2022年は対米敗戦から77年経過し、1868年明治維新から1945年対米敗戦までの77年と並ぶ。すなわち戦前と戦後が時間的にイーブンとなる。繰り返しになるが、そこで本ブログは来る新たな77年の元年となる2023年を近代日本第三期のスタートとすべきと提唱している。第三期を天皇制から真に解放される民主共和制の日本にするための前提として、まずは戦前期の日本が立憲君主制国家であったという虚構を暴かねばならない。同時に戦後日本が国民の総意(民主主義)に基づく、政治的権限を一切持たない象徴天皇を頂いているとの欺瞞を打ち崩さねばならない。象徴となった裕仁天皇が戦後の日米安保体制構築を巡り決定的役割を果たしていたことは歴史研究を生業としない一般人には信じがたい衝撃である。この事実を確認すれば、戦前、戦中期における裕仁天皇は当然にも絶対君主として機能したことが容易に推察できる。「平和を愛好しながらもアジア侵略へと独走した軍部に屈した立憲君主」との昭和天皇像を描き直し、敗戦と戦後を巡る論議に区切りをつけつつ、日本が現代アジアで共生する道を模索してみる。
■日米合作:「平和主義者裕仁」
「裕仁天皇は平和愛好者であり、侵略戦争に反対できたかもしれないが、その方法も知らず、また阻止する力もなかった」
占領初期の戦後日本に滞在し全国を取材した米国人記者ポール・マニングは著書「米従軍記者の見た昭和天皇(原文:Hirohito:the war years)」で「当時、日本国内や米国をはじめ海外に向けてこのような宣伝活動が行われた。それが史実と全く違うと分かっていたにもかかわらずGHQの検閲で報道できなかった」と無念の思いを綴っている。そして「事実から遮断されたのは、日本国民だけでなく米国市民も同様だった」と米国の占領政策を批判した。
【写真】皇紀2600年が祝われた1940年、閲兵を行なった昭和天皇
木戸幸一日記をはじめ昭和天皇側近らの多くの記録も、その意図がどうであれ、マニングの指摘する宣伝活動となっている。とりわけ、敗戦後50年近く経て明るみに出た寺崎英成の「昭和天皇独白録」は論議を呼んだ。多くの学者、評論家が「裕仁天皇は平和主義者であったが、天皇には内閣の決定に対し拒否権がなく自動的に裁可したことを示す一級の資料」などと持ち上げる中、歴史学者・秦郁彦は「『独白録』は昭和天皇の戦犯訴追を回避するためにGHQに提出することを念頭に作られた弁明書である。英語版も存在するはずだ」と主張した。
月刊誌「文藝春秋」の座談会で秦に反論した伊藤隆東大名誉教授(日本近現代史)は「秦さんのいう英語版が出てきたらカブトを脱ぎますがね(笑)」、作家・戦史研究者の児島襄も「せいぜい秦さんにお探しいただきましょう(笑)」と冷笑したが、後に英語版の存在が確認された。そもそも対米開戦直前の1941年3月という最も困難な時期に在米大使館に赴任し、日本占領の最高司令官マッカーサーの腹心ボナー・フェラーズ准将と遠戚関係にある米国人女性と結婚した外交官寺崎を敗戦直後に天皇側近(宮内省御用掛)としたのはワシントンの意向に日本側が従ったと見るのが自然である。この論議は逆に伊藤や児島の節操なき御用学者ぶりを露わにした。
■名実ともに大権握った裕仁天皇
上記のように御用学者らは「(帝国憲法の下、立憲君主であった)天皇には内閣の決定に対し拒否権がなく、自動的に裁可していた」などと言いくるめる。これは最も看過できない意図的な誤導のための解釈である。大日本帝国憲法第6条は「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス(天皇は、法律を裁可して、その公布及び執行を命じる)」と明記している。したがって天皇が法律を不裁可にすれば、それは内閣に対する天皇の拒否権の行使となる。正しくは、拒否権はあったが、行使された例がないということだ。行使されなかったのは、総じて内閣が、内大臣ら宮中側近を介してであれ、主要な政策方針を天皇に丁寧に事前説明し、天皇の意思を絶対優先した上で決定した。だから天皇は裁可を拒む理由がない。少なくとも昭和天皇に関しては、国務大臣の輔弼(助言)は立憲君主を装う形式的儀礼となっていた。
