フィリピンはトランプの東アジア政策の試金石 マルコス再追放は可能か

米国にとって日本と並ぶ中国封じ込めの要フィリピンの政治がマルコス現大統領派とドゥテルテ前大統領派の対立で大混乱に陥っている。マルコス政権がドゥテルテ前大統領を国際刑事裁判所麻薬対策の殺人に絡み逮捕させハーグに移送したからだ。長女のサラ・ドゥテルテ副大統領に対しては弾劾訴追へと動いている。背後にトランプの敵、米ネオコンがいるのは明白。そもそも40年前に国外追放されたマルコス一族に大統領選挙への立候補資格はないとの声も根強くあった。また獄中からダバオ市長選に立候補した前大統領が圧勝し、ドゥテルテ前大統領派は勢いづいている。このフィリピンの事態に米政権がどう動くか。今後の米国の対中、東アジア政策の試金石となる。トランプの動き次第では、マルコス再追放もあり得る。

以下は岩波書店の月刊誌「世界」に寄稿した論考2本と本ブログ掲載記事(岸田、マルコス訪米で動くドゥテルテ陣営)の計3本。この四半世紀、南シナ海領有権を巡り中国と紛糾してきたフィリピンは日本の南西諸島軍事要塞化、集団的自衛権行使容認・新安保法制制定とパラレルに動いており、ネオコンが反米親中露へと舵を切ったドゥテルテ派をどうしても追放したいことを理解できる。

 

習近平、ドゥテルテの結束で綻びる日米の中国包囲網  ~中比軍事連携と新安保法制

米・日・比の対中軍事連携阻止へ 岸田、マルコス訪米で動くドゥテル前比大統領陣営

グアム移転見直しで浮上する米軍のフィリピン回帰  基地撤収後の日米比関係

2012-06

■はじめに━水面へ浮上

 フィリピン上院が1991年に米軍基地存続を図る米比友好安全保障条約の批准を拒否して、植民地時代から1世紀近く駐留した在比米軍は翌年末までに全面撤退した。だが、米政府は撤収と同時に水面下で米軍再駐留への画策に着手し、10年後の米同時多発テロ(9・11)を契機にこれを実現した。続いて在日米軍再編に関わり、2006年の日米最終合意の際、日米比3国が沖縄駐留米海兵隊のグアム移転の一部をフィリピンに肩代わりさせると“密約”した疑いがあった。

 

 2012年初来、米有力紙の報道を皮切りに、日米メディアでグアム移転の代替地候補としてフィリピンの名が挙がっている。首都マニラ北方のスービック旧海軍基地の再利用も報じられ、フィリピンへの米軍再駐留問題はようやく水面へと浮上した。同時に、日米両政府は沖縄からグアムへ移転する予定だった約8千人の米海兵隊員の半数弱をオーストラリア、ハワイとともに、フィリピンへと分散移転することを公式に認めた。

 

 だが、独裁者マルコスを追放した翌1987年、当時のコラソン・アキノ政権はフィリピン民主化の象徴として新憲法を制定し、「条約があれば可能」との例外規定を付けながらも外国軍駐留を原則禁止とした。今日まで改憲も、新たな基地条約の批准もなかった。だが米軍は10年前に再駐留を果たした。詐欺まがいのトリックと詭弁が重ねられた結果である。“根拠なき駐留”は、今日では中国の脅威、米国の財政窮迫、はては東日本大震災までを口実に促進されている。

 

ワシントンポストの"特報"

 米政府は2001年末、米同時多発テロ(9・11)を首謀したアルカイダと結び、比南部ミンダナオ地方を拠点とするイスラム過激派アブサヤフの掃討を名目に、アフガニスタンに続く対テロ戦争第2弾の場としてフィリピンを選択し、長期合同軍事演習を実施した。それは米軍の比回帰にとって千載一遇の好機であったからだ。

 

 2002年2月から半年間に及ぶ、実戦そのものだったフィリピン国軍との対テロ訓練・合同演習に参加した米軍の主力は沖縄駐留の海兵隊員だった。これを契機に在沖米軍の比移駐が移動訓練名目で密かに進行した。これは非公式ながら06年にいったん最終合意された在日米軍再編の一環となった。ただし、オバマ現政権は「フィリピン駐留米軍は陸軍特殊部隊の約600人」と公表している。だが、実際の駐留将兵数は少なくともこの数倍に達している。

 

