漂流日本ー明治維新、対米敗戦、失われた40年へ④  差替版2          安倍暗殺と従米・反米の二重性

2014年、安倍内閣は閣議決定によって集団的自衛権の行使を容認した。これは1947年に制定された日本国憲法を、事実上、完全に形骸化させるものだった。戦後日本最大の政策転換が、解釈改憲という手法で強行されたのである。憲法の条文に照らせば、この決定自体が違憲であり、翌2015年に制定された改正自衛隊法をはじめ新安保法制もまた違憲であると言わざるを得ない。

今日の日本では、米国の要求であれば違憲審査すら免れる。つまり、米国の権力者の意思があらゆる法令を超越してそびえ立ち、日本は「法治国家」の看板を掲げながら、その実態は非法治国家へと変質してしまったともいえる。ここまで乱暴に平和憲法を有名無実化する日米関係とは、一体何なのか。

この問いを掘り下げる前に、まずは安倍晋三暗殺が影を落とす日本と世界の現状について、筆者なりの見解を示しておきたい。漂流する日本の進路を考える上で、この事件がもたらした衝撃と余波を避けて通ることはできないからである。

■西欧幻想の起点

1873年、群馬県富岡製糸場に伝習工として入場した和田英は『富岡日記』に、式典に現れたフランス人技師ブリュナ夫妻の姿を「まばゆいばかりの美しさ」と記した。文明の高度さと西欧上層階級の立ち居振る舞いは、伝習工たちの心に深く刻まれ、全国に広まった。以来「外国」とは欧米を意味し、日本人は舶来品や洋行帰りに憧れ続けた。脱亜入欧の心情は戦後の海外旅行ブームにも表れ、長く日本人を呪縛してきた。

この西欧幻想は単なる文化的憧憬にとどまらず、政治・経済・社会の制度設計にまで影響を及ぼした。明治憲法はプロイセン憲法を換骨奪胎して輸入し、軍制はドイツ式を採用、教育制度はフランスやイギリスの影響を受けた。近代日本は「西欧に追いつけ追い越せ」を合言葉に、文明開化を推し進めたのである。だがその過程で「アジアの一員」という自覚は希薄化し、近隣諸国との関係は支配、抑圧、加害者的なものへと変質していった。

戦後もこの幻想は続いた。高度経済成長期には「欧米並みの生活水準」が目標とされ、家電や自動車は「輸出による外貨獲得」が至上命題となった。海外旅行が自由化された1964年以降、日本人はこぞって欧米へ渡航し、ブランド品や文化を持ち帰った。西欧幻想は「近代化の証」として人々の心に根付いたのである。

「近代日本の思想は、常に西欧を模範としつつ、アジアを蔑視する形で自己を規定してきた」━。「超国家主義の論理と心理」(1947年)での丸山真男の言葉は「なにをいまさら」と陳腐にさえ響く。

従米と反米の二重性

2022年7月に暗殺された安倍晋三元首相はしばしば「世界の中心で輝く日本」と誇らしげに語った。これは、ベルサイユ体制下の「一等国日本」への郷愁を凝縮していた。だがその死をめぐる国葬と公判は、日本の司法・行政・立法・メディアを揺るがした。

安倍殺害の実行犯として起訴された山上徹也被告の公判は異常な遅延を続け、2025年11月に事件発生から3年半近くを経て初公判が開かれた。真相を「パンドラの箱」に封じ込めるかのように26年1月にそそくさと判決が言い渡される。国葬は「安倍の死」を国家的儀礼に昇華させ、公判はその背後に潜む闇を覆い隠す役割を果たした。

安倍は「100%米国とともにある」と繰り返したが、その底には東京裁判否定、憲法否認、靖国参拝への執着、プーチンとの交流に見られる反米感情が潜んでいた。反米感情の矛先はウォール街を中核とするグローバリスト・アメリカンであり、ディープステート解体を掲げたトランプ、プーチンとの連携は必然であった。

こうした安倍の二重性の背景をどう理解するかー。これが暗殺を巡る闇に眼を注ぐこととなる。


■安倍派解体と自民党内力学

安倍暗殺後、最大派閥であった安倍派(清和会)は裏金疑惑を契機に解体・消滅した。派閥政治の象徴であった清和会は、戦後保守政治の中核を担ってきた。田中派、竹下派と並び、清和会は「保守本流」と「保守傍流」の対立を体現していた。安倍派の解体は、自民党内の力学を根底から揺るがした。

