1945年8月に日本が連合国に降伏して以降、米国の対日政策は金融資本や多国籍企業の意を汲んだ保守派がほぼ牛耳ってきた。民主化と非軍事化を徹底する初期占領方針を実行した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民生局(GS)には社会民主主義シンパのニューディーラーが集い、ポツダム宣言に沿って日本における民主的政府樹立に向け、まずは婦人参政権、労働組合法制定、教育制度改革、圧政的法制度撤廃、経済民主化の5大改革を指令した。しかし、GS草案に基づく日本国憲法が施行された1947年5月までに、ワシントンの国務省、国防総省内には日本の民主化にブレーキをかけ、これを反共の砦にすることを最優先する非公式なグループがすでに結成されていた。
【写真】日本国憲法制定に向けた、GHQ草案作成の中心的存在だったチャールズ・ケーディス。GHQ民生局(GS)の課長、次長として日本の民主化に尽力した。だがジャパンロビーの中核組織・アメリカ対日協議会(ACJ)が正式発足した1948年6月にくしくも発覚した昭和電工事件の収賄側として名前が取り沙汰されて失脚、翌年5月に帰国した。この事件の裏ではGSを敵視し反共工作を行っていたGHQ参謀2部のウィロビーらの暗躍があったと見られている。
このグループは、ジャパンロビーと通称され、1948年6月にアメリカ対日協議会(American Council on Japan,ACJ)として正式に発足する。この動きは1948年ごろから1950年代前半にかけて行われた米国における共産党員やそのシンパとみられる人々を排除する赤狩り(レッドパージ)の先駆けであった。
ジャパンロビーに集った連中は、民生局ニューディーラーによる民主化の徹底は日本に容共政権を樹立させることになるとの危機感を抱き、1946年には戦犯として収容された戦時中の日本政府要人、戦争協力者の早期釈放を画策し始める。彼らはなによりも米国の巨大資本、財閥の利益を優先した。それは世界規模で共産主義・社会主義の勢力拡大を阻止することとイコールであった。
1945年9月11日には東条内閣の閣僚ら13人を主に25人が逮捕され、巣鴨プリズンに拘留された。この中にいた元商工相・岸信介は東條ら7人のA級戦犯が処刑された翌日の1948年12月24日に不起訴のまま釈放されている。東條内閣の蔵相で戦後は政界復帰して岸を補佐することになる賀屋 興宣が起訴されて終身刑となった末、1955年9月に仮釈放されたのと比べてみると、岸を早期に無罪放免した異例の扱いが際立つ。ちなみに賀屋は東條内閣では東郷茂徳外相とともに米英との開戦に終始反対だったとされている。
【写真】釈放された実兄・岸信介を自宅でねぎらう佐藤栄作(右)
起訴されなかった岸の早期釈放の背景についてはさまざまに取り沙汰されてきた。だがカギとなるのは米ジャパンロビーの中核ACJの総元締めジョセフ・グルー元駐日大使(国務次官に2期就任)の意向である。グルーは回顧録「滞日十年」で次のように岸を激賞している。
「岸は日本において私が最も尊重する友人の一人で、彼に対する私の個人的友情と愛情は、何物もこれを変えることがありません」。
岸の収監は形だけだったともいえる。ではグルーと岸はどのようにして昵懇(じっこん)の間柄になったのか。
(続く)