 このような経緯の下、米ワシントンポスト紙が1月26日付で「フィリピン、中国の台頭に抗し、米軍のプレゼンス拡大を容認か(Philippines may allow greater U.S. military presence in reaction to China’s rise)」との見出しの記事を掲載し、米軍のフィリピン駐留規模拡大と旧スービック海軍基地再利用問題に関する政府関係者からのリークを"特ダネ"として報じた。

 

 記事の骨子は2012年3月中にワシントンで米比両国が国務長官・外相、国防長官・国防相級会合(2プラス2)を開き、軍拡を進める中国をけん制する目的で、フィリピンでの米軍のプレゼンス拡大を討議するとの内容である。豊富な石油資源の埋蔵が見込まれているため、中国が東南アジア諸国、とりわけフィリピン、ベトナムと領有権を巡り、武力行使を伴った深刻な紛争を引き起こしている南シナ海を外海とするスービック港への米艦船の寄港頻度の増大と米軍部隊の実質常駐が主な議題になる見通しと報じた。

 

ポスト紙の記事は①米政府は比憲法の外国軍駐留禁止条項を尊重する②米軍将兵の比滞在は期間限定となるが、ローテーション派遣なので長期滞在は可能③米政府は財政上の制約から東南アジアや豪州の既存基地の有効活用を図る━など主な情報源とみられる米国務省、ペンタゴンのこれまでの公式見解から一歩も出ていなかった。

 

 唯一の例外はフィリピン以上に反中意識の高まりをみせているベトナムを機に乗じて取り込もうとする米国の動きであった。具体的には①ベトナムは09年から米艦船の補修を請け負い始めた②ペンタゴンが米軍基地化に執念を燃やし続けた旧ソ連海軍基地カムラン湾への米軍艦船の入港が11年、38年ぶりに実現した━と報じて、将来、米軍による旧カムラン基地の本格利用に道が開ける可能性を示唆した件である。

 

 ベトナムと隣接する海南島南部の三亜には中国海軍の原潜基地が設けられ、さらに空母基地設置も計画中と伝えられる。スービック港に続き、カムラン港が米軍の拠点となれば、南シナ海及び西太平洋地域における中国海軍の活動への決定的な抑止力となる。

 

■米比首脳会談で決着へ

一方、ロサリオ比外相は同年2月末、「米比両政府は4月30日に「2+2」会合をワシントンで開く」と語った。会合後、①米国がフィリピンの南シナ海における領海や排他的経済水域の保全、公海域での航行の自由確保のために軍事支援を行う②比軍は恒常的に南シナ海の自国領海や公海上で米軍と合同訓練を実施する③このため米将兵のローテンションでの比滞在を認め、これに必要な便宜を供与する━との趣旨の共同声明が発表される見通しだ。6月初めまでにはアキノ大統領が訪米し、オバマ大統領と最終合意する。

 

だが、比政府筋は「米将兵の滞在先は中国海軍との領有権問題をめぐる軍事緊張が高まるばかりの南シナ海に直接面した比最西端のパラワン島となる」と明かした。確かに、南シナ海・南沙諸島に近隣する同島西方沖で近年、米比両軍は頻繁に合同軍事演習を実施している。しかし、同島にはまともな軍事施設はない。米比両政府が当面“米軍はパラワン島に滞在”で押し通し、スービックを実質拠点とする方策を選んだのは、一端撤収させた旧米軍海軍基地の再使用が内外で論議となるのを回避するためである。

 

■米財政危機と国防費削減

 「米国統合参謀本部議長マイケル・マレン大将は、米国の国家安全保障にとって何が最大の脅威だと思うかと聞かれて、連邦政府の赤字だと答えた」(2011年7月25日付英フィナンシャル・タイムズ電子版)。

 

 危機的な水準に達した米国の財政赤字は、世界の総軍事支出の半分を占めるまでに膨らんだ米国の軍事費の大幅削減を余儀なくしている。米議会は今後10年間で最低4900億ドルの国防予算の削減を決めた。マレン議長(当時)の発言は「経済力の衰退が世界における米国の覇権維持を揺るがしている」との危機感を軍部が共有していることを率直に示した。

 

軍事費に大ナタを振るわれ、世界中に展開している兵力が削減される中、米国は単独覇権の維持に血眼になっている。オバマ政権は過去10年間で国防費を年間7千億ドル超へと倍増させたアフガニスタンとイラクに駐留する米軍の撤収を進め、中国の著しい台頭への対抗を示唆しつつ、アジア・太平洋地域最重視を繰り返し唱えている。だが、この最重点地域でもできる限り、経費は絞り込まねばならない。このためには同盟国を可能な限り多く束ねて、応分に費用負担をさせる集団安保体制の構築が不可欠となる。

