右傾化の起点・筑波大学開学50年 統一教会汚染、左派排除、皇室忖度、体制順応を助長

秋篠宮家長男が「提携校進学制度」を利用してお茶の水女子大付属中学から筑波大学付属高校への進学を控えた2月、永田恭介筑波大学長は定例記者会見で開口一番「(進学は)光栄なこと」と述べた2017年度に5年間限定の特例として設けられた進学制度の最終年度に同宮家長男は特典に浴した。提携校進学制度に批判が殺到しているとの指摘に対し、永田学長は「(特定の人のための制度という見方は当たらない。制度は継続する」と批判を一蹴してみせた。東京教育大学を廃校へと追い込み、戦後日本社会の変容の起点とも言える、1973年筑波大学開学は間もなく50周年を迎える。この新構想大学の狙いの1つに1960年安保反対闘争に引き続き60年代末に興隆した全共闘運動の拠点と化した学生自治会の根絶を図ろうとする治安対策があった。ポスト全学連時代に大きく右傾化・保守化した日本社会の歩みと筑波大の歴史は重なる。何よりこの問題は、「モデル大学」の創設と運営が統一教会を讃え勝共を唱える学者たちや自民党文教族の手に委ねられていたことだ。この延長線上に筑波大付属高の提携校進学制度がある。

■文鮮明に心酔した学長

筑波大学開学への動きのスタートとなるのが1961年9月の「東京都の既成市街地に置くことを要しない(附属機関及び国立の学校を含む)官庁の集団移転について具体的方策を検討する」とした閣議決定である。2年後の1963年8月に筑波研究学園都市の建設が決まった。目玉事業の1つが東京教育大学の都区内からの移転とされたが、この決定を巡って同大学は賛否両派に二分された。

文学部は反対、研究施設や科学研究費の抜本改善・増額を期待した理学部や農学部など理系学部は賛成ーというのがおおまかな構図であった。1960年代半ばのこの時期、同大文学部の歴史学者家永三郎教授による高校歴史教科書の文部省検定に対する異議申し立て(後に検定不合格の取り消しを求める訴訟に発展)が注目され始めていた。筑波移転に対し、家永らは「反動文教政策の一環である」と反対した。つまり、筑波移転には、教授会による大学の自治を破壊し、大学を学長中心の中央集権的運営に移管させ、政財界による大学への介入が目論まれていると主張。今日の国立大学法人化という名の半民営化の流れを予見していた。

1967年になると文学部を中心に学生自治会が移転反対でストライキに入る中、最大の移転推進派であった学長グループ(学長、副学長、学長代行)と文学部との対立が決定的となる。1969年以降、学長派は強硬姿勢を強め、キャンパスに機動隊を導入してスト学生を排除。家永ら3人の文学部教授の辞職を文学部教授会に要求した上、教授、助教授らの人事権に制限を加え、筑波移転に賛同しない者の採用を停止した。当時の学長派は理学部教授で占められ、最強硬人物とされたのが同学部理論物理学教授の福田信之(1921-1994)であった。

福田は教育大の紛争時は筑波移転マスタープラン委員会長として文部省とともに移転強行を進めて、筑波大発足後は副学長となり、1980年に第3代筑波大学長に就任した。福田が何者であるかを端的に教えてくれるのは「わが心の文鮮明先生」と題して1990年2月に行われた久保木修己統一教会名誉会長との対談である=写真、福田元学長は左=。以下、統一教会のニュース媒体に掲載された対談の冒頭部分を引用する。

「久保木修己 福田先生と初めてお会いしたのは、たしか1974年でしたね。当時、筑波大学創設のために非常にご苦労しておられたとか伺っていますが。

福田信之 私はアメリカやヨーロッパを回り、国際的展望をもった大学が必要だということで筑波新構想大学の創設に携わるようになったのです。以来8年間、私は四面楚歌の状態で大学創設を進めました。その頃です。久保木会長に会うよう勧められたのは。実際に会ってみると、この人は本当に本気で人間の精神世界に挑んでいる真の宗教人だと感銘したんです。それで、「希望の日晩餐会」に出席させていただいたんですよ。久保木会長との出会いがなかったら、私と文先生との出会いもなかったでしょう。
その時、福田元総理の「アジアに偉大な宗教指導者現わる。その名は文鮮明である」という挨拶がとても印象的でした。今思えば、文先生について全く正しい評価を与えていたんです。」

