真珠湾83年、被爆者はオスロへ 問われる体制服従と内なる治安維持法 「攘夷のための開国」の果て③  

対米戦争突入から83年経た2024年12月8日、ノーベル平和賞授与式に出席する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表がオスロに向け出発した。被爆者は次々に世を去り、筆舌に尽くせぬ被爆体験を語れる人は残りわずか。10年も経てば確かな記憶に基づき体験を語れる人はほぼ絶える。受賞は遅すぎた。日本では1867年の王政復古の名の下、近代天皇制と呼ばれた新たな絶対主義支配体制が構築され、今日まで数々の歴史の歪曲と隠ぺいが続いている。その最たるものがアジア太平洋戦争を巡る責任の所在のまやかしである。原爆投下については、1975年10月末訪米を終えた裕仁天皇は「投下は遺憾、気の毒だが、戦争中のことなのでやむを得ない」と語った。被爆者は唖然としたことだろう。だが「投下の最大の責任者は先の戦争を始めた軍の統帥権者である天皇だ」と思い至る者は稀であった。末尾で触れる右翼に銃撃された本島元長崎市長はこの思いを公言し稀有な政治家だ。被爆を含む天皇戦争責任論は暴論として日本人の思考と行動を陰に陽に縛っている。問われているのは、心の内なる治安維持法と体制服従である。

■運命の8月9日ー投下ボタンに触れた指

1945年8月。日本に原爆が2回投下された。筆者の父母が働いていた福岡県小倉市(現北九州市)は8月6日広島投下の際は、投下第二候補地であった。午前8時過ぎ広島は快晴だったため初の被爆地となり、小倉は難を免れた。8月9日は小倉が第一候補となり、同日午前9時半過ぎB29爆撃機3機編隊が小倉上空を旋回、投下の機をうかがった。爆撃を指示した米政府は広島、小倉を実験地ととらえ、標的への正確な投下を命じていた。爆撃手の指は何度もファットマンと名付けたプルトニウム型原子爆弾の投下ボタンに触れていたとみられる。父の働いていた、標的だった陸軍造兵廠上空は前夜の日本製鉄八幡製鉄所空襲による煙に覆われ、目視確認ができなかった。これが小倉と長崎の運命を分けた。

本ブログはフロント記事として英文で「原爆投下 わが命 日本の戦後 ーはじめに」を掲載した。国外の人にも読んでもらいたかったからだ。その冒頭を以下再掲載する。

1945年8月9日午前11時2分、広島に続き長崎に米軍機から原子爆弾が投下され、瞬時に8万人近くの一般市民が命を奪われた。この3機編隊の米B29爆撃部隊は、長崎投下に先立つ同日午前9時44分、当初の標的だった九州の玄関口・小倉市(現北九州市)中心部にあった小倉造兵廠(日本陸軍兵器工場)の上空に達した。新型爆弾を納めた爆弾庫扉は開けられ、爆撃機が高度1万メートル近い上空を旋回した約45分間、爆撃手の指は投下ボタンに何度も掛けられたと推定されている。その時、15年戦争の大半を中国、フィリピン、インドシナ半島の前線で従軍し、前年の1944年に帰還した私の父は、原爆の標的だった小倉造兵廠で働いていた。米軍機が小倉での原爆投下を断念し、長崎に向かったのは、小倉の人々にとってただただ幸運としか言いようのない条件によってであった。その経緯は、米政府の記録文書に直接あたった日本の研究者らの手によって明らかにされている。」

奇跡中の奇跡の命

筆者は原爆による殺人未遂に遭った男女の間に生まれた子である。人としてこの世に生を受けるのは確率的にも奇跡に近い。爆心地になりかけた兵器工場にいたわが父はB29爆撃機が原爆不投下のまま長崎へ向かい奇跡的に生き延びており、ならばわが命は奇跡中の奇跡の賜物となる。夏の盛り。小倉の朝は晴れていた。南西方向5キロほどにあり空襲被爆でくすぶる八幡製鉄所からの煙が小倉造兵廠の上を米軍機が旋回した一時間近く覆い続けたがゆえに、小倉の人々は広島に続く人類史上未曾有となる惨禍から逃れ得た。

これに加え、13年従軍した父は第二次上海事変で胸に被弾するも左胸ポケットにしまっていた金属物(詳細は不明)に当たり一命をとりとめ、重慶爆撃では搭乗した偵察機がエンジン不調で墜落寸前となるもかろうじて不時着でき、ミャンマー(ビルマ戦線)でマラリアにり患して生死の境をさまよっている。暴力で服従を強い、兵站(武器弾薬・食料など後方支援には無頓着、国際法違反にためらうことなく中国兵捕虜を斬首し続けた日本陸軍の軍隊組織の理不尽さは書物で学ぶ以上に父に教えてもらった。国民学校教員だった母も戦争末期、米軍機に機銃掃射されるもすんでのところで死を免れている。

