総選挙が終わった。結果がどうであれ、この国の進路が大きく変わる気配はない。むしろ、選挙戦では日本社会の深い疲弊と無関心が映し出された。賃金、物価、財政、為替(円安)といった生活の根幹に関わる争点は掘り下げられず、少子化による破綻が目前に迫った2040年危機と日本の社会像をめぐる議論はなかった。初の女性首相となった「日本版鉄の女」高市早苗ブームが煽られて、相変わらず明治維新以来の「成長の物語」が繰り返されただけだ。迫る危機を問う声はかき消された。
国論を二分するという高市の「積極財政」という言葉も、その延長線上にある。国家が成長の方向を決め、資本に資金を供給して産業構造を誘導しようとする姿は、明治以来150年にわたって繰り返されてきた。殖産興業、戦時統制、高度成長、構造改革──いずれも国家と資本の同盟が主役であり、労働者の側は常に後景に退けられてきた。先端技術への投資を列挙し、「強く豊かな日本」を掲げる現政権の政策も、その歴史の延長にある。だが、そこには労働者の姿がない。分配の公正という原則は語られず、賃金決定の制度改革も議論されない。成長の物語は語られても、その果実を誰が受け取るのかという根本問題は置き去りにされている。
その結果として、実質賃金は三年連続で低下している。企業が賃上げを渋っているからだけではない。物価上昇に対抗するだけの制度と運動が、この国には存在しないからだ。労働組合の組織率は低下し、産別交渉の力は弱まり、非正規労働者の組織化は進まない。欧州のように最低賃金が物価に連動する仕組みもなければ、産業別協約に法的拘束力を持たせる制度もない。賃金は企業の自主判断に委ねられ、労働者は物価上昇の波にさらされるだけである。価格転嫁の自由化が進む一方で、価格監視の制度は脆弱で、公正取引委員会の介入も限定的だ。ここぞとばかりの価格引き上げを抑える力は、社会のどこにも組織化されていない。
このままでは、2040年に向けて未婚化と少子化は地滑り的に進行するだろう。正規安定雇用の下で実質賃金が着実に上がり、生活向上を実感できない限り、若い世代が家庭を築くことは難しい。将来への展望を持てない社会で出生率が回復するはずがない。2040年問題とは、単なる人口減少ではなく、生活の基盤が崩れ、再生産が不可能になる社会崩壊の危機である。
さらに深刻なのは、資本の側が低賃金の外国人労働力に傾斜していく構造だ。国内の賃金を上げるよりも、安価な労働力を海外から受け入れるほうが容易であるという発想が広がれば、日本の労働市場は二重化し、社会の分断は決定的になる。外国人労働者の待遇が低く抑えられれば、国内労働者の賃金も上がらない。こうして社会全体が低賃金構造に固定され、2040年を待たずして「貧しく疲弊する日本」が現実のものとなる。
「積極財政」が国際金融市場の圧力と衝突し、円安や金利上昇を招く構図も、戦後日本が抱えてきた「対米従属」の延長線上にある。財政・金融政策の自律性が乏しく、国際環境に左右されるという脆弱性は、いまや隠しきれない。国家が経済の舵を握りながら、ワシントンからの圧力に抗する力を持たず、国内の労働者の生活を守る制度も育てられなかった。その二重の脆弱性が、2040年危機の核心にある。
こうした問題が総選挙で争点化しないのは、政治の怠慢だけではない。生活の問題を政治の問題に翻訳する回路が、日本社会にはほとんど存在しないからだ。労働組合は弱体化し、メディアは構造問題を深掘りする力を失い、政党は政策形成能力を低下させ、市民社会は組織化されていない。賃金、物価、財政、円安といった生活に直結する問題が政治の中心に浮上しないのは、社会の側にそれを押し上げる力が欠けているためである。
こうして見てくると、現在の経済政策は「衰退日本150年」の構造が露わになった局面と捉えるべきだろう。国家と資本の同盟が繰り返され、労働側の制度的基盤が育たず、国際金融環境に左右され、市民社会が形成されないという四つの弱点が、いま同時に露呈している。2040年危機とは、これらの宿痾が構造的に一斉に噴き出す未来である。
日本の衰退とは、単なる経済の停滞ではなく、市民社会を育てることに失敗した近代の帰結である。2040年を目前にしたいま、必要なのは成長の物語をもう一度語り直すことではない。分配の公正と市民の主体性を中心に据えた新しい社会の枠組みを構想することである。明治維新以来150年の歴史を踏まえたうえで、改めて出発点に立つべき時が来た。
その150年の出発点とはどこにあったのか。
それは、明治維新という華々しい物語の陰に隠れた「攘夷のための開国」という、近代日本の原罪にほかならない。
「衰退日本の150年」シリーズは、この国の宿痾がどのようにして生まれたのか、その起点へと遡る試みである。