 

この姿勢を象徴するのが太平洋の西端で南北に連なる形で位置する、日本、フィリピン、オーストラリアの3カ国間で相互に軍事提携を強化させ、中国の太平洋進出への“南北の盾”として機能させる米国の戦略である。日本は05年からフィリピンと安全保障に関する次官級政策協議の年次開催を継続、07年にはオーストラリアと日豪安保協力宣言に署名した。11年11月にオバマ米大統領が訪豪した際、米海兵隊の駐留を発表した豪北部準州ダーウィンの周辺域で、自衛隊は親善訪問の名の下、豪軍と年次演習を続けている。豪比は07年に訪問豪軍地位協定(SOFA)を締結、南シナ海周縁海域で合同演習を頻繁に実施中だ。

 

米国は豪州に続き日本と08年に安保協力宣言に調印したインドをこの〝盾”に組み入れた。2007年にはインド洋ベンガル湾で米印に日本、オーストラリア、シンガポールが加わりインド洋では史上最大となった合同演習を繰り広げ、ミャンマー、パキスタンのインド洋域に軍事拠点を設けた中国をけん制。翌08年には東シナ海や日本の房総沖でも米日印が合同演習を行った。南シナ海での軍事緊張がピークに達した2011年半ばには米日豪がブルネイ沖で大掛かりな演習を実施したのは記憶に新しい。

 

こんな中、米軍はフィリピンを戦略的にどう位置づけ、どのように軍事的に利用しょうとしているのか。この問いに端的に答えたのが10年11月にメルボルンで開かれた米豪外務・国防相会議での米国防長官の次のような発言だった。

 

「ゲーツ国防長官は『われわれはアジア太平洋地域に新たな基地を求めることには関心がない。むしろ、同地域における米軍のプレゼンスを強化するために、既存基地の使用をどのように強化するのに着目している』と述べている」(11年8月8日付沖縄タイムズ)。

 

■温存された軍港スービック

 スービック湾は外海である南シナ海につながる湾口から湾奥への形状が広大な長方形型をなし、水深は平均30メートルレベルを保つ。1990年に米比政府間で始まった在比基地存続のための新条約締結交渉において、米側はこの軍港として最高の条件を備えたスービック海軍基地だけは“死守”しようとした。

 

 基地撤収後、約5万ヘクタールに及ぶ広大な敷地は比大統領府直轄のスービック湾開発庁 (SBMA)の管理下に置かれた。自由港・経済特別区へと転用するためのインフラ整備に日本政府はクラーク旧基地と合わせ、多額な政府開発援助(ODA)資金を投じた。そのひとつが最新のコンテナ港建設だった。スービック湾を後背地から眺めてみると興味深い。新港とコンテナヤードは湾南東の高台にあるスービック空港(旧キュービポイント海軍航空基地)の西側海域を埋め立てて造成され、湾最奥部にある旧海軍港湾施設はまったく形を変えずに保存されていることに気づく。

 

 比国軍筋によると、基地撤収前に米国は比政府に軍用施設の保存を約束させた。9・11後、当時のWブッシュ政権は10年間温存されてきたスービックの艦船補修施設を東アジア地域での軍用艦補修の拠点として活用し始めた。そして副大統領チェイニーが就任直前まで最高責任者だったハリバートン社傘下のケロッグ・ブラウン&ルート社(KBR)がWブッシュ政権末期に旧軍港施設の管理・運営権を買い取った。SBMAによると、買収時には世界12カ国の軍用艦が旧米軍補修ドックを利用していた。

 

 KBRが買い取るまではラモス元大統領に近いとみられる華僑系フィリピン人が〝ダミー会社”を設立し、SBMAと50年間の賃貸契約を結んで軍港スービックを保存していた。

■米議員、スービック再駐留を要求

 日本も財政破綻の瀬戸際にある。11年3月11日に発生した東日本大震災は日本政府にさらなる赤字国債依存の財政運営を強いて、歳出の大幅見直しは必至となった。こんな中、米国の国防予算削減の権限を持つ米議会が日本の震災発生を受ける形で、同年4月下旬にフィリピンと日本にそれぞれ2人の有力上院議員を送り込んだ。複数の比関係者によると、フィリピンでは米議員が「日本は在日米軍再編を賄う財政余力を失った。在沖米海兵遠征部隊の旧米軍基地スービックへの移駐を引き受けて欲しい」と要請、比政府はこれを内諾した。

