日本の政治報道は与党内の派閥抗争・権力争奪合戦を中核に永田町内に限定された政局動向が柱だ。与野党の党内人事や政党間の合従連衡は外からの干渉を受けずあたかも内部完結的に決定しているかのように報じる。本ブログは2020年10月05日付記事「オークラ番記者が必要だ 米国大使館への秘密回廊」を掲載し、「ホテルオークラへの要人の出入りをチェックすれば日本の政治が米国にいかに支配されているかが相当程度分かる。なぜか政治部に東京での地味な日米間の動きを追う熱意はない。外信部の主たる業務は米情報の現地からの転電。両部連携し縦割り報道を打破せよ」と呼びかけた。だがベテラン政治記者はまるで担当与党派閥のボス議員のように振る舞う。最長政権を担った最大派閥安倍派担当記者の多くは字には決してしないが本音は「東京裁判否認、対米自立」であろう。日本政府の主要人事は駐日アメリカ大使の采配で決まっているのに、それを決して字にしないとの不文律が出来上がっている。それは敗戦の否認であり、報道の自由を放棄し戦後史を歪めてきた。東京で日米間の動きを自由に追い掛け、自由に字に出来る時、初めて日本にフリープレスが生まれる。
■元総理側近の告白
2009年9月の就任以来、沖縄の負担軽減をキャッチフレーズに米軍普天間基地の辺野古移設に異を唱え、「国外か、少なくとも県外移設」を訴えた当時の民主党政権を率いた鳩山由紀夫氏。戦後史において最も良識的な政治家と思えた鳩山首相はメディアに宇宙人と揶揄された末、1年足らずで総理の座から追われた。鳩山側近として金融財政政策を支えた元衆議院議員はホテルオークラ本館付近から東京・赤坂の米国大使館ビルを眺め、「あれが日本の司令塔」と語った。
この司令塔は北方の国会議事堂、首相官邸、自民党本部、霞ヶ関官庁街を三角形の底辺とするとその頂点に位置する格好で日本の政治中枢ににらみを利かせている。元衆院議員は「植民地提督である駐日大使の指示を受けて、日本政府の主要な人事、政治・経済・外交政策は決まる。最も忠実なのは財務、外務、法務・検察だ」と明かした。鳩山氏は首相就任後間もなく「日本の中枢はここまでアメリカに支配されているのか」と絶句したという。
鳩山・民主党政権の最大の失敗は米国の日本支配の構造を十分に研究した上で政権を発足させることができなかったことと言われる。先ずはシンクタンクを作りブレーンを豊富に養成し、ワシントン、ニューヨークの米権力中枢を熟知し、人的コネクションを築いた上で、政権運営に当たるべきだった。これを悔いてか、鳩山氏は、政界引退後ながら、後進のためにシンクタンク・東アジア共同体研究所を発足させた。また自ら司会を務めるユーチューブ番組UIチャンネルにゲストを招き、視聴者に公開して内外情勢を分析している。
注:米大使館を核に日本の政治中枢を繋ぐ秘密地下道が張り巡らされているとうわさされてきた(図の赤線は推測)
【写真】あるブロガー(utzsugi-rei.com)が作成。あくまで推定だが、否定はできない。少なくとも参事官以上の米国大使館幹部やいわゆるジャパンハンドラーが自由に首相官邸に出入りしていることは関係者なら知っている。それは新聞の「首相動静」欄には掲載されない。また国会議事堂や衆参議員会館などを繋いでいる地下道は、会社記者時代に何度か利用した。多くの国会議員が議事堂への出入りに地下道を使っていた。この地下道が秘密回廊としてさらに南に数百メートル伸長されていれば米大使館員は地下から自由に官邸などに出入りできる。
説明のない写真右上の赤い★印は米国大使館本館。1980年代初めに新築された大使館宿舎はCIAの巣窟といわれる。
■問題は米権力の介入の仕方
本ブログは2022年5月18日に論考「選挙権、労働基本権…民主主義かなぐり捨てる日本 米管理下の新翼賛体制」を掲載した。そこで現代日本が米国に管理された新たな翼賛体制へと進んでいると警告した。そこにこう書いた。
