■はじめに:裁けない暗殺
安倍晋三が暗殺されて三年。不可解極まりない殺害の態様から日本の裁判所はいまだに初公判の期日すら明示できない。検察による殺人罪の立証は不可能であろう。それを配慮してか弁護団からは「情状を訴え、殺人罪については争わない」との声が漏れている。この弁護団とは何者か。国選か、私選か、人数も明らかにされていない。事件の真相が公になるのを恐れてか、公判が開けない前代未聞の事態が続いてきた。注1
こんな中、「奈良地裁は初公判を10月28日とする案を提示」「 来年1月にも判決を言い渡す方向で調整」という確度の高い報道が出た。初公判が起訴状朗読、被告人の罪状認否の冒頭手続きで終わり、年末の第二回公判で被告人側が起訴事実を一切争わず、情状酌量を訴えて結審すれば、年明け早々に判決となる。控訴はせず有罪を確定させることができれば、真相は法曹三者の”共犯”により闇に葬られる。
これでは「高度な政治性を帯びた行為には司法審査は及ばない」と暗示する統治行為論のとんでもない亜種となる。ネオコンにとって狂信的皇室崇拝者である安倍晋三の存在価値は日本を軍事大国化しグローバルに戦争をできる国にしたことで潰えていた。安倍の登場は軍事大国化のために日本の政治を極端に右傾化させた。親米の衣の下に強烈な反米の鎧がはっきり見えていた。パージされるのは不可避だった。安倍殺害は組織的犯行とみるほうがずっと自然に思える。真相の永遠の隠ぺいがなされようとしている。
■ネオコン台頭、最年少首相
2020年まで二次にわたり計8年余りも続き、歴代最長とされる安倍晋三政権の役割は、極論すれば、自衛隊を米軍の指揮下で戦える軍隊とする集団的自衛権行使容認に尽きる。ところが安倍は回顧録でこれが米国の厳命であったことを隠し、自発的なものであったかのように語っている。
病死した父安倍晋太郎元外相を継いだ晋三は1993年に衆議院議員初当選。その後は閣僚経験もなしに党と閣僚トップの自民党幹事長、内閣官房長官を歴任し、06年には戦後最年少の52歳で首相に上り詰める。
前代未聞のこの”スピード出世”は、冷戦後の世界支配の構図を描いた米ネオコンの圧倒的パワーの賜物と言える。自衛隊を世界のどこにでも派遣できる、とりわけ中国との対峙を支える戦力として利用する体制作りこそ米国の対日政策の核心であった。その世界制覇構想の駒として安倍政権は誕生した。
■ポスト冷戦と米の覇権主義
「異様な」と形容できる安倍晋三のスピード出世と二度にわたる首相就任の背後で米国はどう動いたのか。晋三が初当選した1993年は国際秩序の大転換期であった。1989年に東西冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊した。世界は対立から融和、協調に進み、平和の配当がもたらされるとの機運が盛り上がった。
しかし、現実は違った。米国の安保外交政策を牛耳っていたネオコンと呼ばれる新保守の好戦主義者にとって時は米単独覇権による世界制覇へと進む好機到来であった。
これを日本人に思い知らせる最初の一撃となったのが「カネだけでなく血も流せ」と日本政府を恫喝した湾岸戦争への資金援助非難であった。「カネからヒトへ」の流れの嚆矢が初の自衛隊海外派遣となった国際連合平和維持活動(PKO)である。国際連合平和維持軍(PKF)への参加は国連憲章でうたわれた集団安全保障の実現とされた。
ソ連邦が崩壊した際のジョージ・ブッシュ米政権(1989~1993)は新保守主義者ネオコンに支配され、その頭目がディック・チェイニー国防長官だった。ブッシュ息子政権(2001~2009)で副大統領を務め、影の大統領と呼ばれたチェイニーは1992年2月に密かにDPG(国防計画指針)草案という世界制覇プランを作成させた。彼らは「唯一の超大国」となった米国が、国際連合に縛られず独断で行動できる単独覇権構想を打ち出した。
DPGはポール・ウォルフォウィッツ 国防次官補が中心となり起草されたためウォルフォウィツ・ドクトリンと呼ばれる。DPGの柱は中国、ロシアを念頭に「米国に対する新たなライバルの出現を許さない」である。さらに旧敵国のドイツと日本を米国の世界制覇計画の駒として取り込んで、再び米国の脅威とならないよう封じ込めることにあった。彼らはワシントンD.Cにシンクタンク「アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)を設け絶大な権力をふるう。
■日本の離反を許さず
安倍が初当選した1993年衆院選挙は反自民党票が保守系新党に大量に流れ、非自民八会派連立政権を誕生させ、自民党と社会党の対立構造からなる55年体制を終焉させた。自民党が初めて下野し、共産党は排除され、東西冷戦の終焉は、歪ながら、日本の政界にも反映した。誕生したガラス細工のような細川護煕政権はソ連崩壊を受け日米安保絶対から国連重視へと傾斜しようとした。この姿勢は、上述のネオコンのDPG(国防計画指針)に真っ向背くものであり、細川政権は翌1994年に1年もたずに崩壊した。
