明治に英国が築いた“対露前哨地”としての日本。
戦後に米国が構築した“対ユーラシア戦略の要石”としての日本。
150年にわたる英米の地政学的連続性が、東京の地図の上に静かに刻まれている。
■米英アングロサクソンの対日戦略の雛型
近代日本の対外関係を考察するとき、英国が筆頭にくる。
英国はインド帝国を守るため、日本海に軍事拠点ウラジオストクを置き南下するロシアを最重要脅威とみなしていた。クリミア戦争で黒海を押さえ、アヘン戦争で中国市場を開きながらも、アジアでロシアと陸戦を行うだけの兵力は不足していた。だからこそ、日本列島はロシアの太平洋進出を封じる“鍵”として地政学的に浮上する。
英国はハリー・パークス公使やジャーディン・マテソン商会を通じて日本を対露前哨地として組み込み、軍事国家建設を急ぐ明治政府の財政・外交に深く関与していった。その延長線上に1902年の日英同盟が成立し、日本はアングロサクソンの対露戦略の一翼を担うことになる。
クリミア戦争は太平洋側のロシア極東に飛び火。英仏海軍の連合艦隊は1854年8月、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキーの包囲戦を行った。英仏連合軍は激しい砲撃を実施し1854年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。
ロシアは、この戦いと並行しながら、エフィム・プチャーチン海軍中将を日本との開国交渉にあたらせていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発、1853年8月に長崎に到着し外交交渉に着手した。1855年1月には日露和親条約が締結されている。
一方イギリス海軍はジェームス・スターリング司令官率いる中国・東インド艦隊が1854年9月に長崎に来港。ロシアのプチャーチン艦隊はすでに長崎を去っていたが、スターリングは「イギリスとロシアが戦争中であり、ロシアはサハリンおよび千島列島への領土的野心がある」と幕府に警告した。
米国は1854年3月に日米 和親条約を締結後、ペリー米艦隊が開港させた箱館(函館)に半月滞在し、不凍港を求め箱館に進出していたロシアを監視した。英国がダントツの数の艦船13隻を寄港させた当時の北海道・函館は日本における米英とロシアとが対峙する最初の場所となった。
アメリカもまた、日本がロシアの勢力圏に組み込まれることを強く警戒した。ここには、英米が幕末の段階ですでに“対露封じ込め”という戦略目的を共有していた。
19世紀後半の英国に続き、20世紀に入るとアメリカもまた日本をユーラシア・太平洋秩序の要石として組み込む。日本は150年にわたり、アングロサクソンの地政学的構想の中で位置づけられ続けてきたのだ。
日露戦争後、英国は米国との協調を強め、アングロサクソン同盟は日本を“利用すべき同盟国”から“監視すべき潜在的脅威”へと位置づけを変えていく。
■アメリカの国家観― 例外主義・使命意識・フロンティアの思想
では、その英国の後を継ぎ、日本をより深く、より長期にわたって組み込んでいくことになるアメリカは、どのような国家観を持っていたのか。日本を「アジア太平洋の秩序」の中に配置しようとしたアメリカの対日戦略を理解するため、まずその深層に流れる例外主義、使命意識、そしてフロンティアの思想を簡潔にみてみよう。
アメリカは建国以来、独特の自己像を育ててきた。一つは、自らを「例外的な国家」とみなし、神から与えられた使命を果たす存在であるという例外主義。西へ西へと領土を押し広げ、未開の地を文明化することを当然の責務としたマニフェスト・ディスティニー(明白なる天命)。この標語は、アメリカの膨張を「文明化」・「天命」とみなし、インディアン虐殺、西部侵略を正当化した。
次いで、フロンティアを切り開くことで国家が若返り続けるという信念。これらはアメリカ対外主義の行動を方向づける深層の行動原理となった。19世紀末に「フロンティア」が消滅すると、スローガンは太平洋の西進へと向けられ、米西戦争、米比戦争、ハワイやグアムの併合など、米国の帝国主義的な領土拡大を正当化する言葉となった。
