本稿は「漂流日本ー明治維新、対米敗戦、失われた40年へ 序 再差替(11月9日) 失われた30年への道」の本論ーその1-である
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■見えない第二の占領
2025年末現在、戦後日本はかつてない危機にある。2024年の出生数は70万人を割り、敗戦直後の第一次ベビーブーム期(1947-49)の年間出生数の約4分の1となった。人口は2026年に1億2,000万人を割り、2060年には8,674万人になると推計されている。結婚しても育児のための十分な収入が見込めず、未婚率が激増。出生数と人口の自然減に歯止めがかからない。結果、高齢化進捗と労働力急減が起きている。一方非正規の雇用が全体の4割に達し、1996年から約30年間で日本の労働者の実質賃金は約2割減った。世界最悪の賃金減少国だ。2000年の一人当たりの名目国内総生産(GDP、米ドルベース)は実質一位であったが、2024年には韓国、台湾にも抜かれ38位に転落した。この種の情報はもはや常識となっている。
人々はこれを「失われた30年」と呼ぶ。それでは、1990年代前半に始まった日本衰退の最大の原因は何か。それは米国の対日報復としての日本改造である。米国が太平洋戦争に続き再び脅威となった日本の力を殺ぎ、ひたすら米国の利益となるように日本の軍事、経済、政治のシステムを改造したからだ。この米国の日本ハンドルは、1945年から1952年に及んだ米国の対日軍事占領に対し、「米国による目に見えない占領」と呼べる。日本は1945年に続き1991年のバブル崩壊を機に第二の対米敗戦に追い込まれたわけである。
第二の敗戦から30年経た2020年代に至るも、今回は奇跡は起きなかった。戦前大正期に「五大国の1つ」にのし上がり、戦後のポスト高度成長期に「ミラクルジャパン(日本の奇跡)」と称賛された成功体験を「もう一度」と夢見ている者は極端な国家主義者を除きほとんどいないと思われる。2025年10月に就任した極右政治家を装う高市早苗首相の「日本を高みに押し上げ、もう一度世界の中心で輝かせる」との決意表明も空々しく響いたのではないか。一度繁栄を極めたと人々が感じながら長期停滞を続ける社会からはハングリー精神が奪われ、人々は自分たちが漂流する船に乗り合わせていると暗黙の裡に感じているからと推察される。
日本は再び米国に占領されているとの解釈は決して大げさではない。ただしそれは総じて不可視に進められてきた。はっきりしているのはこの30年で日本の国際的地位が低下し、大企業が空前の内部留保をため込み、外国人株主を優遇する一方、労働者の所得は上向かず、少子高齢化が急激に進み、介護、医療、福祉など社会保障が危機に瀕しようとしていることだ。社会はよどんだ気分、漠とした不安に覆われているが、そこに米国の作為は見えてこない。
では対日報復としての「日本改造」と「第二の占領」はどう実行されてきたのか。まずは、1970年代から1980年代にかけての日米経済摩擦とその激化、1985年のプラザ合意(円高為替調整)、バブル景気とその破綻、「日本改造(第二の占領)」に至る動きを概観し、本題へと論を進める。
■米国の対日報復と日本改造
戦後日本の「成功」と摩擦の萌芽
第二次世界大戦後、日本は米国の占領政策のもとで民主化され、朝鮮戦争特需で経済復興への弾みがつき、1950年代から高度経済成長期に突入した。官僚主導の産業政策、企業間の持ち合い構造、長期で安定的な雇用慣行などを特徴とする日本型経営は、1970年代から80年代にかけて世界的に注目される「成功モデル」として認識された。
しかし、この成功は同時に米国との摩擦の萌芽を孕んでいた。特に1980年代には、自動車、半導体、鉄鋼などの分野で日本の輸出攻勢が米国産業を圧迫し、日本の突出した貿易黒字で「貿易不均衡」が深刻化した。双子の赤字に悩む米国側は、日本市場の閉鎖性、官僚の規制、企業統治の不透明さを「不公正な慣行」と見なし、構造的な改革を求める声を強めていった。
この時期、「ジャパン・バッシング」と呼ばれる対日批判が米国で高まり、経済摩擦は単なる貿易問題を超えて、日本異質論にみられるように米国にとっては制度的・文化的な対立となった。
対日報復の構造:プラザ合意から年次改革要望書へ