ウキペディアには次のように記載されている。

「筑波移転反対闘争に対し、理学部教授として、移転推進派の先頭に立って奔走した。その頃、統一教会(世界基督教統一神霊協会)の会長であった久保木修己に出会い、統一教会の教祖・文鮮明の思想に傾倒して行き、 世界平和教授アカデミーを始めとする統一教会関連の団体で精力的に活動し、統一教会シンパの代表的文化人となる。統一教会と関係を持ってからは核武装論者で反共主義者となった。1980~84年の学長時代は大学の主要ポストが統一教会系の人脈で占められていたとも言われた。同時期、筑波大学では「原理研究会」など統一教会系のサークルが公認され活発に活動していた。」

  • 「1976年 - 統一教会系の「世界平和教授アカデミー」の「ナショナル・ゴール(国家目標)研究」(NG研究)というプロジェクトの代表として活動。
  • 1980年2月15日 - ある受験生の合格に便宜を図るように不正工作をした疑いがあるということで、学内の2人の教授から告発をされていると新聞が報じる。学務部長を通じて文部省に事実でないと連絡をし、文部大臣は記者会見をして、文部省として直ちに調査に乗り出す考えはないということを発表。
  • 1984年6月12日 - 統一教会系列の世界日報を追放された副島嘉和が統一教会の内部告発手記の中で、統一教会が福田に定期的に手当てを支払っていたとした件に関し、文部省からの照会に対し、金銭の授受の事実はないと否定。」
  • 教団関連の著書に「21世紀の希望と統一運動 大学教授がみた世界救済への道 (光言社 1990年09月 )」「文鮮明師と金日成主席 開かれた南北統一の道(世界日報社 1992年6月)」がある。 
  • これで十分であろう。福田は、教育大教授時代から文鮮明に心酔し、筑波大では学生自治会を廃止する一方で、学生サークル「原理研究会」を公認し、間接的にせよ学内で世界基督教神霊統一教会の「布教」に努めた奇怪な物理学者である。
  • ■自民党清和会と筑波大学
  • 自民党安倍派(清和会)と文鮮明・統一教会との関係について、本ブログは7月21日掲載記事「『冷戦・CIAの子、自民党と統一教会は兄弟組織』に矛先 安倍暗殺事件評」を皮切りに岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三の三代にわたり育まれた自民党派閥「清和会」が文鮮明・統一教会と一体となってきたと論じてきた。
  • 清和会の有力議員は日本の週刊誌記者にこう語っている。
  • 「かつて清和会は傍流派閥の一つでした。財務相や外務相など主要閣僚や農林相、経産相、国交相など利権のあるポストは回ってこず、文教族の森会長が文科省の大臣ポストを何とか手に入れた。文科省の外局の文化庁の宗務課が宗教法人を所管しています。」
  • 実は、岸の時代から宗教法人を所管する文部省(当時)は岸率いる自民党派閥にとって支配下に置かねばならない重要官庁だった。それは憲法や教育基本法などの改定を唱え、失われた戦前の天皇制国家へのノスタルジックな復古主義を唱えるがためだけではなかった。安倍暗殺以降、問題がはっきりと浮上したように、最優先なのは反社会団体との非難にさらされている統一教会の宗教法人としての地位を守ることだった。
  • 宗教法人はお布施免税をはじめ税制面で優遇される。法人名義での不動産登記、礼拝用建造物やその敷地の差し押さえ禁止が保障される。自民党文教族の有力議員にとって宗教団体は大きな金づるであり、選挙母体、票田である。旧統一教会やその関連団体は秘書や選挙運動員も派遣する。
  • 2012年末に発足して2020年まで続いた第二次安倍政権での文科相は、下村博文、馳浩、松野博一、林芳正、柴山昌彦、萩生田光一、末松信介の7人。宏池会(岸田派)の林を除く全員が清和会に所属する。
  • さて上記のように筑波研究学園都市の建設が決まり、目玉事業の1つを東京教育大学の都区内からの移転としたのは1963年である。岸政権を退陣へと追い込んだ、全学連主体の1960年安保条約改定反対運動の激烈な高揚は米権力中枢にとって「反共の砦・防波堤としての日本」の存続を危うくする危機であった。G・デイビスは著書「軍隊亡き占領」で「日本の政治が極限まで揺れたこの時期」と記し、米日支配層の震撼ぶりを簡潔に表現している。
  • 韓国でもこれに呼応して朴正煕による1961年軍事クーデターが発生。独裁権力の李承晩政権が1960年4月に学生による四月革命によって退陣して誕生した民主政権を武力で排除した。朴正煕政権はCIAの後押しで「韓国中央情報部」(KCIA)を正式発足させ、反共運動強化のために統一教会を全面に押し出すようになる。間もなく、日本でも統一教会、原理研究会、勝共連合の活動が活発となった。
  • 東京教育大の筑波移転問題は、共産主義革命を唱道する学生運動、その根城となっていた学生自治会を日本の大学から根絶するとの日米両政府と米権力中枢のただならぬ決意と結びついていた。CIA、KCIAがこれを支える。日本政府の唱えた「新構想大学」とは「反共親米転換構想大学」だったのだ。
  • 東京教育大学理学部教授福田信之の行動について「新構想大学創設」の動きをリビューした日本人研究者はこう書いている。
  • 「1960年代ごろから物理学の国際会議で欧米の大学をたびたび訪問し,1963年にカリフォルニア大学サンディエゴ校に滞在した時、向こう40年間にわたる将来計画を記した同大学マスタープランを見て感銘を受け、特に教育計画に基づいて学生を三つのクラスターに分割する『クラスター・カレッジ制度』について盛んに報告を行い、新構想大学創設プランに影響を与えた。」
  • また福田自身は上記の小此木統一教会名誉会長との対談でこう回想している。
  • 「私自身、筑波大学をつくることにしたのは世界の大学を視察してからです。欧米の大学を見ながら、日本の大学を何としても改革しなければならないという思いにかられました。これは私の人生の中でも最も激しい運動でした。あらゆるところから反対を受けました。それがないと文鮮明先生のご苦労まではなかなか分からなかったでしょう。
    筑波大学は国際的人材を養成し、さらに社会に開かれた大学、未来志向の大学を目指しました。そういう点では文先生のやっておられるものと非常によく似ています。…私は、文先生の話に神の愛を感じ、絶えず感動するんです。文先生は世界のいかなる人よりも早く、世界の動きを察知し、準備でき、極めて正確な運動をなさる方です。」
  • 上の引用文の内容はそのまま受け取れない。60年安保闘争を主導した左翼・リベラル派の影響下にある大学運営に危機感を表明し、「改革」に向け強硬姿勢を示していた福田に頻繁に大学視察を名目に欧米渡航のチャンスを与えたのは自民党文教族に促された当時の文部省であろう。安保闘争、新構想大学創設、教育大筑波移転の流れの中で、福田らに白羽の矢が立ち、岸人脈、統一教会、原理運動と結びつけて筑波大開学へと向かわせた。こう推測するのが素直で自然である。
  • ■新構想大学の実態と「成果」

