対米戦争は明治体制の完成と崩壊だったー偽装された日本近現代史

6日、9日の広島、長崎での原爆犠牲者慰霊式典、そして”終戦記念日815”をピークとしながら80年目の8月が終わる。各メディアは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、サイパン、沖縄の戦い、東京大空襲をはじめ戦争の惨禍をそれなりに伝えた。だが負の過去に正面から向き合えない。日本政府が降伏文書に署名して対米戦争を終結させた敗戦記念日9月2日には目を背け、1937年から1945年まで続いた日中戦争を中国人民抗日戦争および世界反ファシズム戦争の勝利として国を挙げて祝う中国の対日戦勝記念日に対しても同様だ。日本のメディアは「太平洋戦争の終戦」「日中戦争の終結」と伝える。要するに「日本の敗戦」を認めたくないのである。いまだ「先の戦争は侵略戦争でなく自存自衛のための戦いだった」と公言するウルトラ国家主義者が日本の権力中枢に巣食う。日本の近現代史は偽装され、歪められてきた。

そもそも明治御一新に伴う日本近代化の究極目標は「日本帝国を欧米列強に伍する軍事国家に育て上げて米英露を東亜から駆逐し、日本をアジアの盟主とする」にあったと断言できる。したがって対米戦争決行と第二次大戦参入は歴史の必然であったと言える。今日の日本の言論空間にこのような問題意識は皆無と言わざるを得ない。ただただ「なぜ対米戦争に向かったのか」「回避の道はなかったのか」と問うのみである。

軍事国家明治体制形成の根幹を担ったのは日本陸軍の父とされる元老山縣有朋である。山縣の師吉田松陰は江戸で佐久間象山に師事している。象山の「夷の術をもって夷を征す」の教えを松陰は後に明治体制のリーダーとなる山縣や伊藤博文らに説いたはず。象山は「欧の技術・工業力(夷の術)を習得・育成し日本を無双な軍事国家とした暁に欧(夷)を撃つべし」と鼓舞していたのだ。「中国からの完全撤兵を迫まり、これを拒んだ日本を経済封鎖した米国を撃つ時来り」が山縣没して20年足らずの1941年12月8日であった。日本帝国は「無双の軍事国家」に程遠い状況であったにもかかわらず、追い詰められ、窮鼠猫を嚙む状態で「大攘夷決行止むを得ず」と突き進んだ。

対米戦開始の約8か月前に出された陸軍秋丸機関」(陸軍省戦争経済研究班)の報告書は「国力は20対1」「英米と開戦しても勝ち目はない」として日本必敗」との結論を出した。この常識的結論は有識者による調査研究を待つまでもなく、当時、滞米体験のあった日本人全員が共有していた。それでも戦争を指導した東條英機は「物には限りがあるが、ただ無限にして無尽蔵なのはこの精神力なのである」と語った。そして「物量に劣っていても、無限の精神力を発揮すれば勝てる」との虚ろな精神論が国を覆い尽くす。インパール作戦を指導した牟田口廉也はこう言った。「武器不足は敗北の言い訳にならず。猛省しろ」。

開戦に至ると、東條内閣は大政翼賛会に「この一戦 何が何でも やりぬくぞ 見たか戦果 知ったか底力 進め一億 火の玉だ」とプロパガンダさせ、大衆による下からのファシズム高揚を煽りまくった。この「一億一心、火の玉」の叫びを生んだ日本社会にはファシズムに抵抗できる勢力は治安維持法によって根こそぎ摘み取られていた。反政府勢力や反戦活動家が一掃されていたのが戦争を回避できなかった決定的理由である。対米戦突入が狂気であれば、一糸乱れぬ天皇大権国家への忠誠ぶりもまた狂気のなせる業であった。戦時下ドイツでの反体制運動は、国防軍内の反ナチ活動、ヒトラー暗殺未遂、ドイツ社会民主党や共産党の亡命組織を通じての抵抗など枚挙に暇がない。表向き、やむなくにせよ日本人が戦争遂行に向け「一心」、「一丸」となったのは政治体制の選択肢を奪われてしまい皇国日本の受容以外になくなったからである。

戦時下日本帝国は明治体制の完成だったと言える。この明治体制とは絶対主義天皇制に基づく軍事国家を指し、明治維新期から1945年9月2日まで続いた。それは元々ファシズムを内包しており、大攘夷となった対米戦遂行を通じてその全貌を露わにした。1930年以降の満州事変を嚆矢とする15年戦争遂行で軍部が暴走したと言われているが、それは決して暴走とはいえない。明治憲法を読めば天皇の統帥権が内閣の管轄外にあることは一目瞭然。そもそも帝国憲法には国務大臣の記述はあっても内閣や総理大臣に関する定めがなく、軍部によって政治家が統帥権から排除されるのは不可避だった。天皇による統治を絶対視した薩長独裁政府が唱えた超然主義は政党はおろか議会すら否定し、政党内閣とは国体の破壊を意味した。文民統制など夢、幻であった明治体制そのものに植え込まれていた軍国主義ファシズムは対米戦・太平洋戦争で成熟し、崩壊した。

明治体制は粉飾、偽装され続けた。アジアの小国が列強に「近代国家」として認知されるためスカスカの憲法を定めた。欽定憲法の体裁をとったこと自体、それはまっとうな憲法でない。否、憲法と言える代物ではなかった。戦後はこの外見的立憲主義を基に天皇を立憲君主と言い繕った。帝国議会は自由民権運動の封殺とともに、軍事大国化のための円滑な資金調達・外債発行を目的として急ぎ設けられたのが実態だ。大正デモクラシー、大正ロマン、民本主義などは自由と人権、個人の解放、社会主義、コミンテルンなど世界規模で台頭した大きな思潮や運動による不可避ながらささやかな影響であり、これを過当評価して「民主日本の萌芽」と偽装してはならない。

 

注:以下は、本ブログに掲載済みの関連記事である

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