 

 だが、脚光を浴びたのはカール・レビン上院軍事委員会委員長(民主)とジム・ウェッブ同外交委員会東アジア太平洋小委員長(民主)の訪日だけだった。2議員は北澤防衛相(当時)や松本外相(同)らと会談、沖縄現地を訪問して帰国後、ジョン・マケイン上院軍事委員会共和党筆頭委員とともに5月11日、連名で普天間飛行場移設計画を「非現実的で、実行不可能で、財政的に負担困難」とこき下ろし、普天間基地を嘉手納基地へと統合する案を提起した。日本のメディアは3議員の提案を大々的に報じたものの、連動していたフィリピンでの出来事の重要性にはまるで無頓着だった。

 

普天間基地は閉鎖の展望が開けず、固定化必至の声が出ている。沖縄県知事は辺野古移転に必要な海面埋め立て認可拒否の姿勢を打ち出し、「普天間の移設は県外か国外へ」が沖縄の不動の民意となった。過去幾度か提案されては頓挫してきた嘉手納基地への統合に実現の見込みはない。

 

こんな中、フィリピンを訪問したのは、米上院で事実上最高位の議長代行の地位にあるダニエル・イノウエ議員(民主)とサッド・コクラン議員(共和)だった。2人は政府が要求した在沖海兵隊グアム移転費約1億5000万ドルを全額削除した2012会計年度(11年10月~129月)軍事建設等歳出法案を全会一致で可決した上院歳出委員会の委員長と副委員長で、日本を訪れた2議員より格上だった。

 

■カムバック米軍!

米国側からの強い圧力で、比大統領府をはじめ関係機関は訪問した米議員との接触を地元メディアに許さなかった。このため、2議員の滞在中の発言は一切公表されていない。有力紙のフィリピン・デイリー・インクワイアラー(PDI)だけが「米軍のスービック回帰は可能 グアム移駐遅延(Return of US forces to Subic possible US military build-up in Guam delayed)」との見出しを付け、両議員が旧米海軍基地スービックを視察した際に接触した人物や比政府関係者からの聞き取りをまとめた記事を掲載した。

 

 以下、同紙の11年4月28日付記事を筆者の現地での取材データで補足しつつ、2議員のフィリピンでの動きを追ってみる。

 

 イノウエ、コクラン両議員は4月26日、米政府機でスービック空港に到着した。エコゾーンの開発、管理、運営を担当しているスービック開発庁(SBMA)と地元サンバレス州オロンガポ市長らが両議員を出迎え、歓迎昼食会で2時間近く懇談した。

 

 昼食会へ出席した人物は匿名を条件に、「米国の両議員は米軍のプレゼンス拡大の可能性を探っていた。米軍が使用できるスービックの施設は港湾、空港ともに20年前の撤収時のままの状態で保持されている。現在、訪問米軍地位協定(VFA)に基づき米軍はスービックを拠点にフィリピン国軍と頻繁に合同訓練を行っており、当地でのプレゼンスを拡大する余地は十分にある」と語った。

 

 東日本大震災が発生すると、米国務省と国防総省は直ちにハリー・トーマス駐比大使をスービックへ赴かせ、スービック自由港・経済特区の管理者であるSBMA長官に対し、日本を襲った大災害が沖縄駐留の米海兵部隊のグアム移転計画に深刻な影響を与えたことを説明させた。1ヵ月後の米上院議員訪問の“露払い”となった、この米大使のスービック訪問もメディアには一切公表されなかった。

 

 スービック港の地元オロンガポ市長ジェームス・ゴードンが米上院議員の訪問に絡めて歯に衣着せぬ発言をした。同市長は「日本での大災害発生は沖縄駐留の米海兵部隊が移転を予定しているグアムでの軍事施設建設・インフラ整備の縮小を強いることになった。米軍が再びスービックを利用するのは可能だ。われわれは米軍の回帰を歓迎する。フリーポート・エコゾーンの運営と米軍へのサポートサービスは両立できる」と述べて、現地を訪問した米有力議員がグアム移転予定の在日米海兵遠征部隊の一部をスービックへと移駐させたいと比政府に要請したことを示唆した。

 