1898年に米西戦争で手に入れたフィリピンは単なる植民地ではなく、中国市場への橋頭保として戦略的に位置づけられた。アメリカは太平洋を自国の海とみなし、アジアへの進出を国家戦略の中心に据えたのである。
■”絶対権益”としての中国市場
その視線の先には、広大な中国市場があった。1899〜1900年の門戸開放政策を唱えた国務長官ジョン・ヘイは、「中国の扉はすべての国に等しく開かれていなければならない」と主張した。これがアメリカの長期的な利益の核心となった。
アメリカにとって中国は、アメリカの未来を左右する巨大市場であり、アメリカの経済的・戦略的利益の核心に位置づけられた“絶対権益”であった。門戸開放政策は、アメリカが中国市場をどの列強にも独占させず、自由貿易の名の下に自国企業が参入できる環境を維持しようとする試みであった。アメリカは中国の領土保全を主張しながら、実際には中国市場を開放し、自国の経済的利益を確保しようとした。
この対中戦略を支えたのが、1913年に創設されたロックフェラー財団である。同財団は中国の医療・教育・研究機関に莫大な資金を投じ、清華大学、燕京大学、協和医学院などを支援した。アジア研究者ジョン・フェアバンクは、アメリカの対中政策を「宣教師・財団・大学・企業が一体となった文化的帝国」と呼んだが、ロックフェラー財団の活動はその典型である。アメリカは軍事力だけでなく、教育・文化・医療といった“ソフトパワー”を通じて中国社会に深く浸透していった。
さらに、1925年にホノルルに設立された太平洋問題調査会(IPR)は、アメリカ・中国・日本の知識人が参加し、アメリカのアジア政策を支える知的ネットワークとして機能した。
ディビット・ロックフェラー(1915-2017)は回顧録にこう記し、アメリカがいかに中国市場を重視していたかを一言で教えている。
「(石油王で祖父)ジョン・ロックフェラーの夢は自らの石油で中国全土に明かりを灯すことだった。」
■日米衝突の萌芽
日露戦争の勝利は日本を自立した帝国として押し上げ、英米の対日評価を大きく変えた。ベルサイユ条約後、英米協調が国際秩序の中心となると、日英同盟は“時代遅れの二国間軍事同盟”として解消へと追い込まれ、日本は英米の新秩序から孤立していった。
日露戦争終結を受け、1905年12月に「満州に関する日清条約(満州善後条約)」が調印され、帝政ロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を清国に了承させた。日本は満州に利権を築き始める。ここで、アメリカと日本の利害は初めて真正面から衝突する。アメリカにとって中国は「絶対利権」であり、日本にとって満州は「国家的生命線」であった。両者の対立は、必然性を帯びていた。
それが決定的な形をとったのが、満州事変である。1931年9月、関東軍は政府の統制を無視し、統帥権を盾に単独で行動を開始した。作戦を主導した石原莞爾は、「国家の大勢は軍が決する」と語ったとされる。既成事実を積み重ね、国家を既定の方向へ引きずるこの手法は、統帥権独立の拡大解釈へとつながり、やがて国家総動員体制へと至る道を開いた。
日本は満州を「生命線」とみなして支配を固めた。満州は日本にとって資源供給地であり、移民先であり、国家総力戦体制の基盤であった。日本の支配層は、満州を失えば国家の存立が危うくなると信じ、満州を事実上の「国家的生存圏」と位置づけた。この認識は、統帥権を掲げて暴走し始めた軍部だけでなく、日本の政財界にも共有されていた。
アメリカは満州事変勃発の瞬間、日本の“背骨”の性質を見抜く。日本は政府より軍が強く、国家の意思決定が統一されていない。文民統制はなく、軍は自らの判断で行動し、国家を巻き込む力を持っている。アメリカの対日政策はここで明確に「協調」から「封じ込め」へと一変する。
■アメリカの見た日本の対米協調派
