夜はクリスマスイルミネーションに包まれ、昼は日差しで眩しいばかりに輝く長崎湾=写真。「人類最後の被爆地に」との祈りは爆心地である浦上天主堂に鳴り響く鐘の音が伝える。1945年8月9日の原爆投下から76年、1976年8月9日に平和祈念式典を取材してから45年の歳月が流れた。2021年12月21日朝に買い求めた地元紙・長崎新聞は一面トップ記事として共同ワシントン電「核兵器禁止条約第一回締約国会議 米不参加要請 日本は同調」を掲載していた。唯一の被爆国でありながら、事実上の宗主国アメリカの反対で核禁条約締約国会議へのオブザーバー参加すら許されない日本政府。長崎の被爆遺跡を巡りながら米英両国に縛られ続ける戦後日本の体制刷新への思いをさらに強くした。
■二重被差別地域
爆心地の浦上地域は長崎市の中心街から北に数キロ離れた地点にある。1945年8月9日午前10時半過ぎ、筆者の父が働いていた九州北東端の小倉市(現北九州市小倉北区)にあった小倉造兵廠を標的にした米爆撃機編隊は諸般の事情から原子爆弾の投下先を長崎市に急遽変更し、同11時2分、ファットボーイと呼ばれたプルトニュウム型爆弾を浦上上空で炸裂させた。その筆舌に尽くしがたい惨状の一端は爆心地から半径1キロ以内で被爆した長崎医大(当時)放射線医学研究者故永井隆の著作「長崎の鐘」を読めばうかがい知れる。
長崎原爆資料館の展示パネルによると、小倉では照準を絞り切れず投下を回避した米爆撃機は長崎でも曇天のため第一標的であった旧市街中心部への投下を諦めたとされる。投下ボタンに手を掛けていた搭乗の米兵は北へと旋回するとすぐに雲の切れ間を見出し、そこに爆弾を投下したという。一度ならぬ二度までの投下回避の末、選りによって浦上が爆心地となったのだ。注
浦上の歴史は日本におけるキリシタン弾圧とカトリック信者受難の歴史そのものである。長崎県西彼杵郡浦上山里村に属していた今日の浦上地域は1920年(大正9年)に長崎市に編入された。「赦(ゆる)し 長崎市長・本島等伝」(にんげん出版)によると、原爆投下当時、長崎県内のカトリック信者は日本国内のほぼ半数の6万人余りで、うち1万1,000人が浦上に住み、原爆で8,500人が死んだとされる。
浦上は16世紀以来キリシタンの里で、江戸幕府による弾圧開始後も信仰を守り続ける中、1790年(寛政2)以後浦上崩れと呼ばれる大きな弾圧を4回受けた。もっとも厳しかったのが1867~1868年(慶応3~明治元年)の四番崩れで、全村3394人が名古屋以西の各地へ総流罪となり、1873年にやっと帰村している。さらに江戸期には穢多・非人(えた・ひにん)と呼ばれ部落民として差別されていた人々と混住させられ、被差別部落民が隠れキリシタンをさらに監視、差別する二重被差別地域となっていた。
注:冒頭記事「原爆不投下、わが命、日本の戦後 -はじめに」を参照されたい。
■「被爆は神の恵み」と語る浦上の人
敬虔なカトリック信者だった永井隆は一連の被爆関連著作で名を知られる。山陰の旧制松江高校から長崎医大に進学した永井は大学の近くに下宿した。その下宿先が江戸期の迫害に耐え抜いた隠れキリシタン一家で、その家の娘と結婚してカトリックの洗礼を受けている。
代表作「長崎の鐘」で書いた「原爆が落ちたのは大きな摂理。神の恵みである」との言葉が原爆の受忍につながるとして大きな議論を呼んだ。小説家の中野重治をはじめ知識人や地元の被爆詩人・山田かんらが「招かざる代弁者」と批判の口火を切っている。小説家の井上ひさしは「天皇を頂点とする日本の指導者の戦争責任を免除するのに寄与し、原爆投下の責任を免除する思想を広めようとするGHQに利用された」と批判した(上記本島等伝、233頁)。
同じカトリック信者の本島等は「永井は信者以外に考えを押し付けるつもりはなかった」「同じ作品の中で太平洋戦争に関し『自国の利益を目的として始める戦争が正しいでしょうか』と問われ『神の前に正義でない戦争に勝利のあるわけがありません』と言っている。被害が強調された戦争直後の被爆地で、日本の加害責任にいち早く言及したと僕は重視する」と永井を擁護している。注
「長崎の犠牲の上に命永らえた」小倉の住民の立場に立てば1945年8月9日に浦上は五番崩れという最大最悪の受難に見舞われたと受け取れる。永井隆の言葉は「浦上はゴルゴタの丘であり、被爆した人々は殉教者である」と言い換え可能と思える。奇跡的に難を免れた小倉の人々は長崎への原爆投下の意味を深く掘り下げたであろうか。
注:2021年8月9日掲載記事「被爆76年 被害者の立場を越えて 本島元長崎市長を想う」などを参照されたい。
■ジッドの問い
クリスマス直前の平日夕、再建された浦上天主堂は訪れる人もまばらで静寂に包まれていた。大きく西に傾いた陽光がステンドグラスをくぐり抜け、堂内を淡い赤、青、緑で彩った。
被爆で一瞬にして崩壊した姿はここではうかがい知れない。信者にとって教会は神と結ばれる聖地であり、広島の原爆ドームのように保存はできなかったという。長崎原爆資料館内に瓦礫と化した被爆直後の天主堂正面入り口部分が原物大で複製されている。
永井隆の旧宅「如己堂」=写真=は浦上天主堂から徒歩15分ほどのところにある。わずか二畳の間に原爆症の身を横たえながら信じ難い精神力で6年間にわたり一連の著作を書き綴った。「如己」は新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉に由来する。。
堂前に佇みながら、ロシア革命後のソ連を旅したアンドレ・ジッドのソビエト旅行記を思い出した。ジッドはソ連社会に寛容に欠けた怒りと憎しみへの偏りを見出す。平等な社会に思いを馳せ、共産主義に傾倒した20世紀前半の西欧の知識人は現実に失望する。壮大な実験場となったソ連を訪れたジッドは、服従と順応を強いる体制、人々の貧しさ、官僚の欺瞞と驕りを看破した。永井を蔑むかごとく批判した東京の知識人たちの心情にスターリン独裁官僚のそれと重なるところがありはしないだろうか。
1960年代末の全共闘運動の中核となった団塊の世代には革命的暴力の名の下、リンチ殺人をも正当化した者たちがいた。その行動原理はスターリンの粛清の論理そのものだった。指導者の無謬性を絶対視する前衛党、プロレタリア独裁(人民民主独裁)の標榜は欺瞞と驕りだ、と直感した。
その先に連合赤軍による総括という名の下での山岳大量リンチ殺人事件や浅間山荘事件が発生した。
「怒りの広島」、「祈りの長崎」
我々は神亡き世界に生きねばならない。いかにして赦しを乞うのか。
(続く)