 現市長の実兄リチャード・ゴードンは前上院議員で、2010年フィリピン大統領選挙に立候補し落選したものの、比政界の実力者である。1991年の新基地条約批准をめぐってはスービック基地の地元市長として批准を支持する全国運動を主導した筋金入りの親米派として知られる。また、2002年以降、沖縄駐留の米海兵隊を移動訓練の名目でフィリピンへの移駐を促すにあたり、沖縄にまで足を運ぶなどアロヨ前政権の閣僚として重要な役割を果たした。現市長の断定的な言い回しは比政府中枢のみならず、米政界にもネットワークを持つ実兄から確かな情報を得て出てきたとみて大過ない。

 

 また、外資系企業の就労者には「確かに、基地撤収後のエコゾーン設置で雇用者数は倍増した。だが、労働条件は3カ月毎に契約更新される日雇いが大半で、日当は交通費込みで250ペソ(日本円で約500円)程度と劣悪極まる。ミリタリーサービスでの雇用増が賃金をベースアップし、エコゾーン就労者の利益にもなる」と米軍回帰を歓迎する声も少なくない。

 

イノウエ、コクラン両議員は当然ながら、アキノ大統領、エンリレ上院議長、ロサリオ外相、カズミン国防相らフィリピンの政府、議会トップや関係閣僚と会談した。

 

米議員のカウンターパートだった比政界の重鎮ポンセ・エンリレ上院議長は05年9月に筆者との単独インタビューに応じ、「在沖米軍の比移駐について法的に問題はない」と明言し、さらに「米国との軍事協力促進のため、現憲法が定める非核条項の見直しは有りうる」と述べている。同議長はマルコス政権で戒厳令を布く2年前から計25年間も国防相を務めた末、ラモス国軍参謀次長(当時)とともに1986年のマルコス追放を主導し、「今はベニグノ・アキノ大統領を後見している」(比有力紙記者)大物だ。

 

■回帰への道筋と背景

撤退から現在に至るまでの米軍のフィリピン回帰の流れをごく大雑把に見ると、現在、それは3つの期間に分類できる。

 

1期目となる1992年から2001年までの動きはほとんど水面下でなされた。この時期はマルコス追放後のフィリピン社会の民主化・改革を担ったコラソン・アキノ政権を後継したラモス政権とほぼ重なる。米軍回帰の礎を築いた同政権は米軍基地の完全撤収と同じ年の6月に発足した。一方、在比米軍基地撤収に照準を合わせたかのように、中国は同年2月から領海法(中華人民共和国領海および接続水域法)を施行し、石油・天然ガスの宝庫とされる南沙諸島など南シナ海の領有権をほぼ独占しょうとする動きに出た。

 

このような中国の強引な手法への警戒感が南シナ海の部分的領有権を主張するフィリピン、ベトナム、ブルネイ、マレーシアといった東南アジア諸国を中心ににわかに高まった。米陸軍士官学校(ウエストポント)卒で米政界と太いパイプを築いていたラモスは大統領就任後初の東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議で「在比米軍基地撤収による東南アジア地域での軍事的空白」を強く訴えた。対米軍事関係の再編成を目指したラモス政権は任期末に「訪問米軍の地位に関する協定(VFA)」の締結を果たす。

 

9・11がフィリピンへの米軍回帰の動きを一気に表面に浮上させた。2002年2月から始まった比南部での「テロとの戦い」で回帰への動きは2期目に入った。

 

半年間に及んだ米比合同演習が実施された比南部ミンダナオ地方の自治体首長らは米軍駐留を歓迎する意向を相次いで表明。イスラム教徒の支配的居住域であるミンダナオ地方中西部と「基地の整理・縮小」を求める沖縄とが補完しあえると判断した日米両政府は比政府から「沖縄駐留米兵のフィリピンでの移動訓練は可能」との言質を取りつけ、在日米軍再編の一環として隠密裏に沖縄からフィリピンへの米軍移駐が進められることとなった。

 

2011年には中国とフィリピン、ベトナムとの間で相次いだ漁船の拿捕、資源探査船への妨害などをきっかけに南シナ海をめぐる軍事緊張がかつてなく高まった。比政府はベトナム、日本と首脳外交を展開して両国との軍事連携を強化しつつ、米国の軍事力への依存を著しく深めた。これを機に米軍回帰は3期目に入った。

 

フィリピン人は基本的に親米である。20年前の米軍撤退は一握りの筋金入りの左派が反マルコス独裁運動の盛り上がりに乗じて、自主独立・反米の機運を醸成してポピュリスト政治家を一時的に“舞いあがらせた”結果と見ることも可能だ。

 

実利的には、国民の大多数を占める貧困層は1千万人近いOFWと呼ばれる海外で就労する家族からの送金で日々の生活を維持している。最大の就労先は米国であり、依然根強い比庶民の米国への憧れを知る米当局は「フィリピンを取り込む」ためにもOFWを優先して受け入れ続けている。