この日本の対米離反の動きに対して米国にジャパンハンドラーと呼ばれるグループが台頭した。以前からの知日派と異なり、日本を背後から政治的に操っている者を指す用語である。 ジャパンハンドラーの居場所として名高いのが、米シンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)である。2000年から2025年まですでに6次にわたり対日外交指針、あるいは対日指令書と呼ばれる超党派で作成した政策提言報告「アーミテージ・レポート」を発表して日本政府に忠実に指令を実行させてきた。
■東アジア重視と安保再定義
ジャパンハンドラーとして細川政権の国連重視への傾斜を封じるべく動いたのがマイケル・グリーンとパトリック・クローニンとされている。クリントン政権(当時)の国防副次官補(アジア・太平洋担当)だったカート・キャンベルを介して、ジョセイフ・ナイ国防次官補に対し1995年2月に「東アジア戦略報告書」、通称「ナイ・イニシアティヴ」の作成を働きかけた。この報告書の核心は、冷戦後も東アジアに10万人規模の米軍プレゼンスを維持、在日米軍基地の機能を強化し、その使用制限を緩和、撤廃することが謳われた。上記のメンバーはいずれも2000年代に「戦略国際問題研究所」(CSIS)幹部となる。
【写真】「ジャパン・ハンドラー」と呼ばれるリチャード・アーミテージ(右端)、マイケル・グリーン、ジョセフ・ナイらが笹川平和財団主催「日米安全保障研究会」で一堂に会した。2013年6月24日、東京都港区のホテルオークラ東京別館2階で。
1996年6月には日米安保共同宣言が出され、冷戦後の日米安保を再定義した。ナイ報告書同様、冷戦後においてもアジア太平洋地域の安定にとって日米同盟の維持、強化が、不可欠とした。続いて「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)を見直し、97年9月に新ガイドラインを決定。99年には周辺事態法を制定し、自衛隊を日本の領土の専守防衛という原則から離脱させる試みが始まる。21世紀初頭のブッシュ息子政権に入ると、後方支援・非戦闘地域派遣を名目にアフガン、イラクへの自衛隊派遣が実行され、日本が米国主導の戦争に組み込まれる下地が一歩手前まで出来上がった。
とにもかくにも、領土外で自衛隊を米軍と本格戦闘を含む共同軍事活動をさせるには日本政府に集団的自衛権の行使を容認させ、改正自衛隊法や外国軍隊に対する協力支援活動等に関する法律の総称である新安保法制を制定する必要があった。
2000年に第一次「アーミテージ報告書」が日本政府に届いた。主たる要求は集団的自衛権の行使容認、有事法制の国会通過、米軍と自衛隊の統合などであった。2012年の3次レポートでは、集団的自衛権行使容認に基づく新安保法の制定を明確に迫った。四半世紀にわたり、日本政府は米側の要求をすべて丸呑みするかのように受け入れてきたが、集団的自衛権行使容認と新安保法制成立には15年の歳月を要した。自衛隊を領土外で戦えるようにするための議論の場となった有識者懇談会の開催、閣議了解や法案審議は、安倍の専権事項と言わんばかりに、ことごとく1次、2次の安倍政権の下で行われている。
■中国脅威扇動と愛国心の称揚
「戦う大国作り」の前提として中国脅威の扇動とともに愛国心称揚による熱烈な皇国日本への憧憬、戦前回帰ムードが日本人の間に醸成されねばならなかった。
筆者は安倍晋三が初当選した1993年から第一次安倍政権の崩壊した2007年まで国外で暮らした。帰国して驚いたのは、右翼団体の活動が異様なほど活発化、軍拡を進める中国への恐怖感、韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチ、そして「ニッポンすごい」の声が溢れていたことだ。特に、バレーボール、フィギュアスケートなど屋内スポーツの国際大会会場は日の丸鉢巻き姿の観客が「ニッポンがんばれ」「ニッポンすごいぞ」の横断幕を手に、愛国称揚の旭日旗を振り、会場は「すごいぞ日本」の常軌を逸する歓声と熱気で溢れかえっていたことに眼をむいた。
1997年には「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」とが統合された日本最大の右翼団体「日本会議」が設立された。これに伴い「日本会議国会議員懇談会」が結成され、「美しい日本の再建と誇りある国造りのために活動する」と謳い、189人の国会議員が参加した=写真。安倍も積極的に参加し、自民党リベラルで親中派の加藤紘一率いる宏池会や河野洋平グループの対中姿勢を朝貢外交と非難し、1994年の自民・社会・さきがけ連立政権の発足で自民党が全体としてリベラル志向で左旋回したと批判するようになる。
