日本学術会議の会員任命拒否問題の核心は日本の大学や研究機関で生み出された軍事技術の成果を米国に提供することにあると書いた。ところが日本の親米右翼メディアはこのところ、やたら中国が日本をはじめ他国の優秀な科学者を招聘して取り込み軍事大国化を加速しているとして中国の脅威を煽りまくっている。彼らの組織は「親米プロパガンダ工場」というべきである。この工場はどのように生みだされたのか。
■中国は「諸悪の根源」
10月15日付の産経はこう報じた。
「中国は『軍民融合』を掲げ、民生分野での先端技術の軍事転用を進めている。また、他国の大学教員らを破格の条件で雇う『千人計画』などもあり、技術力強化に各国が危機感を強めている。」
日本会議傘下のオピニオン機関「国家基本問題研究所」の「直言」は中国脅威と重ねて学術会議批判キャンペーンを続けている。以下は10月5日の「直言」の一部抜粋である。
「・軍事研究を拒否し中国とは学術協力
一方、学術会議が力を入れているのが、「軍事研究の禁止」を旨とした防衛省関連研究の否定である。実例を一つ挙げる。北大は2016年度、防衛省の安全保障技術研究推進制度に応募し、微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らすM教授(流体力学)の研究が採択された。この研究は自衛隊の艦艇のみならず、民間のタンカーや船舶の燃費が10%低減される画期的なものである。このような優れた研究を学術会議が『軍事研究』と決めつけ、2017年3月24日付の『軍事的安全保障研究に関する声明』で批判した。学術会議からの事実上の圧力で、北大はついに2018年に研究を辞退した。
学術会議は、日本国民の生命と財産を守る防衛に異を唱え、特定の野党の主張や活動に与して行動している。優秀な学者の学術集団でありながら、圧力団体として学問の自由を自ら否定している。これに対し、国立大学協会会長の永田恭介氏(筑波大学長)は今年3月26日の記者会見で、『自衛のためにする研究は(募集する)省庁がどこであれ正しいと思う』と学術会議に批判的な見解を述べている。筆者も含め賛同する研究者は多い。
さらに学術会議は2015年、中国科学技術協会と相互協力する覚書を締結している。中国による少数民族の抑圧、香港の弾圧、南シナ海の軍事基地化といった強権的行動に国際的な批判が強まる中で、日中学術協力の抜本的見直しが必要ではないか。」
■米国の幕府:批判はタブー
彼らは米国が「戦後日本」をいかに利用してきたか、また新日米防衛協力指針をはじめどのように半永続的に日本を利用しようとしているかについてはまったく触れようとしない。敗戦後、フルブライト奨学金をはじめロックフェラー財団やフォード財団などが設けた留学支援制度で多くの日本のトップクラスの研究者、学生が渡米して米国の科学学術振興、ひいては軍事技術の発展に貢献してきた。
敗戦国・日本は米国に包み込まれてしまった保護国である。「日米一体」、「日米協力」とアドバルーンを揚げてみたところで、その実態は「米国への朝貢」である。不満や怒りは表沙汰にしてはならないという不文律が出来上がった。反米は今やタブーなのだ。
ある日米関係研究者はこう記している。
「対日占領政策を鋭く観察していた…ロシア人ジャーナリストは『米国人の中には、新しい米国の幕府を樹立しようと考えている連中がいる。もしそれが現実になったら、米国人の主人に仕える運命-征服されるよりもいっそう悲劇的な運命ーが日本国民を待ち受けている』と付け加えた」(松田武 「対米依存の起源」 P21)
1990年代から日本にも大きな影響を及ぼしている米国のネオコンや新自由主義者グループこそこのロシア人ジャーナリストの指摘した「米国人」の後継者・末裔である。
■「経済優先」の裏
話は飛ぶが、1945年から1952年までの米国による占領下でいわゆる「逆コース」政策が行われ、共産主義の浸透を阻止するため多くの超国家主義的な右翼政治家が釈放されたり、追放解除された。最も著名なのが安倍晋三の母方の祖父岸信介だ。岸は首相として1960年に条約には双務性が必要として日米安全保障条約を改定し、自主憲法制定国民会議を主導した。
当時の米国の対日政策は第一に日本を反共の防波堤にすることだったが、同時に封じ込めなければならなかった日本の右翼勢力がこれを機に大きく復活することを憂慮した。日本の右翼の攻撃の矛先は当然にも米国に向けられていた。したがって「日本の国体と伝統」を破壊し尽くした占領政策の担い手・米国への復讐の念をどう抑え、取り込むかが喫緊の課題であった。
その解決策が岸を後継した池田勇人内閣の「寛容と忍耐」とのキャッチフレーズに基づく「所得倍増計画」、すなわち高度経済成長政策である。政治の季節を経済の時代へと転換し、ひたすら高い経済成長のもたらした「豊かな消費社会到来」「一億総中流意識」に日本の庶民を酔わせ、反共右翼を巧みに操りながら反米感情を薄めることに成功する。吉田茂を母方の祖父とする麻生太郎は昨年末、財務省での会見で「池田さんは熱烈な改憲論者だった。だがそれを抑えて新興宗教染みたキャッチフレーズで経済成長路線を採用した」と明かした。「軽武装経済優先」の戦後保守本流路線自体が米国の敷いたものだったとの示唆である。
■日本経済の弱体化へ
ところが、日本は米国の予想を超えて爆発的に経済成長した。武器を捨てた日本人は企業戦士として復活し、今度は「経済で米国に追いつき、追い越せ」を暗黙の目標とした。池田内閣登場から10年足らずで西ドイツを抜きGDP世界2位の座を獲得。以降、繊維、鉄、自動車、半導体と1990年代初めまで間断なく日米間に激しい経済摩擦が起きたが、日本人は1980年代後半のバブル期には米国との経済戦争に勝利したとの感慨に浸った。これを背景にワシントンは1991年のソ連崩壊時には「米国最大の脅威となった日本経済の弱体化」を次の目標と定めた。
その結果、つまり「第二の対米敗戦」がバブル経済崩壊後の「失われた30年」である。日本の経済力弱体化に向け米国が放った第一弾は1990年代初めの「日米構造協議」であった。それは要するに米企業にとって都合のよいように日本政府の外資規制を緩和、ないし撤廃することであった。そして「失われた10年」は「失われた30年」となった。この間の日米間の動きを仔細に観察すれば米主流のネオコンと新自由主義者グループがいかに日本人の富を収奪し、人々を格差と貧困の拡大に追いやったかが明らかになる。
■中国の台頭を最大限利用
米国への反感を中国嫌悪へと向ける-。ワシントンは「失われた10年」と時期の重なる1990年代から21世紀初頭に台頭した中国とその尖閣「侵攻」、南シナ海軍事化をはじめとする「領土拡張主義」の脅威を最大限に利用した。その「プロパガンダ主力工場」が1997年に発足した日本会議だ。そしてそれを数多の親米・反中右派メディアが囲む。そして安倍長期政権がディレクターとして登場した。
この「工場」からは「反米製品」は決して生まれない。右傾化の土壌は、間違いなく米国の日本経済弱体化によって培われた。しかし、ここ20年ほど論議を呼んでいる日本の右傾化は反中・嫌韓を主体とするヘイト色で塗りつぶされている。「反米を反中に」との米国の戦略はまざまざと成功した。