日米関係は当初から対立していたわけではない。セオドア・ルーズベルト大統領(TR、1901~1909)は、日本を「アジアで唯一、欧米列強と同等の文明国」と評価し、日露戦争の講和を仲介した。TRはハーバード時代に金子堅太郎や樺山愛輔と親交を持ち、書簡では日本を “the only civilized power in Asia” と呼んでいる。彼にとって日本は、ロシアの南下を抑えるための安定要因であり、国際秩序の責任ある担い手として期待された存在であった。
しかし、TRが見た「文明国としての日本」は、1930年代には大きく変質していた。軍部の台頭と政党政治の弱体化により、日本は国家としての意思統一を失い、外交は軍の既成事実の積み重ねでマヒ状態に陥るようになっていた。こうした中、アメリカとの協調を重視する人々は、「時代遅れの良識派」として周縁へ追いやられた。
彼らの中心にいたのは、宮中・外務省・華族・元老系のエリートたちである。牧野伸顕、幣原喜重郎、吉田茂、近衛文麿、徳川家達、松平恒雄、樺山愛輔らいずれも欧米留学経験を持ち、英語に堪能で、第一次世界大戦後から1930年代初頭までの東アジア・太平洋地域の国際秩序であるワシントン体制の理念に親和性を持つ人々であった。彼らは、軍部の暴走が国家を破滅へ導くと直感していた。
1932年に着任したジョセフ・グルー駐日大使は、この日本の“良識派”と深い信頼関係を築いた。グルーは日本社会を理解し、軍部の危険性を正確に把握していた。彼は日記に、近衛や吉田、牧野らとの会談を克明に記し、ワシントンに対して「日本にはまだ理性の声が存在する」と繰り返し報告した。
TR時代に金子堅太郎や樺山愛輔と築かれた日米人脈の友情は、ここで再び歴史の表舞台に姿を現す。だが、対米協調派の努力は、軍部の既成事実の積み重ね、すなわち1930年代に入っての満州国承認、国際連盟脱退、北支事変、そして日中全面戦争の前にことごとく押しつぶされていく。
軍部は「国家の大勢は軍が決する」を押し通し、外交は後追いの説明役となる。幣原外交は「軟弱」と罵倒され、牧野は「宮中の黒幕」として攻撃され、吉田は「英米派」として監視対象となった。
彼らは、国家の中枢が崩壊しつつあることを誰よりも理解していた。しかし、その理解は政治力とならない。軍部は統帥権を盾に、政党政治を圧迫し、宮中にまで影響力を及ぼし始める。対米協調派は、国家の中枢にいながら、国家の進路を変える力を持たない。無力感に彼らは苛まれた。
それでも最後の可能性を捨てなかった。「アメリカとの衝突は日本の破滅を意味する」との確信が彼らを動かした。近衛は日米首脳会談を模索し、吉田はグルーと密かに意見交換を続け、牧野は天皇に対し、軍部の暴走を抑えるよう繰り返し進言した。
彼らは、軍部から「英米派」「国賊」として攻撃を受けたが、それでもなお、日米関係の破局を避けるために奔走した。
対米協調派の苦闘は、単なる外交上の対立ではなく、“日本をどのような国家として存続させるのか” をめぐる闘いであった。「大陸国家としての日本」と位置付ける軍部に対し、協調派は「海洋国家としての日本」を描いていた。
グルー米大使の目に映った日本は、背骨が二つに割かれ、国家意思の定まらない危うい存在であった。軍部は国家の上に立ち、政府はその影に隠れ、天皇は揺れ動く中心に置かれていた。しかし同時に、牧野・吉田・近衛ら“穏健派”の存在は、折れかけた背骨を辛うじて支える最後の柱でもあった。日本は、崩壊と理性のあいだで揺れ、破綻へと向かう国家として、グルーの前に立ち現れていた。
ウォール街とワシントンが、この時点で戦後=日本破綻後、日本の対米協調派を保守本流として育て上げ、敗戦国日本を半永久的に従属させ、アングロサクソンの駒として再び活用しようと占領政策案を練っていたのは疑いの余地がない。
■ 協調的例外主義――FDRとニューディーラーの国際秩序構想
アメリカ例外主義には、攻撃的な側面とは別に、例外主義を“国際協調”へと転換しようとする潮流が存在した。その中心にいたのがフランクリン・ルーズベルト(FDR)とニューディーラーである。ニューディーラーは敗戦後日本の占領政策推進の主役となった。
