漂流日本への前書き ノーモア・ウォー ― 団塊世代の叫び

本書における権力批判は、決して日本そのものを否定するためのものではありません。「漂流日本」シリーズで繰り返し描いてきたのは、日本近現代150年の権力構造の内実を直視し、庶民の暮らしを守り、向上させ、そして再び戦争の惨禍を招来させないために声を上げることです。批判は破壊のためではなく、未来を築くための営みなのです。

日本人は「勤勉、正直、親切」と称えられてきました。1990年代に就労のため来日した中国人の逸話は忘れられません。都内で最寄駅までの道のりを通りがかりの日本人の老婆に尋ねたところ、老婆は中国人が日本に来たばかりと知り、わざわざ駅まで同行して案内してあげた。この中国人は「この親切は一生忘れない。中国に帰っても語り継いでいる」と語りました。日中関係がかつてなく冷え込む中でも、日本帰りの中国人たちは生活コミュニティの中でそれぞれの「日本人とは何か」を語り継いでいるのです。

私の父母は戦争の惨禍を身をもって体験しました。父は中国大陸やフィリピン、インドシナ半島を転戦し、砲兵部隊に所属したことで命をつなぎました。1945年8月9日朝には小倉造兵廠で働いていましたが、米軍機が原爆投下を断念し長崎へ向かったことで、奇跡的に命を救われました。母もまた、敗戦直前に米軍機の機銃掃射を受けながら生き延びました。二人の慟哭と悲哀、そして奇跡的な生還は、私の胸に深く刻まれています。父は「あんな馬鹿な戦争は二度とするものではない」と繰り返し語り、母は「青春のない大正ッ子」と嘆きました。私はその声を受け継ぎ、「ノーモア・ウォー」を訴える責務を負っています。

戦争の惨禍は、庶民の日常を一瞬にして奪いました。父が小倉造兵廠で原爆投下を待ち受けたあの日、工場の屋根を震わせる爆撃機の轟音に、人々は息を潜めました。汗と鉄の匂いが混じる作業場で、誰もが「次の瞬間にすべてが消えるかもしれない」と感じていたのです。奇跡的に投下は回避されましたが、長崎の人々の犠牲の上に、父の命はつながりました。

ドイツでは、戦争責任を直視し、ホロコーストやナチズムの記憶を「記憶の文化」として社会に根付かせてきました。教育、記念碑、法制度を通じて、世代が交代しても記憶が風化しない仕組みを築いたのです。対照的に日本では、戦中世代から団塊世代へ直接伝えられる証言が途絶えれば、記憶は容易に薄れてしまう危険があります。だからこそ、私たち団塊世代は「最後の証言者」として声を上げ続けなければならないのです。

真珠湾ハワイの真珠湾を訪れた際、ニューハンプシャー州から来た米国人夫婦と同席しました。彼らは「ハワイに来たらまず真珠湾を訪れなきゃ」と語りました。米国人にとって「リメンバー・パールハーバー」は今も生きた言葉であり、敗戦国日本への警告でもあります。国際社会の記憶は決して薄れていません。だからこそ、日本人自身が戦争の記憶を正面から見据え、未来への責務を果たす必要があるのです。

日々の労働に励む人々の姿は常に私の脳裏にあります。。朝の市場で魚を並べる店主、子どもを背負って野菜を選ぶ母親、弁当箱を片手に自転車を漕ぐ労働者、土の匂いにまみれて鍬を振る農夫。こうした営みこそが社会を支えているのです。

戦争が再び起これば、この笑い声も、食卓も、地域の祭りも、一瞬にして奪われてしまいます。戦争が再び起これば、この日常は一瞬にして奪われてしまいます。笑い声も、食卓も、地域の祭りも、すべてが消えてしまうのです。だからこそ、私たちは声を上げ続けなければなりません。

本書「漂流日本」は、父母の戦争体験と原爆の記憶を受け継ぎ、団塊世代として「ノーモア・ウォー」を訴える責務を果たすために書き続けています。それはまた2020年から始めた「ブログPress Activities 1995~」の600近い記事の総括でもあります。

庶民の暮らしに眼を向け、未来を築くために、私たちは日本近現代150年の権力構造の内実を直視しなければなりません。

どうか読者の皆さま、この記憶を共に受け止め、次の世代へと語り継いでいただきたい。そして、「Press Activities 1995~」及び「漂流日本」シリーズを一読して、広く拡散していただければ幸いです。