皇国史観に取り憑かれ、戦後民主主義の象徴である1947年憲法を占領憲法と蔑み改正を唱え、東京裁判の否定、靖国英霊思想の賛美から日本の中国侵略や慰安婦徴用の否定にまで執着する議員や宗教人、学者らとの交流は北朝鮮による拉致問題取り組みで名を挙げる安倍晋三をいつしか「タカ派の貴公子」として永田町のスターダムにのしあげた。「政治的な問題意識の希薄だったお坊ちゃんが大勢の狼に囲まれるうちに、自ら狼に変身していった」。こう皮肉る向きもある。
2010年代に入って激しさを増した中国の反日デモや日本の民主党政権による尖閣国有化は中国との関係悪化を決定的にした。天安門事件やウィグル新彊独立運動、香港雨傘運動にも米英諜報機関の爪痕がうかがえるように、中国での大規模暴動や東シナ海の緊迫化が自然発生したとはうけとれない。日本人の対中感情を悪化させ、嫌悪から怒りに向けることで利益を得るグループの何らかの関与があったとみるのが理にかなっている。集団的自衛権行使容認、続けて敵基地攻撃態勢構築を受け入れる民意の形成は必須であった。
■安保法制懇ー佐瀬、岡崎、アーミテージ
上に「ネオコンは安倍晋三に白羽の矢を立てた」と書いた。それをいささか詳しく見てみよう。
2006年9月に発足した第一次安倍政権は「日本の集団的自衛権行使容認の問題と憲法との関係の検討を行うための内閣総理大臣の私的諮問機関」として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を設けた。構成員に選ばれた14人の学者、識者はいずれも容認派の内輪グループと言え、結論ありきの布陣であった。この安保法制懇設置構想は5年以上の歳月をかけ日米関係者により水面下で準備された。
その中に安倍が学んだ成蹊大学法学部で国際法を講義したことのある佐瀬昌盛がいた。佐瀬は安全保障研究の政治学者で2001年にその名も「集団的自衛権」という著作を刊行した。それに着目したのが「タカ派の貴公子」安倍に眼をつけていた元外務官僚岡崎久彦である。関係者によると、岡崎は安倍と佐瀬の面談をセットし、安倍に対する「集団的自衛権」教育に本格的に乗り出した。岡崎は晋三の父晋太郎が外務大臣だった時に関係を深めたと言われ、岸ー安倍ラインが米国の敗戦国日本封じ込めの最前線に立たされている微妙な立場にあるのを十分に認識していた。
一方、CSISに出向経験のある岡崎は、アーミテージらジャパンハンドラーやネオコンと一体の関係にあった。岡崎を介して、アーミテージやナイらにより安倍に白羽の矢が立てられていたのは間違いない。血筋に恵まれた貴公子として担がれた安倍は日米関係者が悲願とした集団的自衛権行使容認の切り札的存在として認知されてゆく。
その集大成として、2004年にはイラク戦争、自衛隊派遣、集団的自衛権、日米同盟など岡崎の問いかける日本の外交、政治の課題に自民党幹事長安倍晋三が答える書籍「この国を守る決意」が刊行された。岡崎が「国益を守るためのこれだけの広範な課題に答えていただくのは時期尚早かも知れませんが、今を置いてないと考えました」と述べていたように、安倍は翌年官房長官に、そして06年には内閣総理大臣となる。日米の安倍ハンドラーは自分たちの敷いたレールに安倍を上手に載せようと懸命だった。
■「サプライズ人事」の内幕
2000年4月に安倍が内閣官房副長官に就任すると、同年10月には第一次アーミテージ報告書が公表されて集団的自衛権行使容認がもろに要求された。2002年の小泉訪朝に伴う「拉致被害者帰還」で名を売った安倍は、上述したように、2003年には小泉の「サプライズ人事」とされた党幹事長抜擢、2005年には官房長官として初入閣した。自民党幹事長就任は初当選からわずか10年。 ”奇跡”と言ってもオーバーではない。
この人事がいかに異例、異常であるかは、同じ山口選出の現官房長官林芳正の経歴と比較すれば納得できる。林の参院初当選は安倍初当選の翌々年1995年である。林は30年近くの年月をかけて大蔵政務次官を手始めに防衛相、文科相、農林水産相などの多くの閣僚経験を重ね衆院に鞍替えした上で岸田、石破内閣の官房長官に登用されている。
政務官、副大臣も経験していない、当選4回の中堅になったばかりの衆院議員を閣僚最高位の官房長官に任命し、翌年には内閣総理大臣にしたのはどんな力か?何が「サプライズ人事」を生んだのか。既存メディアはこの問いを封印してきた。もちろん集団的自衛権の行使容認を厳命してきた米ネオコンやジャパンハンドラーの圧力をおいてほかにない。
年功序列が絶対の世界。そこで当選3回議員がいきなり党トップの幹事長に就任したのだ。保守政治家の命であるポストと権力の掌握に向けて階段を一歩一歩時間をかけて登ってきた自民党派閥のボス連中はそれでも口をつぐんだ。取り巻きも同様だ。自民党内には表向きさざ波さえ起きなかった。彼らはワシントンの力を恐れ、畏怖から反発心を凍結した。メディアはポスト小泉のサプライズ人事として報じるだけで、報道からワシントンの影は封じ込められた。(続く)
注
「安倍氏の心臓に穴」と救命医 警察これに蓋して4カ月 絶望的なメディアの沈黙 2022/11/03
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