死者に鞭打たず、喪に服するのが人の道ー。2月1日の石原慎太郎の死去以来、日本の主流商業メディアは石原礼賛の追悼記事を掲載し続けている。一方、非商業ブログの世界では「障害者、在日朝鮮人をはじめ弱者を、低知能、三国人、シナ人、ババアなどと公然とためらいなく罵り、生者を鞭打ってきた者の死に服喪が要るのか」との怒りの声が湧き上がった。2月13日付朝日新聞朝刊に「(作家石原は)いくら小説を書いても現実は変わらないという無力感と苛立ち、それを変えたいという誠実な思いから政治の世界に向かった」とのインタビュー形式の評論記事が掲載された。評者は「寧猛な異物」「価値紊乱者」という倒錯した修辞で故人を称賛し、「文学者としてまっとうに評価されるべき」と結んだ。先日、記事「日独に彼我の差歴然」を掲載したが、数々の石原暴言は戦後ドイツの基準では政治家としては辞任を超え政界追放に、作家としては作品出版停止に値する。同時に1945年8月15日を機に聖戦完遂扇動から一転し民主主義礼賛へと転向して恥ず、今や二回目の転向へと進む朝日新聞は自主廃刊勧告に値する。以下、胎児性水俣病患者への「低IQ発言」に絞り、朝日記事を批判する。
【写真】チッソ工場からの排水停止を求めた1955年の水俣漁民暴動 1968年にようやく「水俣病の原因はチッソ水俣工場からの排水に含まれる有機水銀による中毒」と水俣病は公式認定。メチル水銀を含む排水完全停止は1966年だった。遅きに失した対応は政界、御用学者、財界の妨害、官僚らの不作為が複雑、重層的に絡んだ巨大な権力犯罪と言える。
水俣と対岸の天草の島々とに囲まれた不知火海。石牟礼道子の「苦海浄土」で描かれたこの凪いだ内海は豊饒の海である。会社(チッソ)が来るまでは…。住民の多くは早朝漁に出て魚を少々売り、午後は裏の畑を耕し僅かな柑橘類を栽培し自給自足に近い暮らしをしていた。その暮らしを貧しいとみるのか、豊かとみるのかは、人それぞれである。貧しいとみる層は資本制社会での高所得、大量消費、ブランド志向を至高のものとする富裕層に多いのは紛れもない事実である。問題はその類の富裕な人々が辺境の地の人々の素朴な暮らしに共感できないどころか、それをさげずむことだ。
敗戦から間もない1950年代半ば。裕福な家庭に育ち、湘南海岸一帯で奔放な性、酒、タバコ、博打に溺れる、アウトサイダーを気取った若者たちの姿を描いた石原の出世作「太陽の季節」。それは若くしてヨットを楽しみ湘南貴族となった石原慎太郎の世界=写真、右は裕次郎=と重なる。石牟礼の描く世界とは対極をなす。
石原慎太郎は環境庁長官だった1977年4月、水俣市の水俣病患者療養施設「明水園」を訪問した。自立を願っていた胎児性水俣病患者らは「仕事がしたい」と石原長官に直訴状を渡した。受け取った石原は「IQの低い人が書いたような字だ」と言い放った。さらに、地元水俣市や熊本県の保守層の声を代弁して「彼らの中には患者を装う偽患者がいる」、「患者団体は特定の政治党派と繋がっている」などと発言した。それを聞き、怒り狂った患者団体リーダーは当時の少女患者らとともに石原の宿泊していた熊本市内随一の高級ホテルに押しかけた。部屋に逃げ込もうとした石原をエレベーターの中で取り囲んだ。石原は激しく糾弾された。
詭弁を重ねて謝罪を拒んでいた石原はついに1978年1月、水俣現地に出向き、患者団体と水俣病患者への直接謝罪に追い込まれる。下の写真は石原が当時未成年だった胎児性水俣病患者たちに土下座して陳謝している場面だ。後にも先にも、石原が弱者を見下し、差別する暴言を非難されて土下座に追い込まれたのはこの時だけである。だが、彼は閣僚も議員も辞任しなかった。一貫して患者側に立っていた熊本大医学部助教授(当時)原田正純医師の仲介で、熊本出身の人気演歌歌手石川さゆりの公演へ胎児性患者を招待することで「和解」が演出された。
在勤20年足らずで自主退職した会社記者活動の中でも、この石原が起こした前代未聞の破廉恥な言葉と行動は不条理の最たるものである。今思い返しても怒りを超えて悲しみを覚える。
水俣事件後も石原は変わらなかった。1999年には東京都都知事として重度障害者の施設を訪問した。
その際、「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と記者団に語った。
これも大問題となり、彼は文学者としての発言と言い訳した。だが、都知事として視察したのであり、紛れもなく政治家としての発言だ。政治家としての大失態を文学者としての発言と言い繕う。厚顔無恥とはこのことだった。時代の空気は変化し、石原の暴言を「石原節」として受け入れるようになったのか、謝罪を免れた。
障害者、弱者の苦しみ、生まれ出ずる悲しみに共感しようとする能力がない。子どもの親たちが彼の言葉を聞いてどう悲嘆するかとの想像力も欠如している。
冒頭の朝日インタビュー評論記事に戻る。「誠実な思いから政治の世界に向かった」という評者は、水俣の一件だけでも想起すれば、政治家石原に「現実を変えたいとの誠実な思い」をどう見出すのか。「寧猛な異物」「価値紊乱者」という形容はあまりに虚ろ。読者を言葉の遊びで酔わすだけだ。部数激減による経営難の只中、多くの熱狂的なファンを支えにナチもどきの発言を繰り返す極右作家石原に取り入り、デジタル版を主力に巻き返すため購読者の底辺を広げようとする朝日新聞経営層の魂胆は見透いている。1945年から77年。第二の転向を図る”日本の良識”は速やかに自主廃刊せよと勧告したい。