「『翼賛体制』というのは、狭い意味では、日本の太平洋戦争下における一国一党組織である大政翼賛会を中心に、軍部の方針を無批判に追認し、国民を戦争に総動員した体制のことである」との説明がある。これを次のように言い換えてもさして違和感はなかろう。
「現代日本の翼賛体制というのは、野党の小党分立と相互対立、ワシントン(CIA)の介入により1955年保守合同で結党された自由民主党の半永久的与党化、野党の支持母体であるはずの労組の自民党政権接近、労働組合、市民運動や学生運動など対抗勢力の著しい衰退によって形成された一国一党に近い政治状況を中心に、日米安保条約・地位協定を礎とするワシントンの方針を無批判に追認し、国民を対中露冷戦やウクライナをはじめとする米国の代理戦争支持へと総動員している体制のことである」
1945年8月を起点とする戦後は2022年に77年目を迎えた。1980年代から90年代にかけての社会党、総評の解体、市民運動、学生運動の著しい衰退、スト権を放棄する労働運動の事実上の消滅に象徴されるように、権力に異議申し立てする対抗勢力を日本から一掃し、個人、組織を問わず日本人を日米安保体制に親和する親米保守化するのがいわゆる米国の対日政策逆コースの最終目標であった。天皇制廃止を頂点に現行政治体制の打倒、転換を唱えようものなら極左テロリストとして疎外され、攻撃される。それは40年余りの時間をかけて段階的に進められた。
問題はこの新翼賛体制の形成に米政治権力がどう介入してきたかにある。特定の日本の雑誌(週刊、月刊)がそのプロセスを断片的に報じてはきたが、新聞、テレビに至っては、冒頭記したように決して字にしないとの不文律が出来上がっている。ここでは報道の問題はいったん措き、過去40年にわたる戦後政治の変容を大きな節目に焦点を当てて概観してみる。
■経済大国化と「責任分担」論
戦後史における日米関係の転換点の1つは1970年代から激化した日米経済摩擦にある。ワシントンは経済大国として台頭し再び脅威となった日本の経済力を軍事的に最大限に活用しようと画策し始める。彼らは憲法9条や日米安保条約を改めようとはしなかった。それはなきがごとく無視された。
まずはカネ。米側は「バードンシェアリング(責任分担)を求めてきた。米議会では「日本は米国に対する防衛責務を負っていないのに、米国から防衛されている。日米安保条約は日本に有利すぎる」との声があがり、米政府は「公平に責任分担するためには、まずは米軍の駐留経費を大幅に増やせ」と要求してきた。現在年間2000億円を超える「思いやり予算」という名の「在日米軍駐留経費日本負担(同盟強靱化予算)」がそれだ。2019年度は約1974億円。在日米軍関係経費は約5800億円超に上った。
現在米軍は世界180カ国余りに軍事展開しているが、在外米軍基地を設置する途上国に米政府は基地負担金を支払っているケースが多い。一方、日米地位協定第24条では、米軍の維持経費は「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」と規定されている。
ところが米国では経済大国と言われるようになった日本に対し「安保ただ乗り」論が沸き起こった。レーガン政権は「日米の役割分担」というレトリックで日本政府にアプローチし、 在日米軍駐留費援助を皮切りに、 日本の果すべき防衛任務・役割の明確化、日米防衛技術協力, 政府開発援助(ODA)を柱とする米国に代わる対外援助 の拡大を求めてきた。
「日本は敗戦後米国からの巨額の支援と開かれた米国市場への自由なアクセスのお陰でジャパン・アズ・ナンバーワンといわれるほどの経済大国になった。今度は世界の警察官・米国にできるだけの恩返しをせよ」。米国の対日要求の根底には「敗戦国の戦勝国への貢ぎ」という理論にならない理屈があった。用心棒を装い巨額の「みかじめ料」をせしめていると言っても大過なかった。米国は「安保ただ乗り」を逆転させたのだ。
■米軍は尖閣に介入不能