派閥均衡の崩壊。かつて自民党は複数派閥の均衡で首相を選出する「総裁選民主主義」を維持していた。だが安倍派解体により、最大派閥が消え、均衡は崩れた。

岸田派の台頭。宏池会を母体とする岸田派は、安倍派の空白を埋める形で影響力を拡大した。だが宏池会は伝統的に「リベラル保守」であり、安倍派の右派的政策とは異なる。党内の政策対立は深まった。

麻生派・茂木派の駆け引き。安倍派解体後、麻生派と茂木派が次期主導権をめぐり競合した。麻生は長老として影響力を維持し、茂木は実務派として台頭した。

1994年の選挙制度改革で派閥の力は弱まった上に、霞が関人事を采配する内閣人事局を設け、首相官邸主導が強まった。安倍政権はその典型であり、党、閣僚、霞が関の人事権を一手に掌握した官邸主導による長期政権を築いた。この安倍派の解体は、1955年体制以来続いた「派閥均衡による自民党支配」の終焉を告げる出来事であった。55年体制は米国の都合で出来上がったのだから、その体制の終焉も米国の都合で行われているとみるべきだ。

■パクス・アメリカーナの解体と新秩序

冷戦終焉を受け、米国はネオコン主導で打ち出した1992年国防計画指針(DPG)で「世界秩序は米国が維持し、ライバル超大国の台頭は許さない」と宣言した。ネオコン・ネオリベのグローバリズムは格差を拡大し、21世紀初頭に帝国主義列強を再来させた。トランプはキッシンジャーを顧問とし、グローバリズム解体に共鳴した。トランプがグローバリストの国際金融資本や軍産複合体に目の敵にされているのはこのためだ。

安倍の反米感情もグローバリズムへの反発であることは間違いない。この「反米感情」とは日本を対米戦争へと誘導したウォール街を中核とし、外交問題評議会(CFR)、さらにはロックフェラー財団の寄付が始まりロックフェラー3世が初めて参加した1929年京都会議以降の太平洋問題調査会(IPR)を拠点にアジア太平洋・中国を牛耳ろうとしていたグローバリストアメリカンに対する敵意である。トランプ、プーチンとの連携は必然であった。国葬の裏には、こうした世界秩序の転換期における日本の立ち位置が問われていた。

■トランプ二期目と「アジアの日本」

二期目のトランプ外交は、米国の覇権構造に決定的な揺らぎをもたらす可能性を秘めている。第一期では「アメリカ・ファースト」を掲げ、同盟国に防衛費負担を迫り、国際秩序の維持を米国単独の責務とする姿勢を修正した。第二期においては、対ロシア関係の再構築、拡大するBRICSへの融和的対応が焦点となるだろう。もし米国が多極化を容認する方向へ舵を切れば、パクス・アメリカーナは事実上解体され、世界秩序は多極的構造へと移行する。

この変化は日本にとって重大な意味を持つ。戦後日本は「脱亜入欧」の呪縛の下、米国との同盟を最優先にしてきた。しかし米国の覇権が揺らぐ局面では、従来の従米一辺倒の外交は機能不全に陥る。日本は「アジアの日本」としての自覚を持ち、中国、インド、ロシア、ASEAN諸国との関係を再構築しなければならない。安倍が抱えていた従米と反米の二重性は、まさにこの転換期における日本の葛藤を象徴していたのである。安倍暗殺後、トランプは昭恵夫人に連絡を取り続け、フロリダの別邸に招待した。そこには「よほどの事情」があったとみるべきである。トランプ自身も暗殺未遂を経験し、ディープステートの影を直感した。

二期目のトランプ外交は対ロシア、拡大BRICSに注目すべきである。もしトランプ政権がBRICSに融和的姿勢を示せば、パクス・アメリカーナは揺らぎ、世界秩序は決定的に変化する。日本を150年余り呪縛してきた「脱亜入欧」は止揚される可能性を秘める。

■ポスト冷戦と中国脅威の演出

冷戦の終焉は、世界に「平和の配当」をもたらすと期待された。1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連邦解体は、国際社会に融和と協調の時代が訪れるとの幻想を抱かせた。しかし現実は異なった。米国の安全保障政策を牛耳った新保守主義者、いわゆるネオコンにとって、冷戦後は米国単独覇権を確立する好機であった。彼らは国際連合の枠組みに縛られず、米国が独断で行動できる体制を構想し、1992年に国防計画指針(DPG)草案を作成した。ウォルフォウィッツ国防次官補らが起草したこの文書は「米国に対する新たなライバルの出現を許さない」と明記し、中国やロシアを念頭に置いた覇権戦略を打ち出した。さらに、旧敵国であるドイツや日本を米国の世界制覇計画の駒として取り込み、再び脅威とならないよう封じ込めることを狙った。