 

■再駐留のからくり

1期目の1998年2月に調印された「訪問米軍の地位に関する協定(VFA, Visiting Forces Agreement)」は翌年5月にフィリピン上院で賛成18対反対5で批准された。これにより、比独立後の1947年に締結された米比基地協定の失効により途絶えていた米艦船の寄港、合同演習・訓練の実施、有事の際の共同行動、艦船や軍用機の補修など滞在する米軍への物品・役務・施設の提供が可能となった。

 

合同演習・訓練に関する期間の取決めが米側にトリックを演じさせた。VFA条項では明文化を避けたが、米比両政府は訓練実施期間を最長6カ月と決めた。このため、米比合同演習「バリカタン02-1」は半年間にわたり実施された。さらに両政府は「訓練終了後、1日の間隔をおけば合同演習・訓練は再開可能」と取り決めた。つまり、「1日中断されて部隊が交代するので、常駐とはならない」との詭弁を弄して、米軍は「バリカタン02-1」終了後も公表数で約400人の将兵を残留させた。

 

その後、沖縄で在日米海兵隊を取材したら、多くの米兵がハワイ、グアムなどからほぼ半年毎のローテーションで滞在していた。つまり、VFAの定める合同演習に参加する米将兵はローテーションで沖縄に移駐する将兵と同じ行動を取ればよいことになる。VFAにおける演習期限6カ月の取決めは、常駐のための“抜け穴”だった。

 

02年の長期合同演習終了後、VFAを補完する目的で、演習活動に不可欠な物資、施設、役務の相互提供義務を補強する米比相互補給支援協定(MLSA)が米比両政府間の行政協定として締結された。「バリカタン」実施中、米工兵隊はアブサヤフの本拠バシラン島に空港、港湾、道路・橋梁、通信施設など軍事関連インフラを新設したが、MLSA締結で演習終了後の撤去を免れ、米軍はこれら施設を半恒久的に利用できることになった。

 

さらに米政府は06年4月、比政府と安全保障関与協議会協定(SEBA、Security Engagement Board Agreement)を締結した。協定は米比双方の国防・軍事に携わる政府関係者で構成する安全保障関与協議会(SEB)の設置を定めた。SEBはテロ対策を中心に国際犯罪、災害など広範な安全保障問題に共同で対処するとの名目で設けられたが、その目的は比共産党の軍事部門、新人民軍(NPA)ゲリラやイスラム教徒テロリストの掃討に加え、反米的とみなされる人物の根絶やしを図ることにあった。

 

この協定は米国防総省、米中央情報局(CIA)、米軍特殊作戦部隊(SOF)による比国軍への一層の介入を促し、アロヨ前政権下で異様なまでに頻発した政治虐殺に深く関与している。しかも、比政府はVFAを除き、MLSA、SEBAともに議会の批准を避け行政協定とし、米政府はVFAをはじめすべてを行政協定として扱っている。

 

このように強引に米軍回帰の条件は整備されて行った。移動訓練と別称されていたフィリピンでの米比合同演習はやがて移転訓練と改称され、再駐留を果たした米軍は単独演習や軍事活動に踏み切っている。

 

■安上がり駐留

 1946年の独立後、フィリピン政府は軍事・経済援助の名の下に米国から基地“使用料”を受け取ってきた。また在比基地は弱小国フィリピンの対米交渉での唯一の切り札だった。特に、長期独裁となったマルコス政権がこのカードを巧みに駆使したため、ベトナム戦争や対ソ冷戦の激化した1960年代末から80年代にかけ財政赤字拡大に悩まされていた歴代米政権に頭痛の種を与え続けた。

 

 現在の米国のかつてない危機的な財政事情を考慮すれば、VFAに基づく合同演習を名目とした米軍の実質駐留は基地使用料の負担から解放された理想的な対比軍事関係である。今や反米ムードは社会の表面からは消え去り、その反感と嫌悪は南シナ海のフィリピン領海や排他的経済水域(EEZ)を国内領海法に依拠して自国領と主張し、侵犯と比船舶への威嚇を繰り返す中国へと向けられている。

 