確かに、明治期の天皇は薩長藩閥政府を率いる維新の功労者である元老たちの傀儡であった色合いが濃い。しかし、病弱で執務能力に問題があった大正天皇に代わって1921年11月に摂政となり、1926年12月に即位した裕仁天皇と側近宮中グループは1917年ロシア革命と翌1918年皇帝ニコライ二世一家処刑に震撼していた。このため革命の余波と言える帝国議会を軸とした政党政治の進展、すなわち「大正デモクラシー」と呼ばれる日本社会の民主化へのささやかな傾斜を根から絶とうとした。また金融恐慌による経済危機は、天皇が軍部・官僚グループと財閥とともに満洲国樹立を経て中国そしてアジア侵攻へと突き進むのを促した。
裕仁天皇は独裁者ではなかった。だが、いかにも日本的でつかみどころのない鵺(ぬえ)的な絶対君主・大元帥として君臨した。「内閣の決定に拒否権がなく自動的に裁可した」というのは、マニングの指摘通り「史実と全く違う」。この問題については、稿を改めて詳述する。
■「戦争責任」言及は最大のタブー
「平和愛好者」裕仁像の確立に尽力した児島襄は共同通信社外信部記者を経て作家となっている。国策通信社同盟の流れを汲み、明仁天皇の「ご学友」記者をはじめ松方正義、犬養毅など戦前の元勲、首相ら政界有力者の子や孫らが戦後の経営幹部となった共同通信は1989年1月の昭和天皇逝去に際し、裕仁天皇を「平和主義者」「悲劇の人」として徹底美化した。日本メディア界における裕仁翼賛のコンダクターとでも形容できる役割を果たす。
それに対する批判は本ブログ掲載記事「敗戦を見つめる旅『変わらぬ日本』その1」の「社会の歪んだ鏡」に掲載したので、以下再録する。
「メディアは総じて、昭和天皇の戦争責任を決して正面から問うことはなかった。対米開戦の詔勅布告に追い込まれたのは明治憲法の定めに従い国務大臣らの輔弼(助言)に従わざるを得なかったためとして、それを「立憲君主の悲劇」と伝えた。他方、録音された終戦詔書となった玉音放送は天皇のポツダム宣言を受諾するとの聖断によるもので、これで国民は救われたと報じた。様々な歴史的事実の歪曲、旧憲法の解釈の意図的なねじ曲げが行われた。戦争責任に言及しないことが暗黙の大前提だった。
日本の大メディアは第二次大戦という史上最大の惨禍を生んだ過去をまったく清算していなかった。薄っぺらい「反省」と「お詫び」を繰り返す歴代政権と同根同質である。明治維新以降の近代史、戦中・戦後史に真摯に向き合えば、「昭和天皇崩御報道」がいかに翼賛そのものであったかが判明する。戦後メディアは社会の木鐸どころか、煽り立てた挙句の社会現象を映し出す歪んだ鏡に過ぎなかった。」
■外見的立憲主義:有名無実の立憲君主制
差し当たり一点だけ追加しておく。明治憲法は絶対君主としての天皇の大権を定めたもので、立憲君主制をことさら強調するのは戦後の天皇の戦犯訴追回避のためである。上で記したように、輔弼という内閣の助言に昭和天皇がロボットのごとく従ったはずがない。そもそも立憲君主制というのは君主の権力乱用を憲法で縛ろうとしたことに由来する制度だ。それはイギリスをはじめ西欧ブルジュア革命を担った主体である市民階級と王権との緊張、対立、妥協の末に成立した。
一方、天皇が臣民に下賜する形をとった明治憲法の制定過程において天皇と内閣との間にそのような緊張関係はまったく見いだせない。天皇とその忠臣である国務大臣(政治家)は上下関係として一体であり、そこにはなんら対立も摩擦もない。「権力を縛る」という西欧型近代憲法の本質からみれば統治者としての天皇の権限を定めた明治憲法は憲法とは言えない。宮中側近、元老、内閣、軍、官僚らがどう操ろうとしたにせよ、天皇の権力は絶対であったと言える。
