自由、自立の定着で日独に彼我の差歴然 「奉祝」の2月に記憶蘇る

世界で唯一君主の治世を意味する元号の下で生きる日本人。日本を世界に類を見ない126代を数える皇統が連綿と続く万邦無比な国とする皇国史観をカレンダーに刻み込んだ二つの祝日が2月に続く。この日本列島とその周辺島嶼に暮らす大半の人々にとってこれは「一日何して楽しもうかな」と想いめぐらす普通祝日であろう。だがネットやYouTubeでは広告を主にこれでもかと大東亜戦争無罪論、敗戦の曖昧化と米国の対日占領政策批判、中国敵視や韓国蔑視をはじめ皇国日本賛美キャンペーンが日々溢れている。これが5年、10年と続けばとてつもないプロパガンダ効果を発揮してキャンペーンは人々の脳裏に染み込んでいく。決して積極的ではないが無意識にも左翼リベラル、中国、南北朝鮮への嫌悪や忌避感が刷り込まれている。政府主催の「奉祝」行事をこだわりなく受け入れ、日本人のナショナリズム高揚へと導く2月はことのほか息苦しい。こんな中、40年余り前、ドイツ現地で日独の自主、自由、民主主義定着を巡る歴然たる彼我の差に衝撃を受けた体験が脳裏に蘇った。

「日本を指導する」-チェックなき自負

【写真】1940年2月11日。紀元節を祝う日本の人々

 

1989年1月。昭和天皇の死に伴い、改元があった。当時の共同通信社編集局長は編集週報に「世界に唯一つの元号制度ならなおさら続けてやりたいという気持ちになる」と書いた。当時、彼は50歳代半ば。敗戦を契機にかつての軍国少年が民主主義とジャーナリズムを担った成れの果ての暴言だった

それから四半世紀経て、安倍晋三政権の安全保障有識者懇談会座長を務め、「結論ありき」で集団的自衛権行使を容認した北岡伸一東大名誉教授・JICA理事長は学生時代「俺の目の黒いうちに必ず憲法改正してみせる」と豪語した。

この秘話を雑誌で打ち明けた伊藤隆東大名誉教授(日本近現代史)は国を愛するというのは普遍的なもの」などと学者とは思えない薄っぺらい発言を平気で行う。まるで皇国史観学者平泉澄の戦後版として化粧し直されたような伊藤は「新しい歴史教科書をつくる会」をリードした。その権威ある肩書は多くの人を思考停止にし、その意見に賛同させて、日本賛美へと誘った。

北岡上記編集局長の東大法学部の後輩で、文学部の伊藤ゼミにも参加して門下となった。そろって日本の体制プロパガンダ装置の”権威ある部品”。戦前の平泉同様、彼らに共通しているのは「日本人を指導している」との自負だ。戦前体質を残す、チェックされることのほとんどない彼らの驕った言説を政治権力は保護し、利用してきた

■日本社会の底に淀む戦前体質

茶谷誠一・志學館大教授はコロナ禍と自粛についてこう語った。

「一部の軍人らが極東国際軍事裁判で裁かれただけで、国民が戦争を一致団結して支えた理由に真正面から向き合ってこなかった。」「新型コロナウイルスの感染拡大は、戦時中から日本に根差す古い体質を浮き彫りにしているように見える。現在の政府の対応や国民の反応を、近現代の日本に引きつけて見つめ直し、問題点をあぶり出す作業も必要ではないだろうか。」

全面同意する。だが、「問題点をあぶり出す」のはともかく、「国民の反応の在り方や姿勢」を変えていくのは難題中の難題、至難の業である。差し当たりは、自民党のリベラル派とされる宏池会を主宰する岸田文雄率いる政権が安倍・清和会の似非右翼・対米追随路線の抜本的転換を内に秘めつつしぶとく生き延び、中国・韓国との和解を一歩でも前進させ、ASEAN諸国さらにはロシアの日本への信頼を回復させる保守リベラル路線を再構築するー。幻想だと失笑されようが、これに一縷の望みを抱かさせるほど今日の日本の野党勢力の衰退は目を覆わんばかりだ。

