河辺虎四郎とウィロビー 親米右派の系譜2  

敗戦直後、参謀次長の任にあった陸軍中将・河辺虎四郎は1945年9月2日の降伏文書調印式に向け連合国と協議するためマニラに赴く。そこで河辺はダグラス・マッカーサーが司令する連合国軍の情報参謀であったチャールズ・ウィロビー米陸軍少将と知り合う。ウィロビーは日本に乗り込んだマッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の参謀2部(G2)部長となる。その名はGHQ民生局の対日政策を「行き過ぎた民主化」「容共路線」と批判し、これを転換した逆コース政策の主役として名高い。

 

【写真】1945年8月19日 マニラへの途上、米軍機に乗り換えるため沖縄・伊江島に降り立った日本降伏使節団 前列左が団長の河辺虎四郎・陸軍中将(参謀次長)

中央背広姿の随員は岡崎勝男外務省調査局長。後に岡崎は外務次官を経て政界に入り、第三次吉田内閣で官房長官、外相を歴任。対米協調路線にのめり込むあまり、1954年4月に「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と発言し、憤激を買う。

 

 

 

河辺を見込んだウィロビーは1948年に特務機関「河辺機関」を結成させ、GHQは米国の対日占領の終わる1952年までこれに援助を続ける。その後、この機関は内閣情報調査室のシンクタンクである一般財団法人「世界政経調査会」となる。また自衛隊の前身・保安隊の幹部にはG2の推薦をうけた河辺機関の旧軍佐官クラスが就任する。防衛・安保分野における「日米一体化」、すなわち「日本の対米従属」の基礎はこうして出来上がった。

 

 

 

【写真】GHQ・G2部長時代のチャールズ・ウィロビー

 

 

 

 

それではなぜGHQ・G2は河辺虎四郎に白羽の矢を立てたのか。

それは1931年の満州事変では参謀本部作戦班長として現地陸軍部隊の独断専行を抑えようと努め、日中戦争の火ぶたを切ることになる1937年の盧溝橋事件後は参謀本部戦争指導課長、同作戦課長という枢要なポストを歴任して同様の活動を行っていたからだ。河辺は中国での戦線拡大は米国との戦争を余儀なくすると憂慮した対米融和、戦線不拡大派であり、その後、軍中央に疎まれて敗戦直前まで主流から外されていた。

このためか、本土決戦を主張したものの河辺は戦犯に問われるどころか、公職追放されることもなかった。G2は冷静な「リアリスト」として彼を高く評価したわけである。河辺の下、GHQの情報工作に協力した旧軍幹部は、戦争責任を不問に付され、公職追放を免れることになる。

1947年からGHQ歴史課に所属した河辺を中心とした諜報機関の創設では英米派で日独伊三国同盟に異を唱えた辰巳栄一陸軍中将も大きな役割を果たした。

戦後、辰巳は駐英武官当時からの上司吉田茂の内閣軍事顧問を務める。「吉田首相の助言者」などと呼ばれ、米中央情報局(CIA)経由で内閣調査室(現在の内閣情報調査室)や自衛隊の設置に関わる資料を米政府に流していたことが後日明らかになる。一方で、辰巳は戦前の陸軍元幹部と戦後の陸自・空自元幹部をあわせた親睦組織である偕行社の会長(1975-1978)を務め、陸上自衛隊の将来の国軍陸軍)化を提唱するなど米国に警戒される。

これに対し、河辺は戦後、日本政府や旧軍関係の組織とは公式な関わりを持っていない。一貫して慎重な河辺は米側の大きな信頼を得ていたようだ。

さて昭和初期、1930年前後から日本の神国ぶりを極端に強調する流れが起き、日本軍では戦陣訓にみられるように極端に人命を軽視する風潮が強まる。いわゆる軍国主義、軍部ファシズムが台頭し、天皇機関説の否定と国体明徴運動が展開された。

その背景には、満州国建国と中国への全面侵攻で米英との対立が深まったことがある。日中戦争の泥沼化、対米関係の悪化が国家総動員・大政翼賛体制を促した。すでに日英同盟は解消されており、肩を並べたかった米英との軍事緊張が強まり、「東亜の解放」「自存・自立」のスローガンの下、米英との対決の可能性ががぜん高まった。

極度な不安と恐れ軍や政府当局者をより偏狭なナショナリズムと追い込んでいき、最後は「鬼畜米英」の絶唱となる。これは幕末維新期から日本の支配層が抱いてきた米英へのコンプレックスの裏返しに他ならなった。

河辺はこれをかなり冷めた目でとらえていたに違いない。GHQ諜報機関から絶大な信頼を獲得したことがそれを示唆している。

ウィロビーは回顧録で「(マニラを離れる)河辺中将とはドイツ語で別れの言葉を交わした」と記している。ドイツで生まれ育ったウィロビーは在ベルリン日本大使館に駐在経験のある河辺に初対面の時からかなりの親しみを覚えていたようだ。

(続く)

 

:河辺機関については前掲記事「安倍・菅政権と警察官僚 繋がる戦前・戦後」などを参照されたい。