「専守防衛を国是とする日本の防衛と抑止力は在日米軍を中心とする米軍の前方展開に負っている。だから米軍の日本駐留経費はできるだけ負担する」ー。これが外務、防衛当局の言い分である。1960年に改定された安保条約には米国が日本を守る義務を負うことを定めた条文として第5条が挙げられてきた。その前段にはこうある。
「各締約国(米日両国)は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」
日本でも僅かな数の論者が指摘してきたが、米国では軍隊投入権限の問題は、憲法規定上曖昧なままにされている。すなわち、合衆国憲法上、戦争に関わる権限が連邦議会と大統領の間でどのように分配されているかという問いについて「学説上も実際の政治の場でも法的に確立された枠組みが存在するとは言い難い」というのが定説となっている。
このところ米大統領は来日する度に「尖閣に5条を適用する」と明言し、日本人に安堵感を与えている。2013年1月、米上下両院で可決された「2013年会計年度国防権限法案」に当時のオバマ大統領が署名して法案が成立した。同法条文には、尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象であることが明記された。この時の日本メディアはまるで「親分が命がけで子分を守ると約束してくれた」かのようにはしゃいだ。
だが国防権限法案の尖閣条文には「「武力による威嚇や武力行使」で問題解決を図ることに反対する」の表記がある。日本のメディアは一斉に、これを「中国へのけん制」と解説した。だが、米国の武力不行使の意思の暗示でもある。
「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象」。これはリップサービス以外の何物でもない。上記のように米国憲法の規定からして、米大統領は建前上単独で米軍を動かせないからだ。米連邦議会が日本の施政権しか認めていない東シナ海の小さな無人島の領有権紛争への米軍投入を承認することはまずない。ホワイトハウスも同様の構えと見るべきだ。
■安保条約、自衛隊の欺瞞
1970年代くらいまでは日本の政界では社会党、共産党のみならず、口外はしなかったが一部の自民党ハト派までが安保条約の欺瞞性を見抜き、安保破棄を志向した。自衛隊の前身警察予備隊の創設が1950年朝鮮戦争勃発を機に朝鮮に全員出動した米兵の欠を埋めるのが目的だったことからしても、自衛隊の第一義的な任務は在日米軍施設の防衛、米軍に代わる治安維持であったからだ。日米安保条約は決して日本人の生命や財産を優先的に保護、防衛するためのものではない。有事の際は、戦闘の犠牲になるだけだ。
今日まで安保条約、自衛隊に関する欺瞞的な解釈や弁明が幾度となく行われてきた。その最たるものが米議会で論議された「日本は米国に対する防衛責務を負っていないのに、米国から防衛されている」との批判だ。安保条約は「モノ(日本の土地)とヒト(米兵力)のバーター」において”双務的”とされてきており、批判は不当であった。2015年に新安保法制が成立、自衛隊が集団的自衛権を行使できるようになりこの批判は止んだ。日米安保条約は軍事的には曲がりなりにも双務的になったとされる。しかしながら「米国が望むだけの土地の提供義務」も極め付きの不平等条約である日米地位協定の見直しの声も政府周辺からはまったく上がらない。
さて、専守防衛は自衛隊発足の翌年1955年に当時の防衛庁長官・杉原荒太が初めて国会答弁で用いたという。その後、1970年に初刊された防衛白書で正式用語となり、1981年白書では「相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使する」、「態様も自衛のための必要最小限にとどめ」、「保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限る」と明文化された。