それを象徴するのが今日の日本共産党の天皇制や日米安保などに対する現状妥協路線である。1960年代後半に一定の実を結んだ安保条約廃棄を結節点にした社共の野党共闘は社会党が消滅してもはや幻となった。確かに、世論の右旋回で天皇制の是非論議は自公維新に格好の反共攻撃の口実を与え票、議席の激減を招く。だからといって「天皇制は廃止しない」と明言し、安保廃棄、自衛隊解消にも口をつぐんでしまえば元も子もない。天皇制に関して言えば、せめて党綱領にある一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原 則と両立するものではない」との文句を全面に出したらどうか。それもできない。委縮してしまっている。

■敗戦国ドイツの裁判官

さて茶谷のいう「戦時中から日本に根差す古い体質」は日本人の宿痾と言える。

この古い体質について一言。

会社記者時代、日本の判事と直接話をすることは不可能だった。日本の裁判官は憲法で保障された独立を自らかなぐり捨てている。官舎と裁判所の間は送迎車で移動し、裁判官室の前には書記官室が設けられ記者の出入りを固く拒む。法廷内の撮影は厳禁。尤も現在は特定の報道機関に開廷前数分の録画収録のみ許可している。だが一般傍聴者はメモも取れない。年に一度は開かれる裁判官会同で直接間接に最高裁の指示を受ける。個々の裁判官は独立どころか、最高裁判所に統制されたパペットに限りなく近い。

1980年代初めに滞在したドイツで忘れられない体験をした。当時の西ドイツに大量移住し差別されていたトルコ人労働者が容疑者となった殺人事件の公判を取材した。廷内写真を撮りたいが、法廷には「写真撮影禁止」とある。書記官に聞くと裁判官の許可がいるとのこと。そこで裁判官室をノックした。主席判事は突如現れた東洋人にいささか面食らったようだが、写真撮影は「被告人、検察官が同意すれば」との条件ですんなりと許可してくれた。上司の判断などない、自主自立での即決であった。翌日の法廷で裁判長は「日本の記者が冒頭の写真撮影を求めている。被告人、検察官の意見を求めます」と語りかけ、撮影を可能としてくれた。

【写真】ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州カールスルーエ(Karlsruhe)にある連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht)。建物は質素だが存在は重い。ドイツでは議会や政府の所在地とは別の都市に、最高の司法機関を置くのを常としてきた。ライン川を隔てフランス領土を臨む、南西ドイツのスイスとの国境にほど近い人口約30万人のこの都市は首都ベルリンから500キロ以上離れている。まさに司法の独立を黙示し、「行政、立法権力と象徴的な距離」を保っている。

■革命の只中、独市民が憲法草案起草

1848年3月ドイツ各地に市民革命が起こった。プロイセンでは3月18日ベルリン市民、労働者が蜂起、自由主義的なカンプハウゼン内閣が成立して国民議会が発足、新憲法草案が発表された。5月にはフランクフルト国民議会=左の絵=が成立してドイツ統一が討議された。しかし10月にはウィーン、11月にはベルリンで反革命が発生、フランクフルト国民議会も消滅して革命は挫折した。

 

 

40年余り前に思い知らされた歴然たる彼我の差。衝撃的であった。英、仏に比べ、1848年3月革命の挫折とそれに続くプロイセン主導の第二帝政発足を根拠にドイツの後進性がよく語られる。だがドイツ市民階級は革命を完遂できず保守派の台頭を許したとはいえ、革命の過程で自ら憲法案を作成、国民議会に提出した。19世紀半ばのドイツには自由権、市民権がしっかり根付いていた。「大日本帝国憲法はドイツ帝国憲法を模範にした」とのよく使われる表現にも明治専制国家の作為と歪曲がある。ドイツ帝国憲法と大日本帝国憲法には彼我の差があった。前者には市民権が定められ、さらに議会の権限も大きく認められていた。ひとえに市民、労働者の命を賭しての階級闘争、革命運動の成果だった。

今日に至るも日本社会の惨めな後進性は如何ともしがたい。ともかく戦前の皇国神話を蘇らせる時代錯誤な奉祝行事の続く「建国記念日」、「天皇誕生日」を前に、個々人の日々の生き方に自主、自立、自由、抵抗の精神を揺るぎないものとする不断の努力と決意が求められている。