日米安保という軛、寂しきアジアの孤児・日本 【差替版】             「攘夷のための開国」の果て(番外)

本ブログは2025年2月に始めた。早いもので5年の歳月が流れた。安倍元首相暗殺やウクライナ戦争を筆頭に時々のトピックスを自分の問題意識に沿って論じてきた。この間、思わぬ好意的評価をいただいた一方で、心をくじけさせるのが目的と思える辛らつな罵詈雑言もあった。

貫いたテーマは「戦前と戦後の連続性」「戦前思想を超克できぬ戦後民主主義」「戦後民主主義の形骸化と新たな翼賛体制の形成」である。日米安保体制は敗戦の軛(くびき)である。失われた30年と言われる1990年代からの経済衰退で2013年度以降はODA支出も減少基調にあり、アジア諸国の関心は総じて中国に向かっている。途上国は上海協力機構(SCO)、アジアインフラ投資銀行(AIIB)、拡大BRICSへと向かい、米英に代わる新たな世界秩序形成の模索が始まっている。その動きが加速すればするほど米英は中国やロシアの体制を排除すべき専制主義として攻撃を激化してきた。こんな中、米英に追従する日本は自立の道を見いだせず、孤立の度合いを深めている。軛からの自由が70年続く日本の焦眉の課題と言える。

まとめとしてややランダムに書き始めているのが「『攘夷のための開国』の果て」というこのシリーズである。見えてきたのは「明治維新」「近代化」というものが必要以上に化粧されて描かれ伝承されてきており、シリーズの目的はこれを是正することにある。開国の第一義的目標は佐久間象山が吉田松陰を諭したように「遠からぬうちに夷の術(欧米由来の技術)をもって欧米列強)を征す」にある。

尊王攘夷運動の拠点水戸に藤田東湖を訪ねた西郷隆盛も明治初年、「攘夷のための開国」を口にしたという。それは倒幕・維新を遂行した志士たちの共通した思いであったことだろう。攘夷のためには一にも二にも軍事力強化と兵站を潤沢にするための富国政策の推進が必要となる。

 

幕末の思想家佐藤信淵(1769~1850)は主著「混同秘策」で神国日本は世界征服の道を歩めと説いた。佐藤は国学者平田篤胤とも接触しており維新の思想的基盤となった後期水戸学とも通じる。皇大御國ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也故モ能ク其根本ヲ經緯スルトキハ卽全世界悉ク郡縣ト爲スヘク萬國ノ君長皆臣僕ト爲スヘシ」と筆を起こし、強烈な日本民族至上主義を基に中国侵略を手始めに世界征服の方法を極めて詳細に記述している。志士たちの激越な倒幕、維新、大陸侵攻の志向が代弁されており、維新の三傑大久保利通から戦時中の超国家主義者にまで愛読された。

明治期の軍事費は平時でも歳出の3割を占めた。1930年代日中戦争がはじまると7割を超えている。文明開化・欧化政策、資本制経済導入、殖産興業、富国策はそのための手段に過ぎなかった。内閣制度発足、欽定憲法制定、帝国議会開設は民権運動封殺、軍事偏重の専制政治断行のための擬制・カモフラージュと言える。

例えば、どの歴史書、教科書をみても大抵は明治初期の啓蒙思想の導入、自由民権運動から「大正デモクラシー」「護憲運動」までを必要以上に強調。続いて「政党政治から軍部の台頭」という項目がある。そもそも幕して出現した明治新体制の目指すものは、上記のように軍事強国形成の一点に絞られていた。憲法で天皇の統帥権を絶対化し、薩長藩閥による内閣自体が陸軍、内務省支配であった。

軍事にそれだけの支出を充てれば、都市、農村を問わず下層・貧困層への福祉という視点は皆無。民衆史的な観点からは、江戸期と同様、小作人は移動の自由は与えられたが依然として農奴であり、都市への潜在流民であり、収奪と弾圧の対象にすぎなかった。明治体制とは初めから国民の義務という名で皆兵役を課した軍国政治であり、満州事変以降の動乱をもって「台頭」というは、国会開設以来それまでが曲がりなりにも「民本主義だった」と言いたいがためであろう。

薩長政府を資金援助し指導した英国は朝鮮半島を目指し北東アジアへ進出するロシアを阻み、ロシア・フランス・ドイツ3国による中国分割を阻止するための尖兵として日本を利用しようとし、日清、日露戦争を経て日英同盟(1902~1923)に行き着く。南北戦争で帝国主義化に出遅れながらも19世紀末から新たに太平洋をフロンティアとした米国は中国への橋頭保フィリピンを植民地として、英・露・仏・独・日の進める中国分割に加わろうとした。それが米国による日露戦争への対日介入、日英同盟解消、そして太平洋戦争へと進む。「坂の上の雲」などという明治描写は日本支配層の自己満足による幻覚にすぎない。

米国が台湾有事を煽り、イギリス、豪州というアングロサクソン同盟国のみならずNATO主要国フランス、ドイツまでを参加させ、日本を再び尖兵として共産中国とロシアを軍事包囲させている状況は19世紀末から20世紀初頭の東アジアの軍事緊張を彷彿させる。今やかつて植民地として欧日の侵略を受けたASEAN10か国は、中国とロシアが主導し、世界のGDPの3分の1を占める拡大BRICSへと動いている。主要先進国と胸を張ってきたG7は「西洋の没落」そのものとなった。

【写真】「バクー宣言」を採択した非同盟諸国外務大臣会議:イスラエルのゴラン高原占領を非難(2023年7月6日)

 

なにより深刻なのは日本がかつてのAA会議・非同盟諸国運動をけん引してきたグローバルサウスの雄マレーシアやインドネシアなどの呼びかけに耳をふさいできたことだ。具体的には、日本の戦後歴代政権が米国の圧力に怯え「米国抜きのアジア諸国グループのリーダー」になれとの声を受け入れる意思も胆力もなかったということだ。

オバマ政権以前は訪米前に日本の首相が米国に代わってASEAN諸国を「御用聞き」回りしていた。だが、今やどの国も日本政府を本気で相手にしなくなった。1990年代からの中国に対抗する「日本主催」の太平洋島サミット、中央アジア5か国対話などは露骨な米国からの督促による代理「外交」である。フィリピン南部ミンダナオ島のイスラム教徒居住区では米国務省傘下の国際開発庁(USAID)に代わって日本外務省傘下のJICAがミンダナオ和平・開発支援プログラムを引き受けた。実はこのプログラムは、これを隠れ蓑に、アジア財団やCIAといった名だたる米諜報機関が裏でイスラム反政府テロ組織と組んで暗躍していた代物だ。

「毒を食らわば皿まで」と日本政府が内心開き直れば直るほど、アジアの隣国は日本に愛想を尽かしてしまうだろう。中露、朝鮮を不倶戴天の敵とする日米安保という軛がアジアの孤児・日本を生んだ。 あまりにアメリカ、アメリカ…。「ルックイースト(Look East)」と日本の奇跡を尊敬していたマハティールは今や日本を見向きもしなくなった。

注:反米・親中露路線でフィリピン外交に革命を起こしたドゥテルテ退陣後、フィリピンはマルコスJr政権が極端な親米路線を採り、ドゥテルテ派は激しく反発している。ドゥテルテ派の巻き返し、マルコス一族の再追放もあり得る。

プーチン追放企て戦争仕掛けたのは米ネオコン ドゥテルテ体制転覆は中露の比支援で頓挫