はじめに
岩波書店の月刊誌「世界」2012年6月号に掲載された「グアム移転見直しで浮上した米軍のフィリピン回帰」と同2014年7月号掲載の「中国の海洋進出と日比軍事連携への道」の原文をアップします。それぞれ米国による中国封じ込め戦略の最も重要な駒として日本が活用され、米軍がフィリピンに日米共同の軍事拠点を構築しようとする現在も進行中の動きを追ったもので、上の「中国封じる日米比軍事連携」は2つの記事の共通タイトルです。さらに関連記事「オバマ政権下の日米ASEAN連携」をアップしました。
続いて2019年2月に書いた「中比提携と東アジア新構図」を掲載します。2016年に外交政策を親中へと大転換したドゥテルテ政権がフィリピンに登場し、中国封じを巡る日米連携に決定的なほころびが生じています。上の3本の記事に通底する「中国封じる日米軍事連携」は大きく様変わりしました。韓国の対中接近、米韓同盟解消の可能性を含めて、東アジアの地政学、パワーバランスに大きな変化が生まれていることを指摘しました。記述は2020年7月現在の情勢を一部アップデートし、若干手直ししてあります。
この動きは著者がこの20年余り追っているもので、短文となりますが、近く最新の動向をまとめます。
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グアム移転見直しで浮上した米軍のフィリピン回帰 基地撤収後の日米比関係
■はじめに━水面へ浮上
フィリピン上院が1991年に米軍基地存続を図る米比友好安全保障条約の批准を拒否して、植民地時代から1世紀近く駐留した在比米軍は翌92年末までに全面撤退を強いられた。だが、米政府は撤収と同時に水面下で米軍再駐留への画策に着手し、10年後の米同時多発テロ(9・11)を契機にこれを実現した。続いて在日米軍再編に“舞台裏”で関わり、2006年の日米最終合意の際、日米比3国が沖縄駐留米海兵隊のグアム移転の一部をフィリピンに肩代わりさせると“密約”した疑いは濃厚だった。
2012年初来、米有力紙の報道を皮切りに、日米メディアでグアム移転の代替地候補のひとつとしてフィリピンの名が浮上している。首都マニラ北方のスービック旧海軍基地の再利用も報じられ、フィリピンへの米軍再駐留問題はようやく水面へと浮上した。同時に、日米両政府は沖縄からグアムへ移転する予定だった約8千人の米海兵隊員の半数弱を他のアジア・太平洋地域へ分散移転することを公式に認め、オーストラリア、ハワイとともに、「一時的滞在」との条件付でフィリピンの名を挙げた。
だが、独裁者マルコスを追放した翌1987年、当時のコラソン・アキノ政権はフィリピン民主化の象徴として新憲法を制定し、「条約があれば可能」との例外規定を付けながら外国軍駐留を原則禁止とした。今日まで改憲も、新たな基地条約の批准もなかった。だが米軍は10年前に再駐留を果たした。詐欺まがいのトリックと詭弁が重ねられた結果である。“根拠なき駐留”は、今日では中国の脅威、米国の財政窮迫、はては東日本大震災までを口実に促進されている。
■ワシントンポストの"特報"
米政府は2001年末、米同時多発テロ(9・11)を首謀したアルカイダと結び、比南部ミンダナオ地方を拠点とするイスラム過激派アブサヤフの掃討を名目に、アフガニスタンに続く対テロ戦争第2弾の場としてフィリピンを選択し、長期合同軍事演習を実施した。それは米軍の比回帰にとって千載一遇の好機であったからだ。
2002年2月から半年間に及ぶ、実戦そのものだったフィリピン国軍との対テロ訓練・合同演習に参加した米軍の主力は沖縄駐留の海兵隊員だった。これを契機に在沖米軍のフィリピンへの移駐が移動訓練名目で密かに進行した。これは非公式ながら2006年にいったん最終合意された在日米軍再編の一環を形成した。ただし、オバマ現政権は「フィリピン駐留米軍は陸軍特殊部隊の約600人」と公表している。だが、実際の駐留将兵数は海兵遠征部隊を中核に少なくともこの数倍に達しているはずだ。
このような経緯の下、米ワシントンポスト紙(電子版)が2012年1月26日付で「フィリピン、中国の台頭に抗し、米軍のプレゼンス拡大を容認か(Philippines may allow greater U.S. military presence in reaction to China’s rise)」との見出しを付けた記事を掲載し、米軍のフィリピン駐留規模拡大と旧スービック海軍基地再利用問題に関する米比両政府関係者からのリークを"特ダネ"として報じた。
記事の骨子は2012年3月中にワシントンで米比両国が国務長官・外相、国防長官・国防相レベルの閣僚級会合(2プラス2)を開き、軍拡を進める中国をけん制する目的で、フィリピンでの米軍のプレゼンス拡大を討議するとの内容である。豊富な石油資源の埋蔵が見込まれているため、中国が東南アジア諸国、とりわけフィリピン、ベトナムと領有権を巡り、武力行使を伴った深刻な紛争を引き起こしている南シナ海を外海とするスービック港への米艦船の寄港頻度の増大と米軍部隊の実質常駐が主な議題になる見通しと報じた。