米側の意図としては元々、日本国内の米軍が攻撃された際、自衛隊と共同して反撃することを想定していたはずだ。憲法9条の精神に則り受動的な防衛戦略である専守防衛政策が閣議決定されたのはひとえに反戦平和を求め、米日共同軍事活動を抑制させる強力な左派リベラル抵抗勢力が日本に存在したからだ。国際平和維持活動を嚆矢とする自衛隊の深まる海外派遣、自衛隊の集団的自衛権行使容認、今日の敵基地攻撃能力保持、そして先制攻撃容認へと続きそうな流れは、日本国内の抵抗勢力の衰退と消滅への流れとパラレルとなっている。換言すれば、それは「米国に管理された新翼賛体制形成」への道であった。
■「同盟」拒絶、自民リベラル最後の首相
政治的な転換点は1981年の鈴木善幸首相訪米=写真=による首脳会談後の日米共同声明に盛り込まれた「同盟関係」との言葉について同首相が「軍事的意味合いはない」と語り、同盟という表現を事実上拒絶した事件とその顛末である。急逝した大平正芳を後継した鈴木首相は1981年5月に訪米、レーガン大統領との首脳会談後に発表された日米共同声明に盛り込まれた「同盟関係」という表現に驚愕、動転した。首脳会談でのレーガン発言にはこの言葉はなかったからだ。
鈴木首相はワシントンでの同行記者との会見で「同盟関係が初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるのか」と質問されて、「日本は、平和憲法のもと、自衛のための防衛力しか持てない。軍事大国にはならないという点をはっきりさせているので、軍事同盟ということは全然、共同声明の中にも入っていない」と答え、「軍事的意味合い」を否定した。帰国後、米側と声明文の作成に当たった事務方トップの外務省事務次官が首相答弁を否定すると鈴木が激怒する一方、伊東正義外相は「日米同盟には当然ながら軍事同盟の性格もある」と主張し辞任する騒ぎとなった。
当時通産省から官邸に出向していて、訪米に同行した首相補佐官は10年近く経て「外務省の事務方は共同声明の文案を正確に総理に事前説明しようとしていなかった」と回顧し、外務事務方のサボタージュを示唆した。この事件の背景として、鈴木が日本社会党に在籍経験のあるただ一人の首相経験者であり、青年時代はマルクス主義・共産主義思想に傾斜した前歴があるのを外務官僚が警戒した可能性がある。
ウキペディアによると、鈴木は「学生時代に弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったことがあり、就職時に思想傾向を理由に不採用になったこともある」。1947年に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。その後、社会党から分派した社会革新党に移るが、弱小政党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、次期総選挙への不出馬を明言した。ところが、支持者からは与党移籍を求める声が高まり、同郷の小沢佐重喜代議士の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、1955年保守合同・自民党結党後は保守本流「宏池会」に所属。領袖の池田勇人首相に評価され、トントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる。
前任者の大平は鈴木より1歳年上で、ともに吉田スクールの同世代。1979年5月に訪米した大平はすでに日本の首相として初めて米国を「同盟国」と表現していた。「戦後政界指折りの知性派」と評される大平は1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えた。一方、鈴木は外交音痴と揶揄されながらも、安全保障政策では米ソ冷戦激化の中、戦争体験リベラル派として「わが国は平和憲法のもと、非核三原則を国是とし、シビリアンコントロールのもとに専守防衛に徹した施策をとっており、近隣諸国に脅威を与えるような軍事大国になる考えは毛頭持っていない」と真摯な発言を繰り返した。彼にとって米国と応分の軍事役割を分担する「同盟関係」という言葉は到底受け入れられるものではなかった。
