2017年以来4年近く母親の金銭問題などで日本メディアの執拗なバッシングにさらされ続けた小室圭さんと2021年10月末に結婚した秋篠宮長女の眞子さん。二人は翌11月に米国のニューヨーク(NY)で新たな生活を始めた。父秋篠宮に事実上勘当された形の亡命である。あくまで推測の域を出ないが、これから点検する一連の出来事は戦前の1910年代から続く日本の天皇家と世界最大の富豪ロックフェラー家との深いつながりが「亡命」を可能にしたことを示唆している。とりわけ1975年、1994年の訪米で裕仁、明仁両天皇はともに私人宅であるロックフェラー邸での晩餐会出席を受け入れた。「異例中の異例の対応」であった。皇室、宮内庁の意向を忖度してか、日本の三大紙、日経、NHKなど日本の主要メディアは「ロックフェラーと天皇家の絆」についての報道をタブー視している。小室夫妻のNY亡命は本ブログのテーマである「戦前と戦後を貫く『変わらない日本』」を映す鏡でもある。「近代日本と米英支配層」という問題設定で亡命事件の背後を簡単に探ってみる。
■ICU、ジャパンソサィエティ、ロックフェラー4世
まずは小室夫妻が出会った国際基督教大学(ICU)の創立時から時系列的に「ロックフェラーと日本」に関わる出来事を拾い挙げてみる。
【写真】東京都三鷹市のICUキャンパス
1953年のICU開学にむけての働きかけにはダグラス・マッカーサー、昭和天皇の弟高松宮をはじめ日米トップ人脈が関わった。当然そこにはロックフェラー家も名を連ねた。
最も日本に深く関与したのがロックフェラー三世(1906 – 1978)である。この人物はNYに1907年から設けられていたジャパンソサィエティの理事長に1952年に就任し、日米間の表、裏の交流を取り仕切った。戦前の1930年代にすでに初来日していた同三世は1951年1月にアイゼンハウアー米政権で国務長官となるジョン・ダレス特使とともに日本独立のための講和条約締結の根回しのため来日した。公式記録からは消されているが、その際、裕仁天皇は宮中での非公式晩餐会にロックフェラー三世を招き懇談したとされる。ダレスとともに天皇と日米安保を巡る議論があったようだ。それを裏図けるように、裕仁天皇が197510月年に訪米し同三世と再会した際、「この訪米で裕仁天皇はロックフェラー三世との20年来の約束を果たした」と報道されている。
【写真】当時の皇太子夫妻が出席し2017年4月18日、東京で開催されたジャパン・ソサエティー創立110周年の記念レセプション。挨拶しているのはロックフェラー四世の息子ジャスティン・ロックフェラー。
同三世の長男ロックフェラー四世(1937~ )はハーバード大学で東洋史学を専攻し1961年に卒業した。その後、父三世の勧めでICUに3年間留学している。この間、同四世が秋篠宮の父で当時皇太子だった明仁天皇と密接に交流したのは疑いの余地がない。
その証拠に明仁夫妻が天皇になって五年後の1994年6月に訪米した際、NYではロックフェラー本家の私邸で異例の晩餐会が催された。冒頭記したように、昭和天皇も訪米中の1975年10日4日にロックフェラー邸を訪問、晩餐会で歓迎されている。この2回を除き、天皇の外遊で私人宅訪問が公式スケジュールに組み込まれたことはない。ロックフェラーが天皇家と特別な関係にあり、米国のみならず世界を背後で動かす巨大な私的権力であることをまざまざと見せつけた。
■アップイーストサイド、メトロポリタン、NY近代美術館
眞子さんはICUに2010年に入学して小室圭さんと2012年に知り合い、やがて将来を誓い合う仲となる。二人のNY移住計画は2014年に実質スタートした可能性がある。
2014年3月、ICU教養学部を卒業した眞子さんは、同年9月、英レスター大学大学院博物館学研究科に入学し、2015年9月、同大学院の課程を終えて帰国した。実は、これに先立ち眞子さんはICU在学中の2012年9月から翌2013年5月まで英国のエディンバラ大学に留学している。同大学では美術史を学んだ。ICUでの卒業論文は「明治時代における神話画の誕生、発展、そして葛藤」(英文、80頁)」と美術史に関するものだった。ICU卒業後、世界最大級の陶磁器コンペティション「国際陶磁器展美濃」を中心に陶芸関連の様々な行事が行われる3年に一度開催のトリエンナーレ「国際陶磁器フェスティバル美濃」の名誉総裁に就任している。