  • 筑波大学は発足以来、どんな歩みをみせて来たのか。

  • 伝統的な学生自治会は事実上廃止されている。現在管見できる自称「筑波大学学生自治会」と称するサイトには「本学学生による信任投票で過半数以上の信任を得ることが出来た。現在の主たる活動員は5人」とある。「手弁当学生自治会」と称し、①絶対に会費を徴収しない、②官庁舎や公営交通施設での政治活動と同じく、大学構内で政治活動することは禁止されている、③国立大学の施設を政治活動に提供するというサービスは、国立大学の業務として不正行為であるーなどとしている。文部省、文教族、統一教会・勝共連合が目論んだ通りの「成果」を挙げた。

  • 筑波大モデルが浸透する中、学生運動の資金源となっていた自治会費の大学事務局による代理徴収制度が国立大学では1980年代までに廃止されている
  • 学生寮も廃止され、すべて個室のワンルーム型の学生宿舎となった。茨城県の過疎地域に開学したため、新入生約2600名がすべて宿舎住まい出来るが、寮母不在で賄いなし、自炊を強いて、寮の出入り口を施錠させた。学生同士の接触をできるだけ少なくし、左翼組織による勧誘オルグ防止に徹底した監視体制が敷かれている。左翼学生の揺籃地とみなされた学生寮潰しは国公立大学を中心に全国の大学に広がった。
  • ウキペディアによると、学生運動の母体であった全学連や自治会の地位は低下するばかり。1980年代に入ると各派の全学連大会参加者は3ケタまで落ち込み、加盟数も84年時点で日共171校362自治会、革マル16校25自治会、中核派5校10自治会、青解派4校10自治会、ブント系3校5自治会、第四インター系2校2自治会となっていた。一定の組織を保っていた日共系でさえ、1983年3月の第34回定期大会でそれまでの公表数であった300校40万人を217校36万人に下方修正するに至った。
  • 【写真】無期限バリケードストライキに入っていた東京教育大文学部=東京・大塚キャンバス。東京大学と同様、1969年に機動隊導入で封鎖は解除された。世間の関心と記憶は東大に偏ったが、東京教育大の1969年3月入試も東大とともに中止された。両大学に対し、当時の佐藤内閣や自民党有力者は「現状のままでは廃校とする」と大学当局や教員、学生を恫喝した。53年後の今日、東大は何事もなかったように存続しているが、教育大は筑波大開学の5年後、1978年に廃校となった。