鈴木はレーガン大統領との会談で日本の専守防衛政策を「吼えるライオンより、賢いハリネズミでありたい」と表現したという。「対米軍事同盟」を拒否し、軍事偏重を避け、総合安全保障を提唱した鈴木は「軽武装・経済優先」の保守本流リベラル路線を貫いた最後の首相であった。
■「戦後政治の総決算」と右傾化の進捗
後継の「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相は日米「同盟」という言葉を定着させ、社会党、総評の解体へと向かう55年体制崩壊の基礎を固めた。その日米同盟強化路線は1991年の湾岸戦争以降の自衛隊海外派遣を伴う戦後安全保障政策の大刷新へと繋がる。
注:本稿では本ブログ既存論稿との重複を避けるため、中曽根内閣から民主党政権への過程でのエポックメーキングな事象の評価は割愛する。以下の既掲載記事をはじめ幾つかの論稿の参照を願う。
①新自由主義導入による中曽根内閣の行革、民営化路線については2022年6月7日更新記事「選挙権、労働基本権…民主主義かなぐり捨てる日本 米管理下の新翼賛体制」の「■静かな翼賛:生活保守主義と怒りの抑制」。
②湾岸戦争後の自衛隊海外派遣を伴う戦後安全保障政策の転換については、2022年7月25日掲載「米政権の豹変と安倍国葬 「血を流せる国」にすると冷遇一転し絶賛」など。
■総保守化への道
ワシントンにとって、2009年から2012年までの民主党政権は悪夢だった。安倍晋三の「悪夢の3年」発言として記憶される言葉だが、安倍が米権力中枢の苛立ちを代弁したことは容易に推察できる。
この悪夢再現を避ける方策が、自民党と並ぶ第二保守党の結成であり、日本における保守二大政党体制作りであった。その動きは自民党石破派を離れ同党の推薦なしで東京都知事となった小池百合子が本格化させた。狙いは2017年月結成の小池率いる希望の党が民主党を後継した民進党と同年9月に合流した一件に象徴された。当時、小池は自民党を事実上離脱、無推薦で立候補した2017年7月の都知事選に自民候補に大差をつけて勝利、続く同年7月の都議会選でも自民党を破り小池率いる地域政党「都民ファーストの会」が第一党となり、小池ブームが起きた。
米CIAをはじめ米諜報機関と連携する日本の公安調査庁元幹部(検察官OB)は当時、「占領期から米国は日本に保守二大政党を導入したがっていた。だから小池新党の誕生は『あれか』とピンときた。1955年の保守合同(自民党結党)と同様、CIA主導の政治工作とみる他ない」と打ち明けてくれた。
「希望の党」の政策の核心は、安倍政権が成し遂げた安全保障政策の共有であった。小池、民進党代表の前原誠司、連合会長の神津里季生の三者は同年9月26日に極秘に会談し、民進党と希望の党の合流について基本合意した。日本維新の会との連携も確認された。この3人はその経歴を洗えば、米国の超党派のシンクタンクで対日司令塔と知られる国際戦略問題研究所(CSIS)の日本代理人的な存在ではないかと疑われ、米CIAの影もその背後にちらつく。希望の党の安保政策の核が2014年に閣議決定された米国との集団的自衛権行使容認であり、翌15年に成立した新安保法制の支持であることからして米側との密着連携は明らかだ。
ところが翌朝の記者会見で名高い「小池の排除発言」が飛び出し、雲行きは変わる。
記者が「民進党の前原誠司代表が「(民進党から希望の党に)公認申請すれば、排除されない」と発言したことに関し、小池氏は「安全保障、憲法改正で一致した人のみ公認する」と明言している。前原氏をだましたのか。リベラル派“大量虐殺”なのか」と尋ねると、小池は「排除されないということはございません、排除致します。安全保障や憲法観という根幹部分で一致していくことが政党の構成員として必要最低限のこと」と答えた。