 10年6月に発足したベニグノ・アキノ3世政権は11年前半に頻発した南沙諸島周辺海域での中国艦船による比人漁師らの大量拿捕や各種船舶への武力威嚇を機に米国への軍事依存を公然と唱え始めた。そして南シナ海の名称を西フィリピン海(West Philippine See)へと変更した。同年11月にフィリピンを訪問し、米比間の一層の軍事協力緊密化をうたった「マニラ宣言」に署名したクリントン米国務長官は記者会見の場で"西フィリピン海”を多用し、「米国はフィリピンの領海権益と航行の自由を断固擁護する」と誓った。

 

 こんな状況の下、スービックへの回帰は米軍の東アジア地域での前方展開とって戦略的に大きな意義があり、財政的には極めて安価となった。しかも比政財界に歓迎されている。残された課題はさらに時間をかけて、これに反発する反米・左派勢力を掃討して、比社会の絶対多数を米軍スービック再駐留の黙認あるいは容認へと導くこととなった。

 

■在沖米軍の比移駐を巡る闇

 2011年末の段階で、日本では普天間基地閉鎖と辺野古への新基地建設による移設はとっくに不可能となっていた。またこれとパッケージとされていた沖縄駐留の約8千人の米海兵遠征部隊のグアム移転が計画通り実現すると考える者も皆無といえた。米議会11年12月、海兵隊のグアム移転費を認めなかったことがすべてを物語ったためだ。

 

 就任当初、「国外、少なくとも県外へ移設する」と発言し、自民党政権下での日米合意を覆した鳩山由起夫元首相の脳裏には口外できないスービックの名が間違いなく浮かんでいたはずだ。なぜなら2009年の政権交代で民主党と連立した国民新党の下地幹夫幹事長(衆議院議員・沖縄選出)こそ在沖米軍の比移駐に10年近く直接関与してきた“仲介人”であり、筆者はマニラで接触を重ねた同氏の背後にワシントンの影を感じ続けた。

 

フィリピンでは上院議員時代に米軍を追放した「12人の英雄」のひとりだったエストラダは2001年1月末、違法賭博、略奪罪などに問われ僅か2年半で大統領の座を追われた。これを仕掛けたのは米政権と組んだラモスであった。エストラダ追放後、副大統領グロリア・アロヨが大統領に昇格した。

 

比憲法は大統領の任期を1期6年とし、再選を禁じている。だが、任期半ばで辞任した前職を継承したアロヨには04年の大統領選出馬が可能だった。強力な対立候補の出現で、劣勢が予想されていたアロヨにとって在沖米軍の移駐がもたらす利権は選挙資金を大いに潤したのか、二つ返事で「沖縄駐留米軍のフィリピン受け入れ」を引き受けた。そのアロヨは現在、前任者に続き、不正選挙の罪に問われ獄中にある。

 

 一方、ラモスの側近中の側近で「懐刀」と言われたデ・ベネシア下院議長(当時)が02年9月に沖縄を訪ね、稲嶺恵一知事(同)と面談し翌年9月の知事訪比を決めた。

 

稲嶺知事訪比に同行した沖縄県元幹部は筆者の取材に対して、「滞在中、密約も幾つか交わされた。国だけでなく、県も公にできない資金を準備し、仲介役のフィリピン企業に便宜供与しなければならなかった」と語り、地元沖縄からも比政界に裏金が流れたことを認めた。

 

■普天間を待つ?スービック空港

 スービック湾南東部の高台に3000メートル級の滑走路1本を有する旧米海軍航空基地はスービック国際空港へと衣替えした。米国の航空貨物輸送大手フェデラルエクスプレス(FedEx)がアジアの拠点として利用したほか、台湾系民間航空会社も定期便を就航させた。ところが、09年にFedExのクラーク空港への移転が終わり、スービック空港は一時閉鎖状態となった。

 

 9・11後、当時のアロヨ政権はマニラ空港を補完する国際空港として3千メートル超の滑走路を2本有する旧米空軍基地のクラーク空港を再開発した。FedExはクラークへの移転を漸次進めると同時に、アジア地域のハブを中国・広州へと移した。それまでにスービック空港を利用していた旅客航空会社も運航を停止した。

 

 10年当時のSBMA長官は地元記者に「スービック空港はがらんどうとなってしまった。今後は補給・補修拠点として利用すべく投資を促す」と語った(同年1月26日付マニラ・ブリティン電子版)。実際、同年12月にはグアムを拠点とする航空機収納・補修を主業務とする米系会社が進出した。また、比民間旅客航空2社が定期便を就航させた。

 

 旧知のSBMA幹部は筆者の電話取材に対し「米系企業はグアムで米軍用機のメインテナンスも行っている。つまり、スービック空港はいつでも軍用に再転換できるということだ。民間旅客航空会社はダミーとして進出した。米軍が空港を使用するようになればすぐに撤退する」と明かした。

