中国侵略と対米融和促した吉田茂 親米右派の系譜3 ‐更新版‐

戦後の日米関係を見るうえで吉田茂を見逃すわけにはいかない。1946年5月に東久邇宮稔彦、幣原喜重郎に続く戦後3人目の内閣総理大臣に就任。1947年5月にいったん退陣するが、翌48年10月から1954年12月まで再度在職した。戦後に内閣総理大臣をいったん退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人だけである。このように長期政権を維持できたのは、外交官時代に駐英大使の経験もあり、米英から確かな信頼を得ていたためであることは疑いの余地がない。とは言え、その履歴をのぞいてみると、中国権益の擁護に関しては軍部も顔負けなほど強硬だったことが分かる。だが覇権国米英が敷いたレッドラインを慎重に見極め、決して一線を踏み越えることなくGHQの「操り人形」となり、対米従属を先駆けた姿が浮かび上がってくる。

【写真】ダグラス・マッカーサーと吉田茂

 

■吉田と満州権益

吉田は1906年、外務省に入省する。だが花形とされた欧米勤務を命ぜられることなく、入省後20年間のほとんどの期間を中国及びその関連職務に従事している。まずは1907年と1908年の2回、後に満州国の枢要の地となる奉天の日本総領事館の総領事事務代理として赴任する。

吉田が赴任した際の中国東北部の情勢は、日露戦争終結を受けて1905年12月に「満州に関する日清条約(満州善後条約)」が調印され、日本の中国侵略が本格化したばかりであった。この条約によって、対ロ講和条約で帝政ロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国は了承した。条約で了承されたのは、南満洲鉄道の吉林までの延伸と鉄道守備のための日本陸軍の常駐権、沿線鉱山採掘権の保障をはじめ、営口、安東、奉天における日本人居留地設置、さらに遼陽、鉄嶺、長春、吉林、満洲里など14都市の外国人への開放などであり、以後の満洲経営の基礎となった。これを吉田は「合法満州権益」と称して強硬に擁護した

入省後20年余り経ち、1927年4月に田中義一内閣が成立すると、奉天総領事だった吉田は田中に自ら売り込み外務次官に登用される。当時、1911年の辛亥革命勃発と翌12年の中華民国の成立によって、満州善後条約をはじめ条約として固定されていた日本の中国権益は満蒙問題となって揺らいでいた。1920年代に入ると、中華民国政府が国権回復運動を推進して、「清国時代に締結された諸条約の破棄、無効」を主張し、日本政府と激しく対立したからだ。

田中内閣は対中強硬外交を推進し、蒋介石率いる国民革命軍の北伐に対抗する張作霖への間接的支援、居留民保護、権益の強化・拡大のために山東省に兵を送った(山東出兵)。吉田は外務省事務方トップとしてこれを支えた。外務次官に着任すると「対満政策私見」を書き、満州を日本の支配下に置くには躊躇することなく武力を発動すべきと軍部顔負けの主張を行った。

■吉田内閣成立の背景

当然、戦後、吉田は軍国主義者として公職追放されてもおかしくなかった。1946年春、憲法草案が発表されて、戦後初の総選挙が実施された。選挙で第一党になった自由党党首の鳩山一郎が組閣に着手すると、GHQは統帥権干犯問題への関わりなど鳩山の過去を問題にして、鳩山を公職追放した。その結果、公職追放されることなく、貴族院議員だった吉田茂には鳩山に替わって首相の座が転がり込んだ。

強硬論とされながらも、吉田の中国権益を巡る主張はあくまで条約に基礎のある合法な権益以上に広げるべきではないとの意見であり、1931年の満州事変以降もこの立場を変えなかった。とは言え、満州善後条約などで定められた「合法満州権益」擁護が米英の敷いたレッドラインの内側にあったとみるのは難しい。

吉田は岳父・牧野伸顕をはじめとする対米協調グループに積極的に関わった。これが「一線を越えていない」人物として認知されることになったとみるべきだ。日独伊三国同盟に強く反対し、1939年に待命大使となり外交の一線から退いた後は、ジョセフ・グルー 米国大使や東郷重徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指し、開戦後は、近衛元首相ら重臣グループの連絡役となり、和平工作の中心人物として活動した。憲兵隊に検挙・逮捕されたこともある。

■米支配層に組み込まれる

戦前、米国のウオール街、石油資本など反共絶対優先の米保守グループは対米融和・協調のリアリズム路線を採用した昭和天皇側近の宮廷グループである秩父宮、近衛文麿、松平恒雄、徳川家達、幣原喜重郎、樺山愛輔、牧野伸顕らと接近した吉田茂、岸信介らもやがて当時のこの日本の支配層に組み込まれていく。

戦後3人目の首相の座が転がり込んだ吉田のGHQ「操り人形」ぶりは憲法9条を巡る発言に端的に表れている。新憲法施行後しばらくは「九条は自衛権を否定している」と発言した。ところが「逆コース」が始まると、「国家が自衛権を有するのは当然だ」と態度を180度転換した

止む負えなかったとの見方も出来よう。だが「吉田の治政を貫くのは恐ろしいまでの志の低さである」(袖井林二郎「占領した者されたもの」)との酷評もある。戦後日本の保守政治指導者には支配者(米国)のエージェントとしてためらいなく従う卑屈さが貫いている。

戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にウォール街の代理人とも言えるジョセフ・グルー(=写真)がいた。1932年にハーバート・フーバー大統領はジョセフ・グルーを駐日大使とした。グルーの従姉ジェーン・グルーはJPモルガンの総帥ジョン・ピアポント・モルガンJrの妻だった。グルーの日本赴任によって昭和天皇を頂点とする日本の戦前支配層は米国の保守支配層と深く繋がり、戦後も生き延びる。吉田茂の長期政権樹立、A級戦犯岸信介の釈放と首相就任はその象徴である。

次は、米国のアメリカ対日協議会を柱としたジャパンロビーを観察して、米国のジャパンハンドラーの原像を探る。安倍日本会議政権誕生に至る道はそこにある。