民進党はこの「リベラル派排除」発言に反発、枝野幸男率いる同年10月の立憲民主党の結成に繋がった。同22日施行の第48回衆議院選挙で立憲民主党は55議席を獲得、50議席の希望の党を上回り、後者の解散に道を拓いた。立民党はその後、民進党系3党派による統一会派結成で、衆院120人、参院61人の勢力となり、第二次安倍内閣発足以降では最大の野党勢力となる。
このため米側のターゲットは立憲民主党に向けられ、その衰退工作が展開された。
2021年総選挙で100議席を割った同党は今や消滅寸前である。枝野立民が惨敗した主因は野党共闘の破壊にあった。枝野が辞任して後継した泉健太は野党共闘の否定をさらに先鋭にした。その結果、2022年7月参院選ではさらに大惨敗を喫した。
枝野は2021年10月の衆院総選挙の選挙期間中に野党共闘を全面否定する発言をした。多くの立民支持者が野党共闘の支持者であることを知った上での発言である。その証拠に、2021年総選挙で11.2%だった立民得票率は2022年参院選では6.4%にまで下落した。立憲民主党の共闘対象は国民民主党であり、共産党、れいわ新選組、社民党とは共闘しないとしたのは、後者3党が改憲や集団的自衛権行使を核とする米国との新安保体制に否定的だからだ。言葉を換えれば、共産、れいわ、社民を政治の主役にはしないとの誓約だ。
誓約させたのは立民の支持母体を自称してきたナショナルセンター労組「連合」である。吉野友子率いる連合は今や長年労働組合を敵視してきた自民党と賃上げ問題などで連携している。ここでは詳述を避けるが、間接的ながら旧統一教会とも勝共連合を介して結びつく連合や大企業労組・六産別がCIAとタッグを組み、共産党排除のため野党共闘を潰したとみられる。この先にあるのはオール保守体制である。
■英紙が鳩山排斥の内幕暴露
日本に潜む米諜報機関と日本の公安警察、検察、そして永田町で活動する親米政治家たちが戦後の日本政治を動かしてきた。
冒頭に戻り、鳩山政権に対する破壊工作を振り返る。破壊の主体となったのは、民主党に潜伏した対米隷属勢力である。彼らは沖縄の米軍普天間基地の県外移設方針を破壊し、辺野古移設を強引に進めた。
ウィキリークスによると、岡田克也、前原誠司、北澤俊美、平野博文の4氏が米政府の指令に従い鳩山総理を退陣に追い込んだという。岡田、前原の両名は米国と直接手を握り、鳩山首相が沖縄の負担軽減策としてこだわった「米軍普天間基地の国外少なくとも県外への移設」の芽を摘み取ったとされる。
彼らに直接指令したのが当時のジョン・ルース駐日米国大使とカート・キャンベル米国務次官補と言われる。上記の本ブログ記事「オークラ番記者が必要だ 米国大使館への秘密回廊」には「2011年にこんな情報が流された。「(民主党の)前原政調会長はこのほど(維新の会)橋下徹氏とホテルオークラで秘密裏に会い、地下通路を使って米国大使館に入った。するとジョセフ・ナイ、リチャード・アーミテージ、マイケル・グリーン、カート・キャンベルといった連中が待っていた」。ことの真偽はさておき、決して頭ごなしに否定できない情報だった。」と書いた。オークラと米大使館を結ぶ地下道はさておき、日米要人の接触がこのような形で日常的に行われているのは確かであろう。
ウィキリークスから米機密外交電報を提供された英ガーディアン紙は2010年11月29日付記事で「カート・キャンベル国務次官補は2010年2月に韓国の金星煥外交通商相と会談。鳩山首相の頭越しに、(当事の)菅直人財務相、岡田克也外相との接触を図ることの重要性を金氏と共有した」と報じている。鳩山が米国と民主党内鳩山排斥派の工作で追放されたことを間接的に裏付けている。
■総保守で政界再編も