FDRは「四つの自由」を掲げ、アメリカの使命を覇権拡大ではなく、世界秩序の安定と平和の維持に置こうとした。大西洋憲章はその理念を国際的に宣言したものであり、戦後の国連憲章へとつながる“協調的例外主義”の象徴であった。ニューディール政策の実施に尽力した、ハル国務長官やハリー・ホプキンス、さらには共和党のウィルキーらが共有した国際主義は、アメリカの力を公共財として提供するという、社会民主主義的な発想に近いものであった。
ブレトンウッズ体制もまた、ケインズ主義的な国際経済秩序を構想し、世界恐慌の再発を防ぐ制度的枠組みを整えた。ここにもFDRの協調主義が色濃く反映されていた。
しかし1945年4月、FDRの死とともにこの潮流は急速に後退する。後を継いだトルーマン政権は、ソ連との対立を前提とした冷戦体制の構築へと舵を切り、例外主義は再び“封じ込め”と軍事的優位を正当化する攻撃的な論理へと回収されていった。
FDRが構想した国連は、協調の場ではなく対立の舞台となり、安保理は拒否権によって機能不全に陥った。FDRの国際協調主義の挫折は、世界史の大きな分水嶺となった。世界は、FDRが構想した秩序とは異なる“もう一つの道”へと進み始めた。
1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選すると、ウォール街の巨大金融機関はクーデターを企てている。動きを知ったジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派から「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という証言を得ている。
民主党内部にもFDRのニューディール政策に反対する議員は少なくなかった。「アメリカ自由連盟」を設立した議員らの活動資金の出所は巨大企業や富豪だったという。クーデター計画は海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将らに阻止された。
社会民主主義的政策を推進しようとするニューディーラーはウォール街と寡占資本に共産主義者のレッテルを張られ、1945年8月当時、FDRは急死しており、彼らは米国内では活躍の場を失っていた。敗戦した皇国日本は民主化の格好の実験場に思えた。
占領下の日本改革推進の主役として日本に乗り込んだニューディーラーだったが、その活動は当初から制約されたものだった。トルーマン政権下、民主化・社会改革・アジア協調というFDRの構想は後退し、日本は反共の防波堤として再編されていく。
主要参考文献
アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』岩波文庫
佐々木克『幕末外交と開国』吉川弘文館
渡辺惣樹『英国人記者が見た幕末維新』草思社
イアン・ニッシュ『日英同盟の歴史』中央公論新社
岡部牧夫『クリミア戦争』講談社現代新書
斎藤眞『アメリカ例外主義の系譜』東京大学出版会
Frederick Jackson Turner, The Frontier in American History
Anders Stephanson, Manifest Destiny
加藤祐三『アメリカの対中政策』東京大学出版会
John King Fairbank, The United States and China
デイビッド・ロックフェラー『ロックフェラー回顧録』日本経済新聞社
服部龍二『ワシントン体制』講談社学術文庫
入江昭『アメリカの世紀』みすず書房
原剛『満州事変』中公新書
半藤一利『昭和史』平凡社
ジョセフ・グルー『滞日十年』中央公論社
Steve Kemper, Our Man in Tokyo
吉田茂『回想十年』中公文庫
牧野伸顕『牧野伸顕日記』岩波書店
アーサー・シュレジンジャー Jr.『ルーズベルトの時代』みすず書房
Frank Costigliola, Roosevelt’s Lost Alliances
斎藤眞『ニューディールとアメリカ政治』岩波書店