象徴天皇制は自壊へ GHQと「小室真子」誕生

1947年5月3日に施行され主権在民を謳った日本国憲法の本文冒頭に無理やりくっ付けられた男子世襲の「象徴天皇」条項。74年半の歳月を経た今日、この奇形的な象徴天皇制は崩壊へと進み始めた感がある。それをはっきりと示したのが秋篠宮長女の結婚騒動である。「小室真子」誕生はアナクロニズムの塊といえる皇室のしがらみから解放され一市民として自由に生きたいと願う成年女子の真っ当な闘いの結果と言える。週刊誌を中心とした異様な小室バッシングは突き詰めれば「納税者である国民の理解が得られない結婚であるから許さない」となる。これにより、皇室の人々は現行憲法1条の「天皇皇室構成者)の地位は日本国民の総意に基く」との規定にさらに縛られることになった。現在の未婚の皇室メンバーは「その婚姻は納税者で主権者である国民に理解されない」とのクレームが出ることに神経を極度に尖らせていることだろう。ただ一人の未成年皇位継承者である秋篠宮長男が結婚に消極的になる可能性は大であり、さらには「世継ぎ出産」を強いられる秋篠宮長男との結婚に踏み切る女性はおいそれとは現れまい。1947年にGHQ指令で皇籍離脱した11の旧宮家の未婚男性の復位も極めて困難である。GHQは対日政策に象徴天皇制の自壊の種を組み込んでいたようだ。

■米国のための象徴天皇

日本占領にあたり政治的権限をまったく有しない象徴としてではあれ、なぜ米国は自由平等と民主主義に相容れない天皇制(君主制度)を温存したのか。それは天皇制を日本占領に最大限に役立てたかったからにすぎない。国内外の日本軍の武装解除を円滑に進め、日本の民衆に進駐する米軍への抵抗を抑制させるためには神として君臨した昭和天皇の権威を利用するのが最善と米国サイドは決めた。「象徴天皇制への道-大使グルーとその周辺-」の著者中村正則をはじめ研究者らが指摘しているように、それはポツダム宣言発表前に確定していた。

「天皇を日本占領にどう役立てたか」の詳細な点検はここでは省くが、当時の米国支配層による天皇制温存決定は連合国総司令部(GHQ)の対日占領政策の遂行を円滑化し、大いに役立ったのは間違いない。特筆すべきは、1951年の講和条約締結(日本独立)と並行して締結された日米安保条約と日本列島の反共軍事要塞化へのプロセスにおいて昭和天皇が新憲法の象徴天皇条項を踏みにじり大きな政治的役割を果たしたことだ。

【写真】1946年1月の人間宣言を受け、約8年にわたり「戦後巡幸」を始めた裕仁天皇。「巡幸」は、天皇自身や側近・政府の発案で始まったものではない。GHQ民間情報局(CIE)の初代局長、K・ダイクの提言がきっかけになったとされる。

 

1945年8月15日の玉音放送(終戦詔勅)から9月2日の東京湾での降伏調印を経て同27日に昭和天皇はダグラス・マッカーサーを訪れ初めて会見した。1947年に新憲法が施行され象徴天皇となって一切の政治に関与しないとされて以降も昭和天皇は少なくとも10回以上マッカーサーと会って戦後日本を規定した安保体制をマッカーサーに頼み込んでいた。さらには講和条約締結に向け1951年に来日したアイゼンハウアー米政権の国務長官となるジョン・ダレス特使とはマッカーサーの頭越しに面談している。

「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交ー」の著者・豊下楢彦は、日本の共産化による天皇制廃止を恐れる昭和天皇がマッカーサーとの非公式会談で「日本をソ連共産主義の脅威から守って欲しい」と直訴し、二重外交が行なわれていたと推測している。1947年以降の冷戦の本格化により、日本を対ソ軍事拠点化したい米国の利害と日米安保条約締結による日本の共産化阻止という昭和天皇一族とその周辺の利害は一致。「皇統の保持」は日本を永続的に米国の軍事属国化することへとつながった。