【写真】1929年に開館したニューヨーク近代美術館。設立の構想は、L.P.ブリス、C.J.サリヴァン夫人およびJ.D.ロックフェラー2世夫人という3人の女性による。
日本のメディアの中には、結婚した眞子さんのNYでの就職先として真っ先にメトロポリタン美術館とNY近代美術館の名を挙げた放送局があった。米国を代表するこの二つの美術館はロックフェラー財団の資金なしには存在しえなかった。後者はいまだにロックフェラー一族が理事長を務めている。ロックフェラー一族の数ある豪邸の1つがNY随一の高級住宅街アップイーストサイドにあり、それはメトロポリタン美術館のあるセントラルパークのイーストサイドに位置する。小室夫妻の住むコンドミニアムは近隣にある。
【写真】クロイスターズ美術館。ニューヨーク市のフォート・トライオン・パーク にある美術館。メトロポリタン美術館の別館として中世ヨーロッパ期の大修道院の建築様式を模してデザインされ1930年代に建築開始された。建物と、隣接する 16,000 m² におよぶ庭園はジョン・ロックフェラー2世からの寄付金によって創設された。ロックフェラー2世はアメリカ人彫刻家ジョージ・グレイ・バーナード (1863 – 1938)から購入した美術品コレクションをすべてメトロポリタン美術館へと寄贈した。
こうしてみると眞子さんは小室さんの出現もあって、NY居住を含め将来を見据えて英国のエジンバラ大学、レスター大学大学院に留学し美術史を専攻したとみるのが自然であろう。眞子さんとの結婚に向け大きな問題を抱えた末、小室さんはNY州の弁護士を志しNYフォーダム大学ロースクールに留学した。英国王室とロックフェラー家がこれをある程度世話したとみても邪推とはならないだろう。実際、先の10月26日の記者会見で眞子さんは「海外(NY)に拠点を作って欲しいと私が(圭さんに)お願いしました」と明言している。
■明仁、ジャクソンホール、ウォール街
2017年の眞子さんと小室圭さんとの婚約発表会見開催には当時の明仁天皇の承諾があったと報道されている。悪意を込めているとしか思えない小室叩き報道によって二人の責任に帰すべきでない金銭問題が浮上し、正式婚約どころか結婚の儀も見通しがつかなくなった。当時の明仁天皇夫妻はひどく心を痛めたことだろう。
ロックフェラー家がこれを案じて先んじて若い二人をNYに招こうとした可能性もあるが、いずれにせよ明仁天皇がロックフェラー四世らに孫の将来を憂慮し相談したことは確実と思える。
明仁現上皇は19歳だった1953年に英国でのエリザベス女王戴冠式に出席するため天皇の名代を名目に外遊し、この際、大西洋を渡り半年近く米国に滞在した。彼がアメリカの自由な空気を肌で感じたのはワイオミング州ジャクソンホールのロックフェラー家別荘に1週間ほど滞在し一切の公式行事から解放された日々といわれる。広大な国立公園に近接する別荘で世話をしたのはロックフェラー側近のケネス・チョーリーと専用のコック、護衛のみだったという。別荘でダンスや釣りを楽しみ、ドライブに行った近くの町では、生まれて初めてカフェテリアで一般市民に混じって昼食をとったとされる。
【写真】2017年8月に開かれた拡大ジャクソンホール会議。左から黒田東彦日銀総裁、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長、ドラギ欧州中央銀行(ECB)総裁。
この西部のロッキー山脈山麓の小さな町は米国の中央銀行にあたるFRBと全米12地区に分割されて配置されている連邦準備銀行の年次総会・ジャクソンホール会議開催で知られる。さらに主要国の中央銀行総裁を集めた重要な拡大会合も時折開かれるため、NYウォール街や米欧の巨大金融資本の隠された結集地とも言える。それを背後で取り仕切るロックフェラー家が別荘をこの町に設けているのもうなづける。日本の天皇家は米英財閥の力の大きさを誰よりも身をもって知っているに違いない。米財閥にとっても天皇家の利用価値は限りなく大きいはずだ。