 

  • このように自治会費の代理徴収制度が廃止されて、資金不足に陥った単位自治会の多くは全学連への機関紙代上納すらできなくなった。筑波モデル、新構想大学モデルは大きな「成果」を上げたのだ。
  • こんな中、「筑波大生集団買収投票事件」が発生した。1978年12月に行われた茨城県議会選挙で、筑波大学の学生141人が一人3000円で買収された事件が発覚した。当選した保守系無所属候補の運動員2人が本来は立ち入りが難しい学生宿舎で学生に不在者投票をさせた疑いで県警に逮捕された。1990年代につくば市長となる候補者と大学当局との癒着が疑われた。最も深刻なのは、学生の政治意識のあまりの低さの露呈であった。
  • この事件を巡り竹内猛社会党衆議院議員(当時)は1980年2月の衆議院予算委員会で筑波大学の実状をこう告発した。
  • 公選法違反の約140人の学生には教育的処置として口頭厳重注意ですませ、学則による処分には及ばなかつた。一方で、学生の自主的な文化活動である学園祭では、家永三郎氏を講師に含めた講演会と三里塚・辺田部落の映画上映が禁止されている。学園祭実行委員会を中心とする学生は企画内容審査の撤廃など自主管理、自主運営を具体化した八項目要求を無視され、あくまで大学の運営方針に従わせ、企画内容審査を求められた。抗議する学生に対し、大学側は本部棟をロックアウトし、事務職員がピケットをはり暴力をふるつて学生の要求を拒み続けた。このため、学生の座り込み抗議行動を引き起こし、更に警察官の出動を要請し、学生を排除しようとした。」
  • ■若者と現体制是認
  • 若者の自民党支持率拡大が指摘されている。
  • TBSによると、2021年実施の衆院議員選挙の際の調査では、18歳から20代の自民党支持率は40%~44%、30代から40代も概ね35%を超えていた。野党第一党の立憲民主党のそれは、いずれも10%前半にとどまっていた。
  • 一方、2017年11月12日発行の筑波大学新聞は一面トップで「筑波大生の内閣支持7割越」との主見出しの下、「10月22日投開票の衆院選挙について筑波大学生429人にアンケート。安倍内閣を支持するが71・1%と圧倒した」と伝えた。さらに比例代表の党派別投票先では自民党が48・7%と総務省発表の全国平均33・3%を大きく上回った。逆に共産党は全国平均が7.9%であるのに筑波大学生は0.5%に過ぎなかった。

開学から半世紀経て、福田ら初期大学当局の反共・体制順応促進路線は奏功した。永田現学長は2021年3月再任され、2024年3月まで異例の11年にわたり学長を務めることとなった。2019年6月には筑波大学長として初めて国立大学協会会長に就任したが、通例の2年交代はなく、2024年までの長期在任が予想されている。秋篠宮長男の2022年4月筑波大付属高入学への忖度も加味されてのことなのか。

筑波大学モデルは新自由主義の蔓延と深く関わる。その深部には統一教会問題が絡む。ただ自治会、学生寮を拠点とする学生運動が連合赤軍山岳アジト(榛名山)事件を末路に中核、革マル、社青同解放派など新左翼各派による内ゲバ、大学内リンチ殺人など凄惨な事件の数々、日本共産党系と反日共系との学生間の不毛な対立と憎悪以外何も残さず、中央教育審議会答申や大学管理法制定を招来させ、1970年後半代降、一般学生の「過激派」嫌悪と政治運動への無関心が急速に拡大する大きな反動を残した。

21世紀に入ると、国立大学は新自由主義に基づき民営化へと進む大学法人化と「世界のトップ大学と競い、イノベーション創出のけん引役となる国立大を育てる」指定国立大学の選別をはじめ淘汰政策を一気に進め始めている。

本稿で提起されている1970年以降の日本社会の変容と右傾化に関しては2022年5月18日掲載記事「選挙権、労働基本権…民主主義かなぐり捨てる日本 米管理下の新翼賛体制」を参照されたい。