この戦略の延長線上に、日本の安全保障政策の再定義があった。湾岸戦争で「カネだけでなく血も流せ」と迫られた日本は、資金援助だけでは不十分とされ、国際連合平和維持活動(PKO)への自衛隊派遣を余儀なくされた。これが「カネからヒトへ」の転換点であり、以後日本は米国主導の戦争に組み込まれる道を歩み始める。1995年の「ナイ・イニシアティヴ」は、冷戦後も東アジアに10万人規模の米軍を維持し、在日米軍基地の機能強化を求めた。1996年の日米安保共同宣言、1997年の新ガイドライン、1999年の周辺事態法制定は、この流れを制度化するものであった。こうして日本は専守防衛の原則を離脱し、領土外での活動を視野に入れるようになった。

しかし、領土外で自衛隊を米軍とともに戦わせるには、国内世論の支持が不可欠である。そのために演出されたのが「中国脅威論」であった。1990年代後半から2000年代にかけて、中国の軍拡や反日デモが強調され、日本国内では「中国は危険だ」という認識が広がった。右翼団体の活動は活発化し、愛国心の称揚が社会に浸透した。スポーツ大会の観客席には旭日旗が翻り、「ニッポンすごい」の歓声が溢れた。1997年には日本会議が設立され、皇国史観を掲げる議員や宗教人が結集した。安倍晋三も積極的に参加し、リベラル保守派を「朝貢外交」と非難した。こうした動きは、戦前回帰的なムードを醸成し、憲法改正や靖国参拝を正当化する土壌を形成した。

中国脅威の扇動は、単なる偶発的現象ではない。天安門事件、ウィグル独立運動、香港雨傘運動などには米英諜報機関の影が指摘されている。「東アジア戦略報告書」(1995年)でジョセフ・ナイは「冷戦後も東アジアにおける米軍のプレゼンスは不可欠である」と宣言していた東シナ海の緊迫化や尖閣国有化をめぐる対立も、自然発生的なものではなく、意図的に煽られた可能性がある。。

日本人の対中感情を悪化させ、嫌悪から怒りへと転化させることで、集団的自衛権行使容認や敵基地攻撃態勢構築を受け入れる民意が形成されたのである。安倍晋三はこの流れの中で「タカ派の貴公子」として担ぎ上げられ、日米双方のハンドラーにとって集団的自衛権容認の切り札的存在となった。

こうしてポスト冷戦期の日米関係は、中国脅威の演出を通じて日本を軍事大国化へと誘導した。米国の覇権主義と日本国内の右派的動員が結びつき、安倍政権下で集団的自衛権行使容認、新安保法制制定へと結実したのである。これと並行して今や地球規模の軍事活動を行う北大西洋条約機構(NATO)に事実上加盟、米英、オーストラリア、独仏とともに中国包囲網を形成している。これは単なる政策転換ではなく、冷戦後の国際秩序における日本の位置づけを根本的に変えるものであった。

■結語

安倍暗殺事件は、単なる事件ではなく、日本政治の深層に潜む構造的な問題を映し出す鏡であった。司法の沈黙、行政の停滞、立法の無力、メディアの萎縮――それらが一斉に露呈したことで、戦後日本を支えてきた1955年体制の終焉がはっきりと示された。

安倍派の解体は派閥政治の崩壊を意味し、官邸主導の時代を象徴した安倍政権の死とともに、自民党は新たな均衡を模索せざるを得なくなった。

同時に、安倍政治は「脱亜入欧」という150年にわたる呪縛を再確認させた。米国に従属し続ける日本の姿勢は、安倍の従米と反米の二重性に凝縮されていた。だが世界はすでにパクス・アメリカーナの解体へと向かい、BRICSの拡大やユーラシアの再編が進む。

トランプ二期目外交が融和的に展開されれば、世界秩序は決定的に変化し、日本もまた「アジアの日本」としての自覚を迫られるだろう。

安倍暗殺は単なる個人の死ではなく、戦後日本政治の構造的終焉を告げる事件であった。従米と反米の二重性は、日本が抱え込んできた矛盾の縮図であった。安倍派の解体は1955年体制の終焉を意味し、自民党は漂流状態に陥った。世界秩序が多極化へと移行する中、日本は「アジアの日本」としての自覚を迫られている。西欧幻想を超え、脱亜入欧の呪縛を止揚することこそ、対米隷属を超克する唯一の道であると思料する。