被爆76年 被害者の立場を越えて 本島元長崎市長を想う 

わが父母の命を一瞬にして奪ったはずの米爆撃機が第一標的だった小倉への原爆投下を回避して1945年8月9日午前10時過ぎ長崎に向かった。1時間後に美しい歴史的商港都市は一瞬にして廃墟となり、街は地獄絵図と化した。

「長崎の犠牲の上に自分の命があるこの想いは思春期以来脳裏から離れない。米国の原爆開発着手(マンハッタン計画)から、1945年7月16日に独ポツダムで米ニューメキシコ州での核実験成功の報に小躍りしたというトルーマン米大統領の日本への投下指示に至る過程を知るにつけこの想いは深まった。詳しくはフロントページ記事「原爆不投下、わが命、日本の戦後 -はじめに」を参照されたい。

しかし1980年代から90年代にかけ長崎市長を務めた本島等氏の命を懸けた発言に原爆投下の意味について紋切り型の犠牲の感情を越えて考えるべきと覚醒させられた。

広島、長崎両市の1946年以降の平和宣言にすべて目を通してみた。

1990年代に入ると被害者の立場を越えようとの意思が見えてくる。「8月6日・9日」を語るにあたって加害にも言及すべきだとの機運が生じた。広島・長崎両市長は「宣言」で先の大戦での加害とその謝罪について言及し始めた。これを受けて、植民地支配や侵略戦争について配慮した平和資料館の展示再配置が行なわれている。1995年に開館した岡まさはる記念長崎平和資料館は、強制連行、戦時性暴力、日本軍の虐殺行為等に関するパネルや展示品によって埋め尽くされている。

特筆されるのは、昭和天皇容態悪化で日本中が自粛に包まれていた1988年12月に「昭和天皇に戦争責任はある」と市議会で稀に見る胆力のある発言を行い、右翼に銃撃された本島等・長崎市長(当時)の一連の言説だ。市長退任後の1998年7月29日のインタビューで「(原爆は)落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの十五年間にわたる)あまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」とまで語った。

さらに本島氏は「南京大虐殺、三光作戦、七三一部隊などは虐殺の極地。日本人の非人間性、野蛮さがでている」と述べた。

 

言語を絶する被爆の惨状、核兵器廃絶、核抑止論の否定など旧来の被害者の立場を越えて、これほど広い視野で被爆地から発言を続けた本島氏は稀有の人と言える。

この本島氏は市長就任後初の1981年長崎原爆記念日の平和宣言では冒頭、時の鈴木善幸首相にこう訴えた。

「廃墟の中、絶望と飢えに耐えながら、戦争放棄と永久の平和確立を誓った日 本国憲法の精神を思い起し、将来にわたって核兵器の廃絶、完全軍縮、恒久 平和を国是として積極的に外交を進め、決してどの国をも敵視しない国の方針 を打ち立ててください。」

40年後の今日、日本政府は核抑止論に与して米中冷戦に積極関与し、世界屈指の軍隊となった自衛隊は地球規模で米軍を補完している。「戦争放棄と永久の平和確立を誓った日 本国憲法の精神」は形骸化した。だが敗戦直後の廃墟の中、絶望と飢えに耐えながら生きた人々の大半は日本国憲法、とりわけ戦争の放棄と戦力の不保持を誓った9条を心から歓迎し支持した。後に自民党に転じた鈴木善幸氏はこの時社会党議員でありともに新憲法を前向きに受け入れたはずだ。その後自民党に移り、1980年に与党総裁となり、首相として初訪米した。その際、日米同盟という文言を米側に押し付けられ戸惑い苦悩する。鈴木首相(当時)は「同盟に軍事的意味はない」と発言して、ワシントンと日本の「日米安保(日米同盟)基軸派」に徹底的にバッシングされる。

本島市長の1981年平和宣言はその後の日米軍事一体化への警告であったとも言える。絶望と飢えにひしがれた人々に日本国憲法がいかに希望となったかを今一度想起すべきである。

ところで今年の長崎市平和宣言の日付は2021年(令和3年)8月9日、広島市の平和宣言は令和3年(2021年)8月6日。そして内閣総理大臣挨拶のそれは令和3年8月●日である。元号=天皇制に抵抗する長崎市の姿勢に本島スピリットの一端を垣間見た。