「今は安保条約を受け入れる。ソ連・中共を倒すまでは面従腹背、忍従の時だ。いずれは破棄し、アメリカを追い出して日本は自主独立する。」1967年9月、東京・銀座で街宣活動をしていた大日本愛国党の党首・赤尾敏に出くわした。演説の趣旨はこんなものだったと記憶する。1960年10月、日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎・社会党委員長を刺殺した17歳の少年・山口二矢の背後にいた右翼指導者として報道されたので、演説者が赤尾であると分かると自然に足が止まった。曲がりなりにも日米安保を受け入れる「親米・反共」右翼の存在を知り、違和感を強く覚えた。「右翼イコール反米・反共」と思い込んでいたからだ。
あれから半世紀余り経った。ソ連は崩壊したものの、中国が大きく台頭した。赤尾が生きていれば、「中共を倒すまで耐え忍べ」と叫ぶだろうか。恐らく、ポンペオ米国務長官の共産中国打倒宣言にもろ手を挙げて賛同するだろう。日米安保基軸という名の対米従属は半永久化している。
後年、赤尾の経歴を知って驚いた。戦前は左翼であり、堺利彦、大杉栄らのもとで社会主義を学び、後の日本共産党書記長・徳田球一らの支援を受けて農民運動に身を投じる。さらに軍事教練中に天皇制批判の演説を行い投獄されていたのだ。また戦前は武者小路実篤の唱える「新しき村」運動の実践の場だった三宅島で浅沼稲次郎とも交流していた。1925年ごろ獄中転向した。国家社会主義を唱え右翼へと転向した高畠素之の影響が大きいとされる。
公職追放された赤尾は解除後の1951年に大日本愛国党を結成。浅沼委員長刺殺事件当日の1960年10月12日、赤尾をはじめ愛国党党員十数人が日比谷公会堂の前部席に陣取っていた。赤尾はニュース映画「毎日ニュース」で「坊や(山口)がよくやったもんだ、偉いもんだ」と発言している。事件後の10月29日、日比谷公会堂での演説妨害(威力業務妨害)の容疑で逮捕された赤尾は山口が獄中自殺した2日後の11月4日、「直接の関与なし」として釈放される。翌1961年2月、嶋中事件が起き、この事件でも赤尾は殺人教唆などで逮捕されたが、これも嫌疑不十分で不起訴処分となった。注 そこには検察当局の政治的配慮が滲む。
生活困窮しながらも赤尾は参議院選挙に出馬しては落選を繰り返した。愛国党の政治活動資金の出所も不透明である。そこで想起すべきは前掲記事「安倍・菅政権と警察官僚」で触れたGHQ参謀2部に育成された「河辺機関」の2つの任務である。すなわち、「共産主義者・左翼を封じ込めるとともに、国家主義者・右翼を泳がせ、上手く利用する」ことである。
言葉を換えれば、反共のためにはたとえファシスト、極右、超国家主義者であっても活用した。米国の対日政策「逆コース」の原動力となったのは戦犯釈放、公職追放解除であった。それは大きな代償を生むことになる。
石油資源確保、ペトロダラー維持のためには女性の人権を認めず、いまだ斬首刑の行われる独裁王政のサウジアラビアを親米国として扱っている。目的のためには手段を選ばず。このリアリズムが覇権国アメリカを貫いている。
さて、赤尾敏・大日本愛国党総裁が使った街宣車には日の丸、旭日旗とともに星条旗が掲げられていた。「ソ連・中共の侵攻を防ぐには日米安保が必要」と訴えていたわけだ。米諜報機関にとって絵に描いたような「泳がせて、上手く利用」できる右翼団体であり、当然にも資金援助の対象となったはずだ。
【写真】1989年2月、昭和天皇の国葬(大喪の礼)に際し銀座で街宣する大日本愛国党 向かって左側の街宣車上に星条旗が掲げられている。
チャールズ・ウィロビー率いるGHQ諜報部門が赤尾を評価した最大の要因は、右翼でありながら、戦中に反体制派であったことだ。あの困難な時局に「米英との戦争は共産主義ソ連の策略に乗るだけである」と国策に敵対した赤尾は1942年の翼賛選挙に出馬、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選する。1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職、第82臨時議会では施政方針演説を行おうとした東条英機首相に対し妨害行為に出て、議場退場処分を受け、譴責の懲罰を下されるなど稀有な反体制派議員として名を馳せた。
米英に対して親和的、妥協的であるのは当然として、かつ”リアリスト”であること。これが戦後の親米右翼、親米保守であるための第一条件であることは言を俟たない。
それはGHQ参謀2部がスカウトした元日本陸軍中将・河辺虎四郎、さらには吉田茂、安倍晋三にも当てはまる。(続く)
注:嶋中事件 1961年2月1日、中央公論の嶋中社長宅を右翼が襲ったテロ事件。同誌が掲載した、天皇・皇后の首のない胴体などが登場する深沢七郎の短編小説「風流夢譚」は皇室を冒涜しているとして大日本愛国党の党員が夜間、嶋中宅に押し入り、二人を殺傷した。赤尾敏が首謀者として逮捕された。