J・ロバーツらはこの間の事情を簡潔にこう書き記している。

「(1945年)当時のスイス公使、加瀬俊一は元駐日大使、J・グルーと同意見で、和平(講和条約締結)交渉の唯一の前提条件として、連合国が『日本の共産主義化を防ぐ唯一の切り札として、天皇制の保持』を認めるよう希望したと伝えられる。」(「軍隊なき占領(An occupation without troops)」)

上記「戦後巡幸」も急拡大する日本の共産主義勢力を抑え込む強力な手段として敗戦後も日本人に根付いたままの「天皇信仰」を最大限に活用しようとする連合国(米国)サイドの発案であった。

■天皇制の大衆化~「国民に寄り添う」

敗戦後の皇室はその存続に向け懸命な努力を強いられた。膨大な皇室財産は国庫に没収され、多くの傍系宮家は廃絶された。残ったのは天皇直系の宮家のみ。側室制度は論外となり、男系天皇の継続が難しくなるのは時間の問題であった。それでも昭和天皇は神として崇められた戦前の権威を一定程度維持しつつ人間宣言や国内巡幸により人間天皇としての新たなカリスマ性も得た。

【写真】2015年4月、西太平洋戦没者の碑」(ペリリュー島)に供花し礼拝する明仁天皇夫妻

 

しかしながら、戦後育ちの皇位継承者は困難な立場に置かれる。憲法に明文化されているその役割は国事行為のみ。息子の明仁(平成)天皇が生前退位の意思を表明した際に「象徴としての在り方の模索を続けた」と打ち明けたように、国民の総意によるその地位の承認を一から獲得せねばならなかったからだ。だから「国民に寄り添う」をキャッチフレーズに被災地訪問と戦没者慰霊の旅を続け、平民と結婚して天皇制を大衆化し、戦後民主主義と「共存」させようと試みたのだ。

現憲法の天皇条項は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民総意に基く。」「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」に続き、第3条天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認 第4条 天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任 第5条 摂政 第6条 天皇の任命権 第7条 天皇の国事行為 第8条 皇室の財産授受で構成されている。

繰り返すが、象徴天皇のなすべきことは、明文上は憲法第7条に定められた「内閣の助言と承認により、国民のために、国事に関する行為を行ふ」ことだけである。国事行為とは、憲法改正、法律、政令及び条約の公布、国会の召集、衆議院解散、総選挙の施行の公示、国務大臣及びその他の官吏の任免、大使及び公使の信任状の認証など形だけのものだ。GHQは天皇に内実のない名ばかりの「公務」を敢えて作ってあげたのである。

■呪縛となった「国民の理解」

憲法条文をどうほじくり返しても明仁天皇の模索した「象徴としての公務」は出てこない。被災地訪問や戦没者慰霊の旅などの活動はそれが「国民の理解と総意」に基づいてのみ「象徴としての公的活動」として正当化される。「国民のためになる」と世論が理解して受け入れてくれることが唯一の頼みとなる。上記憲法第7条の国事行為ですら「国民のために」と念を押されているのだ。生前退位に当たり、平成天皇の口から「国民に心から感謝」との言葉が発せられた。詰まるところ、皇室メンバーは国民に頭を下げて理解を請う」姿勢を求められている。彼らにとって「国民の理解と総意」は呪縛にすらなった。

バッシングされ続けた小室さんと秋篠宮長女との婚姻はこのような「国民の理解と総意」を唯一の支えとする象徴天皇制維持にとって大変な難事となった。「多くの人の理解」「国民の総意」とはメディアによって作られた世論であり、曖昧な実体のないものだ。しかし皇室サイドは、この世論を考慮して一切の公式婚礼行事の中止や一時金辞退により象徴天皇制の自壊進行を阻止するところまで追い詰められた。一方、戦後教育の成果を体現したような小室さんカップルは、象徴天皇制維持の重圧に屈して自分たちの人生を犠牲にするわけにはいかなかったのであろう。

天皇制を日本占領に役立てることを最重視したGHQ幹部らが生きていれば、「大衆化した今日の皇室の存続危機到来は当然な流れ」と思うのではなかろうか。