 

 近い将来、米軍が合同訓練を口実にスービック空港に常駐し、駐屯する米軍将兵がグアムに移転する予定だった米海兵部隊の一部となる見通しは大である。しかし、最大の焦点は同空港が普天間基地の機能を丸ごと肩代わりする可能性である。これはまだ闇の中だ。

 

■基地再利用を拒否 即更迭

 米国が露骨に「フィリピンの旧米軍基地の再利用」を求めるようになったのは好戦的な新保守主義者(ネオコン)に牛耳られたWブッシュ政権が発足して間もなくのことだった。

 

 2003年10月半ば、Wブッシュ大統領がタイ・バンコクでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)サミットへの出席の途上、マニラに立ち寄り、特定比産品への特恵関税適用や軍需産業育成とそのための研究・開発資金を付与できる非北大西洋条約機構主要同盟国の地位を付与した。狙いはスービック、クラークの旧米軍基地の再利用のため""を与えることだった。

 

 その2ヶ月ほど前、マニラ湾を臨む比外務省本館に米国防総省からの使節団一行が姿を見せた。議題は「米比2国間で締結した訪問米軍の地位に関する協定(VFA)の運用について」で、13人の団員を率いたのは元米陸軍大将のロバート・セネワルド米国防大学教授(当時)、一行を迎えたのはアマルド・バルデス同省次官(同)。秘密協議であった。

 

 比大統領府VFA委員会の事務局長を兼任していた同次官は米国使節団の意図を知り抜いていた。一行と事前に接触していた部下から「代表団はフィリピンの旧米軍基地の再利用を打診しにきた。主な理由として日本、韓国両国民の米軍駐留に対する反感、特に沖縄住民の強い反基地感情を挙げた」との報告を受けていたからだ。「米側はVFAを〝金科玉条”として米軍が完全撤退した1992年以前の状態への復旧を迫ってくる」と同次官は読んだ。

 

 バルデス氏の後日談よると、セネワルド団長は「VFAに基づいてフィリピンでの米軍の活動を可能な限り高いレベルに引き上げたい」と切り出した。同氏はずばり「それは旧米軍基地を再利用したいということか」と切り返した。代表団のメンバーは返答に窮し、苦笑が漏れてきた。

 

 バルデス氏は声高にまくし立てた。

 

「歴史的な経緯を真摯に振り返ってみよう。そもそも比米関係やわが国経済の歪みの根源は米軍基地の存在によってもたらされてきた。米軍基地の撤収はフィリピンの真の独立の第一歩だった。時計の針は逆転できない」

 

「言うまでもなく、VFAによって米軍はわが国に駐屯できない。常駐は違憲であるし、現憲法の非核条項や反核法は核兵器持ち込みを禁じている。私は現在のVFAの運用自体を違憲と考えているので、これ以上高いレベルの米軍の活動など検討の余地がない」

 

 米側メンバーの表情には驚きと不快感がありありと浮かんだ。セネワルド団長は「米政府は米軍をフィリピン憲法の枠内で活動させているし、当然、今後も憲法は尊重して行く」「あなたの発言はわれわれとの協議の拒絶と受け取らざるを得ない」と述べて、協議は早々と打ち切られた。

 

 協議結果の報告を聞き、激怒したブラス・オプレ外相(同)は即刻バルデス次官の更迭を決めた。

 

この稀有な反骨の人は2年後には大統領府からも追われた。米国はいまだフィリピンに対し事実上の宗主国として振る舞い、“その懐に抱かれる”のを拒む人物は追放を免れない現実をまざまざと見せつけた。

 

米国の意に沿わないフィリピンの歴代大統領はエストラダのように露骨に追放され、7代大統領マグサイサイは1957年に疑惑の残る航空機事故で死去している。極論すれば「服従か、死か」なのである。米比関係における暗部、すなわち反米と"認定”された人々への無差別な政治殺戮は今日まで連綿と続いている。

 

アムネスティインターナショナルなどによると、非武装の農民運動、市民団体、教会関係のリーダーら約1千人が2001年以降10年足らずの間に比国軍兵士や警官とみられる覆面した武装犯に殺害された。地元兵士、民兵、警官らに対し、テロ行為を密かに訓練・指導してきたのが「フィリピンに約600人駐留している」とオバマ政権が公表している米陸軍特殊部隊(グリーンベレー)である嫌疑は濃厚だ。