あるブログに「早く『熱病』=天皇カルトを治癒し、正気に戻れば、まだ救いようがある。この熱病が『尊皇・愛国思想~実質は売国思想』にゆでガエルのようにとどまるのなら、自然の理で日本人は死滅するだろう。」とあった。言い得て妙。明治御一新を経て1890年の帝国憲法施行で土台を固められた天皇真理教は日本人を蛇に睨まれた蛙のように臣民として身動きできず縛り付けた。近代天皇制は明治体制の絶対強固な中枢として利用されてきたが、帝国憲法施行からわずか50年余りで崩壊した。ところがどっこい、1945年9月2日の対米戦争降伏調印で消滅するはずだったカルトは、象徴天皇制という新たな意匠をこらされて存続している。現代日本の宿痾となった日米安保条約の締結に向け、共産主義の浸透を恐れる昭和天皇は自らジョン・ダレスとロックフェラー3世に願い出たのである。まさに尊皇・愛国思想は実質売国思想となった。
当然のことながら、日本の一般庶民が個人の解放と自由を享受するには1945年の敗戦を待たねばならなかった。人々はどの時代も権力による抑圧と搾取に苦しんできたのであるが、明治体制における尊皇・愛国の強要は突出し異様である。「国恩に報いよ」との愛国心の強制は「悠久の大義に生くべし」との特攻思想にまで膨張し奇形化した。計約三千機による自爆テロは七生報国と”美化”された。神風特別攻撃隊の創始者大西瀧治郎海軍中将は「日本人全部が特攻精神に徹底した時に、神は始めて勝利を授ける」と言った。この言葉こそ一億玉砕の絶唱となり、本土決戦で日本人を死滅寸前に追い込んだ代物だ。
幕末、英国公使オールコックが海路を避け条約で定める国内旅行権を強固に主張して陸路で江戸へ帰還したのに対し「神州日本が夷狄に穢された」と憤激して江戸高輪東禅寺の英公使館を襲撃した志士らの尊皇攘夷思想は対米戦争で生き返った。特攻精神と攘夷にとりつかれた幕末の尊皇思想は重なる。前稿で「対米戦争は明治体制の完成である」としたのはこのためである。欧化政策=近代化はキャッチアップのためいったん刀を鞘に納めたにすぎず、欧米列強に伍す、あるいはこれを凌駕する軍事力を保有すればこれを撃つー。これが明治御一新にあたり開国して採用した富国強兵策の神髄というべきで、対米戦争は攘夷復活戦=大攘夷とみるべきである。
狂気の極みと言える対米戦争を支えた熱病「尊皇・愛国」は厳密にいえば大日本帝国憲法施行以降50年余りの歴史しかない。明治の帝国憲法が施行されるまでは、一般庶民の天皇に対する意識は低かった。皇国史観の歴史家と言われる平泉澄によると、尊王攘夷思想が高まり始めた1846年に明治天皇の先々代にあたる「仁孝天皇が亡くなった時、ほとんどの人が知らず、将軍が死んだときは止めた管弦はいつも通り賑やかで、鹿島神宮の神官の国学者すら知らなかった」という。明治に入り1873年に天皇の軍隊作りのため徴兵令がしかれた。天皇といわれてもピンとこず関心のない農家の次男、三男らはこれに激しく反発して一揆が続発。特に西南戦争後士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ないのに不満を抱いていた300人近くの近衛砲兵が決起した1878年竹橋事件は藩閥政府中枢を震撼させた。
西南戦争と竹橋事件に加え、自由民権運動が活発化し、設立間もない軍部に動揺が広がっていた。これを抑え、精神的支柱を確立する意図で1882年に起草されたのが軍人勅諭である。「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と天皇が統帥権を保持することを誇示して、「上官の命令は朕の命令と心得よ」と言い渡し、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五箇条の徳目を説き、天皇への絶対的服従を命じた。内容は儒教・朱子学の忠孝思想そのものであり、武士道の徳目を超えない前近代思想なのである。軍服、装備は西洋式だが、マインドは武士のまま。この和魂洋才ぶりは日本近代の前近代性、否非近代性を余すことなく示している。
藩閥政府は自由民権運動に対する弾圧に躍起になりながら憲法制定・国会開設を準備した。1884年には数千人規模の大反乱となった自由民権運動の影響下に発生した「激化事件」の代表例といえる秩父困民党事件の発生に至った。民権派の一部には「国会開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし」と急進化する者も出始めた。1881年秋田事件、1882年福島事件、1883年高田事件と秩父事件に先駆けた「激化事件」は、藩閥政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして民権運動に対する弾圧を行ったものである。その後も1884年に群馬事件、加波山事件が続き、最大の危機を迎えていた藩閥政府は、明治天皇に 「国会開設の詔」を表明させた。この時期に日本史上稀有な「圧制政府転覆」を叫ぶ革命志向の民衆運動があったことを思い起こすべきである。
伊藤博文が憲法制定、国会開設に向かって渡欧したのは1882年。まさに民権運動盛り上がりの渦中であった。山縣有朋は1882年軍人勅諭と1891年教育勅語で民権思想を封殺し、伊藤は憲法と国会開設で民権運動を骨抜きにしようとした。1890年に施行された帝国憲法は西欧諸国のブルジョワジー・民衆が王侯・貴族・聖職者の権力乱用を禁じ、民権を定めたいわゆる近代憲法とは真逆のものだ。それは民衆の権利を封じ、天皇の大権を謳ったものだからである。藩閥政府はこの外見的立憲主義で日本帝国が欧米先進国と同様な立憲政体を採用したと内外に宣言した。これはまやかしであり、日本帝国における最大のペテンとなった。藩閥政府は議会を相手にせずとしつつ、民権運動家の多くを帝国議会衆議院に取り込み、民権運動は終焉を迎える。
研究者の中には「自由民権運動は1890年代に一旦終えんを迎えたものの、その影響力は「伏流水」となって水面下に残り続け、戦後の民衆運動にまでつながった」と示唆するものもいる。では2025年段階の「戦後の民衆運動」をどう評価すべきであろうか。全国に波及しかけた反財務省デモはしりすぼみとなっている。