筆者は思春期14歳ごろから「死を内包したはかない生」との強迫観念にとりつかれ、それに身内の突然死が加わり「生きる意味」をどう見出せばよいのかともがいた。日銀広島支店入口階段で黒影となった被爆者と父の姿とが重なり懊悩した。そんな中、小倉の市立学校に学んだが、小倉への原爆投下未遂について触れる教師は小学、中学とも皆無であった。8月6日、9日も夏休み中のことであり、クラスメイトと原爆を語る機会もなかった。彼らは長崎の惨禍などまるで他人事のようにみえた。広島、長崎は社会科教科書の一隅で立ち昇るキノコ雲の写真とともに触れられる、過去の出来事にすぎなかった。そんな自分も共同通信記者となり、1970年代半ばにようやく取材を兼ねてはじめて長崎の爆心地慰霊を果たした。

大学入学で上京して以来、故郷の動向に疎くなったが、2010年ごろインターネットで小倉造兵廠跡地の公園に長崎原爆犠牲者慰霊碑=写真=が建立されたのを知った。建立は、1973年とのこと。2022年になって「北九州平和のまちミュージアム」が開館、そのHPに長崎市主催の「青少年ピースフォーラム」に北九州市の子どもたちを派遣、「被爆体験講話の聴講、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典への参列等を行うことで、被爆の実情や平和の尊さを学ぶ」とあった。長崎被爆から80年経とうとしている。ホッとしたと同時に、「なぜ今頃になって」との思いも強く湧く。心の芯に届かない義務的な平和祈念は空しい。

三種の神器の維持ーないがしろにされた国民の命

1942年にユダヤ系ドイツ移民の子である物理学者オッペンハイマーを中心に米国は原爆開発マンハッタン計画を立ち上げ、開発が進むとF・ルーズベルトとチャーチルは1944年9月のハイドパーク会談で「ドイツ人には使わず、日本人に使い、(投下は)降伏するまで繰返すと(日本政府へ)警告する」と密約した。8月15日にポツダム宣言受諾を表明せず、本土決戦へと進めば広島、長崎に続いて小倉、新潟、京都は確実に被爆した。降伏が長引けば…日本の主要都市は被爆ですべて壊滅していた。

木戸幸一日記などによると、当時の天皇は三種の神器の維持こそ国体護持と考えていた原武史が「要するに昭和天皇にとっては、「国民」の生命よりも、神器の 確保の方が重要だったのである」と書くと、保守派から「そんな単純じゃあない」との非難が沸き起った。原の指摘が誤っていれば、2回の原爆投下、ソ連参戦に至るまで敗戦を受け入れなかった事実をどう説明するのか。

「ご聖断(8・15)により国民を救った」というのは紛れもない史実の歪曲である。日本国とは誠に不条理な存在だ。日本は国民主権を謳うが共和国ではない。天皇制は不可解な形で続き、日本帝国は滅びたようで滅びていない。広島の慰霊碑の誓う「過ちは繰り返しません」の主語が問題となり、「世界の人々」とすることで決着がついた。ならば日本人の過半は「鬼畜アメリカ」に全責任があるとの本音を抱きながら、原爆投下の罪は、人類にあることにしたのである。敗戦直後の一億総懺悔と同じ論法である。権力者は何を行っても結果責任を免れるのだから、罪刑法定主義も国家賠償法も国際法も裁判所もいらない。必要なのは人類全員の懺悔なのだーで決着させた。

■投下は侵略と加害の帰結ー天皇無問責糾弾

戦後知識人と言われた人たちは、好んで丸山真男の「無責任の体系」を引用した。しかし、丸山に言われる前に、明治憲法を読めば、戦前日本の無責任体制は明治憲法によって確立されていたことが判明する。第3条「天皇は神聖にして不可侵」とされ、天皇無問責と国家無問責が定められていた。「国家ないし官公吏の違法な行為によって損害が生じても、国家が賠償責任を負うことはない」。

丸山によれば、戦前の日本人は臣民とされ、市民としての主体形成ができていないことが問題だった。新憲法の下でも十分な自立した市民としての主体が形成されたとは到底いえず、これをどう変革するかの展望もいまだ拓けない。安倍内閣に象徴されるように保守反動の嵐は戦後民主主義の息の根を止めつつある。戦後日本人の心の内に留まる「治安維持法」と体制服従が決定的バリアとなっているのではないか。

注:2022年2月掲載記事「自由、自立の定着で日独に彼我の差歴然 「奉祝」の2月に記憶蘇る」

「昭和天皇に戦争責任はある」との市議会答弁後に銃撃された本島等元長崎市長(1922年 - 2014年)の「原爆投下は侵略と加害の帰結」との言葉を噛みしめたい。本島は侵略戦争の主体日本軍の統帥権者裕仁天皇に対する不合理な無問責を糾弾した稀有な日本の政治家である。

尚、1975年の訪米を終えたばかりの同天皇の「原爆投下はやむを得なかった」発言には対米配慮が滲む。1945年から1951年までのD・マッカーサー、J・ダレス、ロックフェラー3世らとの皇居内での密談を通じ、皇統の存続=三種の神器維持は米国の意向次第と痛感したはずだ。自ら日米安保条約堅持と沖縄永続占領を米側に懇願している。四半世紀後の訪米でそれに改めて思い致したからであろう。皇室存続は対米従属の産物である。この問題は改めて論じる。