春から秋にかけ、よく奥秩父に出かける。途中、埼玉県秩父郡皆野町にある秩父困民党蜂起史跡前を通る。
ウキペディアには秩父困民党事件はこう書かれている。
「1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。隣接する群馬県・長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる激化事件の代表例。」
秩父困民党は11月1日には秩父郡内を制圧。高利貸や役所の書類を破棄し、大宮郷(現在の秩父市中心部)に一種のコンミューンを樹立した。政府は警察隊・憲兵隊を送り込むが苦戦、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り込み11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊し鎮圧された。事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助ら7名が死刑となった。
近代天皇制国家はその建設初期このような大掛かりな民衆の抵抗・反乱に遭遇した。明治新体制は揺籃期に地租改正、徴兵制などへの怒りから数々の民衆蜂起、反乱が発生、体制はその鎮圧を踏み台にして強化された。近代日本は後発帝国主義国のハンディもあり、大正期にささやかな民主化の潮流を生みながらも軍事翼賛国家へと向かった。天皇原理教自爆テロとでも称すべき神風特別攻撃はそのなれの果てだった。
徳川幕藩体制と近代天皇制国家との隙間に自由と民権を求めて闘う民衆の反体制・革命運動が出現した。アジア太平洋戦争で破綻した明治体制とサンフランシスコ体制を経ての高度経済成長期との隙間に60年安保闘争=写真=、三井三池争議が起きた。敗戦から間もない期間、これを頂点に様々な異議申し立て活動で日本の民衆・労働者はよく権力と対峙した。
1991年バブル崩壊後の「失われた30年」は「30年+アルファ」を重ねざるを得ない状況にある。ならば日本経済がさらに弱体化し、社会格差が決定的に進行して過半の人々が窮乏へと追い詰められれば、近代日本は間違いなく三度目の民衆大反乱を招来する。
近代日本は1867年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの77年をその第1期と区分できる。今年2022年は1945年から第1期と同じ77年を経過する。この77年間を近代日本の第2期とみなせば、日本近代は2023年から第3期に入る。そこでは第2期の日米安保・対米従属体制から脱し、自立した民主共和制、東アジア諸国と共存できる、国民国家を超えた地域連合体制への転換が図られねばならない。
講座派と労農派の対立で知られる1930年代の日本資本主義論争。そこでは明治維新とブルジュア革命を巡る論争がなされた。しかし、今日に至るも、天皇制支配の基層を形成し、国家体制への圧倒的な同調圧力となった「一身を捧げて国のために奉公する」という臣民意識の形成を巡る議論は十分になされていない。日本人は今日もその極みである「一命を捨てて国(天皇)に殉ずる」といった靖国・英霊の思想の呪縛から完全に解放されてはいない。むしろこの30年の「失われた時代」に復古主義右翼思想となって再び芽を吹いてきた。
秩父事件参加者は1884年を自由自治元年と定め、明治と対峙した。秩父困民党蜂起を頂点とする自由民権運動の再評価は第3期近代日本の道標であり、光となる。
【補足】
人民の革命権を高らかに謳い上げたアメリカ独立宣言の核心部分を下に引用する。これは明治元年を100年近く遡る1776年に起草されている。日米間には国家観に埋めがたい溝がある。だがしかし、覇権国家となったアメリカは今や大きく変質してしまった。
「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利をあたえられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追求が含まれている。 またこれらの権利を確保するために、人びとの間に政府を作り、その政府には被治者の合意の下で正当な権力が授けられる。そして、いかなる政府といえどもその目的を踏みにじるときには、政府を改廃して新たな政府を設立し、人民の安全と幸福を実現するのにもっともふさわしい原理にもとづいて政府の依って立つ基盤を作り直し、またもっともふさわしい形に権力のありかを作り変えるのは、人民の権利である。」