1985年のプラザ合意は日米摩擦の転換点である。米国主導で為替調整が行われ、円高が急速に進行。これにより日本の輸出産業は打撃を受け、国内では金利引き下げを伴いバブル経済が形成される契機となった。
1990年代初頭にバブル経済が崩壊して以降、日本は長期的な経済停滞に陥る。米国は待ってましたとばかりに日本弱体化計画を実行する。米国は1994年から「年次改革要望書(U.S. Japan Regulatory Reform Initiative)」を日本政府に突き付け、日本の制度改革を継続的かつ体系的に要求するようになる。この文書は、金融制度の自由化、企業間持ち合いの解消、株主重視の企業統治、規制緩和、公共事業の透明化など、広範な分野にわたる米国のための「日本改造」の青写真を提示していた。
こうした要求に日本の官僚をはじめ政財エリート層は従順にしたがいながらも、自己利益を確保していった。日本政府は小泉純一郎政権のように米国による日本改造を「改革」という言葉で粉飾した。「改革」は、日本国内の政治・経済制度の再編を促し、従来の官僚主導型モデルから市場原理主義的な制度への転換を加速させた。米国の対日要求は、単なる経済摩擦の解消ではなく、日本の制度的枠組みそのものの再構築であった。
安保・軍事では米国に統合
ポスト冷戦終結とともに始まった「失われた30年」では、日米安全保障条約の破棄(廃棄)が国政選挙の争点から外された。55年体制の下、平和・護憲を掲げ、安保廃棄を唱えてきた社会党は1990年代に事実上解体され、日本の安保外交政策は米国への吸収・統合へと向かった。
集団的自衛権行使を容認した日本の2015年新安保法制施行は自衛隊を米軍の指揮下に隷属的に統合させた。日米安保条約は変質し、日本を米国とともに国外で戦える国とした。中国の台頭は新冷戦となった米中対立を生んだ。アジア諸国の中で唯一日本が米国の中国封じ込め戦略に英国、オーストラリアとともに準主役格としてに関与、尖閣列島領有権問題を巡る中国との軍事緊張が台湾有事と絡めてメディアで煽られている。
国政選挙で安保破棄を訴えれば野党共闘すら成り立たず、唯一党綱領に安保条約破棄を掲げる日本共産党も総選挙では「目指す連立政権のなかで、安保条約廃棄は一致点として求めない」と時流におもねている。
日本の有権者にとって今や日米安保条約は与件となり、破棄を唱えるなど論外とされてしまった。だが安保条約体制は紛れもなく戦後日本の宿痾であり、東西冷戦終結とバブル崩壊後35年近くにわたる日本の経済低迷と相対的貧困化の元凶である。これは後で「ビンの蓋」論として詳述する。
「失われた30年」の制度的背景
いわゆる「失われた10年」は、やがて「失われた30年」と呼ばれるようになり、経済成長の鈍化、賃金停滞、地方の衰退、若年層の不安定化など、社会全体に深刻な影響を及ぼした。
この停滞は、単なる景気循環的な失敗ではなく、制度的・構造的な「改造の副作用」として捉えるべきである。米国型の市場原理を導入する過程で、日本の長期雇用制度、企業共同体、地域経済の安定性は揺らぎ、伝統的な社会基盤が弱体化した。
さらに、政治資金制度の改革(企業献金のルート変更)やメディア構造の変化は、従来のエリート層の正統性の再編を促し、「戦後日本」の語りの枠組みそのものが変容した。
メディアと記憶の構造:語られざる摩擦と改造
こうした対日報復や制度改造のプロセスが、日本語メディアではほとんど語られてこなかった。英語圏では、米国の対日要求や制度的介入は明示的に語られているが、日本国内では「摩擦」や「改造」はしばしば経済技術的な問題として処理され、政治的・制度的な文脈が希薄化している。
この背景には、サンフランシスコ講和体制以降の「対米従属的な主権構造」がある。日本は形式的には独立国でありながら、対米関係においては安全保障・経済・制度設計の多くを米国に依存してきた。ところがメディアは対米摩擦が日本の構造を変えてきたことを語るのを抑制し、「戦後」の語りを「敗戦からの復興」に収束させる役割を果たしてきた。
「戦後」の再定義
「失われた30年」は、米国との摩擦と制度改造の帰結として再定義されるべきである。日本が経験した長期停滞は、外圧による制度的変容と、それに伴う社会的断絶の複合的結果であり、単なる経済政策の失敗ではない。「戦後」の語りを再定義し、「敗戦後」から「改造後」へと拡張すべきだ。そのうえで、われわれは「改造」を強要してきた見えざる占領からの脱却を模索すべきである。