安倍暗殺事件公判の始まる2023年 戦後政治の暗部を炙る

本ブログは2023年を近代日本第三期初年と呼んできた。それは1868年(明治元年)から1945年(敗戦)までの第一期と1945年から2022年までの第二期が共に77年となり、2023年を新77年元年とできるからだ。なにより第二期最終年に安倍晋三元首相暗殺という日本近代史を画する事件が起き、近代第二期である戦後政治の暗部が炙り出されている。これを受け、第二期最終年の年末に当たり第三期がスタートする意味を少々点描してみる。

第三期に向かう上での問題の核心は何か。何よりもそれは1955年の保守合同以降、半永久的に日本の政権与党であり続ける自由民主党が基本的に米権力中枢の代理機関・パペットであり続けていることだ。米中央情報局(CIA)が資金援助を含め自民党結成に深く関与し、米軍占領からの名ばかりの独立を付与された1951年サンフランシスコ講和条約と同時に締結した日米安全保障条約と地位協定が対米追随の礎になっている。

安倍暗殺事件で身柄拘束された山上徹也容疑者は1月13日に起訴される見通しだが、公判開始には多大な時間を要し年後半になるとの予測もある。それはこの事件が公判を通じて戦後史、とりわけ日米韓関係の暗部、近代天皇制が米韓工作機関により文鮮明の主宰するカルト教・統一教会のモデルにされたという巨大な闇に触れかねないからだ。それを避けるための徹底した準備が司法、行政一体となり行われていると疑わざるを得ない。検察、裁判所をはじめ日本の関係当局は全力を挙げて山上公判を統一教会とその広告塔・安倍晋三に対する私怨問題に矮小化し、1955年自民党結党以降のCIA、自民党、統一教会、岸信介、安倍親子、さらには天皇家の絡んだ戦後史の暗部に蓋をしてくるのは必至。

さらに深刻な問題は、日本の商業メディアが日本の政治とその政策決定過程に米権力機関の意思が絶えず介在していることに眼をつぶり、日米関係があたかも対等であるかのように読者・視聴者を錯覚させる報道を日々時々刻々続けていることだ。自民党保守派と同じく、敗戦の否認を続けているのである。この問題は12月15日掲載記事「米国の日本支配に背を向け敗戦否認する政治報道 報道の自由放棄し戦後史歪曲」で詳述した。

現代の日本では自由な報道の名の下に、結果的には全体主義権力の宣伝機関を代行するようなプロパカンダが行われている。

例えば、ウクライナ戦争報道ではロシア側の主張を伝える際にほぼすべてのメディアが「一方的に(語った)」の冠をかぶせる。根拠を示さない「一方的」というロシア断罪の感情を視聴者の心に絶えず響かせる言葉なしにロシア報道は成立しなくなっている。対照的に米英NATO・ウクライナ政府、とりわけ米政府の言い分や発表についてはすべてをほぼ自動的に正当と受け入れ、読者・視聴者にウクライナ政府への同情の感情を誘発させる。これは思考停止を越えた、ソーシャル・サイカイアトゥリィ(社会精神医学)の課題と言っても過言ではない

この状況を勘案すれば、商業メディアが山上公判で事件を被告人の私怨問題に矮小化すると予想される裁判官の訴訟指揮に異を唱えるとは期待できない。日本政府も商業メディアも、問題の核心が自民党安倍派と統一教会の関係のみならず、それを動かす米ネオコン、CIAとその背後にある米権力中枢にあるが故にそれに関する情報に触れたがらない。したがって、新しいオルタナティブメディアがどこまでこの核心に迫れるかに期待する他ない。

年明けし初公判期日が公表されれば「安倍暗殺事件公判を近代日本の大転換へ 天皇制と敗戦、自民党支配を越えて」を数回に分けて連載する予定である。

第三期のスタートに当たって触れておかざるを得ないのは、本ブログのテーマである戦前と戦後の連続性である。なぜ2006年の第一次安倍内閣発足とともに「戦後レジュームからの脱却」と「皇国日本の美化」「靖国思想の礼賛」が叫ばれ戦前社会への復古志向が顔をのぞかせるようになったのか。

それはひとえに敗戦による戦前の天皇大権国家の解体が未完に終わったからである。言葉を換えれば、戦後民主主義と護憲平和主義が言葉を躍らせるばかりで十分に血肉化されなかったためだ。第二次安倍政権による集団的自衛権行使容認に伴う2015年新安保法制と岸田政権による2022年大軍拡決定と敵基地攻撃体制形成は戦後体制の大転換というより、新たな戦前体制の成立と呼ぶべきだ。愚行の極みである。日本の新たな翼賛体制については2022年5月掲載記事「選挙権、労働基本権…民主主義かなぐり捨てる日本 米管理下の新翼賛体制」で論じた。

このようなアングロサクソン御用聞き体制形成の淵源は明治維新にある。薩長新政権は英国のロシア封じ込め政策に参加するために、ロンドン・シティから資金を調達、朝鮮、台湾へと軍事進出する。その後、宮中グループは米金融資本とも結びつく。米国を絡めてのこの辺の地政学的な問題は2020年8月掲載記事「中国巡り、対決から"連携"へ 日米100年史」、同「新冷戦への米国の情念「民主化」と体制転換」などで簡単に説明した。また東アジアで近隣する中国、韓国と共存できない日本の宿痾については同年12月掲載「古代から日本を縛る中国敵視 戦前体制の清算不可欠」で説いた。

日本の現在抱える難題を的確に表現した幕末期の言葉がある。江戸で「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた佐久間象山は門下生となった吉田松陰らに「夷の術をもって夷を制す」という「攘夷のための開国策」を説いた。開国して国力をつけて攘夷を行う、つまり富国強兵により軍事大国となった後で英米を打倒すべしということだ。それは100年も経ずに鬼畜米英をスローガンとしたアジア太平洋戦争・第二次世界大戦突入で実現する。皮肉にもこの敗戦が日本のアングロサクソン同盟への半永久隷属という現状へと繋がっている。「攘夷のための開国」路線は大破綻し、今日ではウクライナをはじめ武力紛争の絡む米英の世界戦略展開の僕(しもべ)となった。

160年余り続く、アングロサクソン御用聞き体制からの脱却は至難の業である。水戸学を基礎に創られた「世界に類のない万世一系の皇統を頂く」とする神国日本と近代天皇制。これらがアングロサクソンを筆頭とする白色人種による世界支配への対抗手段として形成されたと主張することから始める。絶対優越を説く皇国史観が列強への恐怖とコンプレックスから生まれた時代錯誤の思想であり、カルトと蔑まれても仕方のないものであると自覚することから我々は再出発するしかない。