戦前の日本の大日本国憲法は、天皇が行政権を掌握し、数々の強大な大権を有しており、議会の権限はきわめて弱かった。それは俗に第一次世界大戦前のドイツ(プロイセン)憲法を模範にしたといわれるが、独帝国憲法が保護した議会権能の縮小や市民権の抹消など実態はそれを下敷きに改悪したものだ。日本帝国は名ばかりの立憲君主制を装った絶対君主国家だった。このような立憲君主制は「外見的立憲主義」と呼ぶのが定説であり、議会主義的君主制とよばれるイギリスのような立憲君主制と厳然と区別される。
日々を「抜いた抜かれた」という”過当競争”の渦中にある現場の記者は、社会の流れを大きな視点から歴史として俯瞰する機会を失い、不勉強とならざるを得ない。それにしてもまるで示し合わせたように「先の大戦突入は立憲君主制のもたらした悲劇」と伝えた日本メディアの罪は重かつ大である。
■天皇信仰:与えられた民主主義を阻む巨大な壁
【写真】被爆2年後、1947年12月広島を巡幸した裕仁天皇。
広島で原爆被爆者ら5万とも7万ともいわれる群衆が天皇を熱狂して迎えた。奉迎会場は涙と歓喜の大きな渦となる。巡幸を勧めたGHQも予想を超えた「現人神と赤子・臣民」関係の揺るぎのなさに目を瞠った。ワシントンは報告に衝撃を受けたようだ。衝撃の大きさを物語るように、翌1948年から49年5月まで、巡幸は一時中断されている。
1947年12月7日付の地元紙は「ともに君が代を斉唱、涙、涙、涙。『天皇陛下万歳』の絶唱」などと感傷的に伝えた。当時の記録映像を見ると、街頭を埋め尽くした20万民衆の興奮と熱狂はすさまじく、天皇の乗車した車はしばしば立ち往生した。そこには被爆と敗戦の責を天皇に負わせようとする雰囲気は微塵もない。
広島駅で出向かえた当時の浜井信三広島市長は裕仁天皇の姿に「おいたわしい」と胸を詰まらせた。そして被爆に苦しみながらも歓呼する広島市民の姿を「他国で苦労した子どもが両親に会いたくなるのに似た気持ちを感じた」と回想している。
小野勝著「天皇と広島」は初めて人々の前で肉声を発した天皇と広島市民の姿をこう描いた。
「陛下にはオーバーのポケットから小さな紙片の取り出された、御言葉だ、御間近に拝する御体から、今、直接御聞きする御声だ、5万の会衆の眼と耳はジッと陛下の御口元に集中された、涙も、声もない一瞬である。
『この度は皆の熱心なる歓迎を受けて嬉しく思う。本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情はたえない。我々はこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。』
一語一語、はっきりと力強く耳を心を打ったこの御言葉、原爆の惨苦をなめた市民に注がせ給う大御心の有難さ、かたじけなさ、会衆はあの日の苦しみを一瞬忘れたごとく御声に聞き入った。水を打ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、どっと上がった万歳の声、再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、こんな国民的感激を、こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、何時、何処で、誰が味わったであろうか、市会議長寺田豊氏が唱えた万歳の姿も声も、眼に耳に入らぬ感激、興奮が渦巻いた。」
■瀕死の戦後民主主義
天皇信仰からの解放を意図したポツダム宣言。だが戦勝国から与えられた日本の戦後民主主義には「意図的な戦前体制精算サボタージュ」という巨大な壁が立ちふさがっていた。
敗戦から77年目。2022年現在、民衆の内から沸き起こったものとは決していえない、この民主主義は瀕死の状態にある。
次は日米安保条約、米軍の沖縄占領永続化を巡る裕仁天皇の言動を振り返る。
(続く)