安倍暗殺から5カ月近く経ち、永田町に政界再編の動きがはっきり見てとれる。岸田首相が安倍派解体へと本格的に動くのは時間の問題であったが、まず清和会脱会を強いられながら安倍から絶大な支援を受け昨年の総裁選では無所属で立候補し、岸田を脅かした高市早苗に矛先が向かった。高市経済安全保障相は「首相が防衛費増額の財源を議論した12月8日の政府与党政策懇談会に私も(安倍最側近の)西村康稔経済産業相も呼ばれなかった」とツイート。同12日には「ツイート。閣内不一致を理由とした罷免はなかったが、後日に火種を残した。
最も統一教会と関係の深い議員で、安倍の後継者の役割を担う萩生田光一は今は安倍、岸兄弟に代わる台湾ロビーの主役を演じる。岸田が萩生田を党三役の一人として残したのは、清和会をはじめとする党内保守勢力の統制を考えてのことであろう。いずれにしろ領袖を失った安倍派の土台はぐらついている。岸田が立憲民主党親米派、日本維新の会との連立、国民民主党の自民への吸収合併に目途をつければ、安倍派崩しに本格的に動きそうだ。安倍派議員も権力の旨味を棄てられず、多くが脱安倍して自民党に残留するはずだ。東京裁判否認の戦後レジューム脱却は政治信念というより集票のための仮装が多数派であろう。
日本が戦後、米国にどう支配されてきたのかはどう報道されてきたのか。例えば、保守合同・自民党結党に多額のCIA資金が流れたとの件は、例外的に米国の機密解除された公文書を基に社会党の分裂工作、民社党の結党とともに報道されている。ただし半世紀以上経っての報道であり、1955年当時のメディアは左右社会党の合併を目前にした、旧自由党と旧民主党の有力者の”綱引き合戦”として報じた。
月刊誌『文藝春秋』で、1960年1月号から12月号にかけて連載された松本清張の連作ノンフィクション「日本の黒い霧」は米軍占領下で発生した重大事件を追及したものだ。「黒い霧」という言葉が流行語になるほどの社会現象を起こしたのは、裏返せば取り上げられた下山事件から朝鮮戦争までの12件の事件が米工作機関や米軍の謀略であると人々が感じていながら、一般紙をはじめメディアが米国による日本支配の構造を剔抉しようとしなかったからである。
米軍駐留を違憲とし、被告人を無罪とした東京地裁判決を米政府の圧力で最高裁判所へ跳躍上告し日本政府の対米追従ぶりが最大級に示された1957年砂川事件もしかりである。最高裁に審理を差し戻された東京地裁は有罪判決を下したが、それは駐日アメリカ大使が外相藤山愛一郎や最高裁長官田中耕太郎に飛躍上告するよう直談判したためであった。この一件も2008年から2013年にかけて機密指定解除された米公文書を日本側の研究者らが分析したことによって明るみに出たのである。
唯一生ニュースとして報じられたのは、1971年の外務省機密文書漏洩事件である。沖縄密約事件とも呼ばれるこの事件は、沖縄返還に際し、地権者への土地原状回復費400万ドルを日本政府が肩代わりして米国に支払うとの密約情報をつかんだ全国紙政治部記者が日本社会党議員に情報を漏らしたというもの。密約の内容より、情報源の既婚の女性事務官に近づき、性交渉を結んだとされる取材方法の反倫理性が大問題となった。
さて、ラーム・エマニュエル駐日米国大使は12月7日、写真付きで次のようにツイートした。
「バラードから弾道ミサイル防衛まで、浜田防衛大臣は日本と地域の安全をしっかり守る中心的存在であり、あらゆる意味で真のロックスターです。今夜は大臣と夕食をご一緒し、日米同盟の役割と能力の強化について話し合うことができうれしく思います。」
毎日写真付きでツィートを更新し、事細かく岸田首相に注文をつけると報じられたエマニュエル大使に肉薄して報道する日本メディアは皆無だ。浜田防衛相との会食は安全保障3文書公表直前であり、米国大使が浜田氏に何を語ったかは見逃せないニュースだ。SNS時代、日本メディアの畏縮と忖度ぶりがさらに明るみに出てしまっている。
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