1990年代後半から2000年代半ばまで10年余り、フィリピン現地で米軍回帰の動向を追い続けた筆者にとって、ポスト紙の記事は①米政府はフィリピン現憲法の外国軍駐留禁止条項を尊重する②米軍将兵の比滞在は期間限定となるが、ローテーション派遣なので長期滞在は可能③米政府は財政上の制約から東南アジアや豪州の既存基地の有効活用を図る━など主な情報源とみられる米国務省、ペンタゴンのこれまでの公式見解から一歩も出ておらず、目新しい情報はほとんど見当たらなかった。
唯一の例外はフィリピン以上に反中意識の高まりをみせているベトナムを機に乗じて取り込もうとする米国の動きであった。具体的には、①ベトナムは2009年から米艦船の補修を請け負い始めた②ペンタゴンが米軍基地化に執念を燃やし続けた旧ソ連海軍基地カムラン湾への米軍艦船の入港が2011年8月、38年ぶりに実現した━と報じて、近い将来、米軍による旧カムラン基地の本格利用に道が開ける可能性を示唆した件である。
中国東南端に位置し、ベトナムと隣接する海南島南部の三亜港には中国海軍原潜基地が設けられたと伝えられる。スービック港に続き、三亜に近接するカムラン港が米軍の拠点となれば、南シナ海及び西太平洋地域における中国海軍の活動への決定的な抑止力となる。
一方、マニラからの報道によると、ロサリオ比外相は同年2月末、「米比両政府は4月30日に「2+2」会合をワシントンで開く」と語った。会合後、①米国がフィリピンの南シナ海における領海域や排他的経済水域(EEZ)の保全、公海域での航行の自由確保のために軍事支援を行う②比政府は恒常的に南シナ海の自国領海や公海域で米軍と合同軍事訓練を実施する③そのために米海兵隊員らのローテンションでの比滞在を認め、これに必要な便宜を供与する━との共同声明が発表されることとなる。同年6月初めまでにはアキノ比大統領が訪米し、オバマ米大統領と最終合意する予定だ。
だが、比政府筋によると、米将兵の滞在先は中国海軍との領有権問題をめぐる軍事緊張が高まるばかりの南シナ海に直接面した比最西端のパラワン島となる。確かに、資源の宝庫である南シナ海・南沙諸島に近隣する同島西方沖で近年、米比両軍は頻繁に合同軍事演習を実施してきた。しかし、同島には比国軍西部方面本部が設けられているものの、まともな軍事施設はない。米比両政府が当面“パラワン島滞在”で押し通し、スービックを実質拠点とする方策を選んだのは、一端撤収させた旧米軍海軍基地の再使用が内外で論議となるのを回避する措置とみられる。
■米財政危機と国防費削減
「米国統合参謀本部議長マイケル・マレン大将は、米国の国家安全保障にとって何が最大の脅威だと思うかと聞かれて、連邦政府の赤字だと答えた」(2011年7月25日付英フィナンシャル・タイムズ電子版)。
危機的な水準に達した米国の財政赤字は、世界の総軍事支出の半分を占めるまでに膨らんだ米国の軍事費の大幅削減を余儀なくしている。米議会は今後10年間で最低4900億ドルの国防予算の削減を決めた。「削減規模は5年間で1兆ドル規模」との指摘もある。マレン議長(当時)の発言は「経済力の衰退が世界における米国の覇権維持を揺るがしている」との危機感を軍部が共有していることを率直に示した。
軍事費に大ナタを振るわれ、世界中に展開している兵力が削減される中、米国は単独覇権の維持に血眼になっている。オバマ政権は過去10年間で国防費を年間7千億ドル超へと倍増させたアフガニスタンとイラクに駐留する米軍の撤収を進め、中国の著しい台頭への対抗を示唆しつつ、アジア・太平洋地域最重視を繰り返し唱えている。だが当然ながら、この最重点地域でもできる限り、経費は絞り込まねばならない。このためには同盟国を可能な限り多く束ねて、応分に費用負担をさせる集団安全保障体制の構築が不可欠となった。
この姿勢を象徴するのが太平洋の西端で南北に連なる形で位置する、日本、フィリピン、オーストラリアの3カ国間で相互に軍事提携を強化させ、中国の太平洋進出への“南北の盾”として機能させる米国の戦略である。日本は2005年からフィリピンと安全保障に関する次官級政策協議の年次会合開催を継続、07年にはオーストラリアと日豪安保協力宣言に署名した。2011年11月にオバマ米大統領が訪豪した際、米海兵隊の駐留を発表したオーストラリア北部準州ダーウィンの周辺域で、日本の自衛隊は親善訪問の名の下、豪軍と年次演習を続けている。フィリピンとオーストラリアは07年に訪問豪軍地位協定(SOFA)を締結、南シナ海周縁海域で米豪比の3カ国合同軍事演習を頻繁に実施中だ。
米国はオーストラリアに続き日本と2008年に安保協力宣言に調印したインドをこの〝盾”に組み入れた。2007年にはインド洋ベンガル湾で米印に日本、オーストラリア、シンガポールが加わりインド洋では史上最大となった合同演習を繰り広げ、ミャンマー、パキスタンのインド洋域に軍事拠点を設けた中国をけん制。翌08年には東シナ海や日本の房総沖でも米日印が合同演習を行った。南シナ海での軍事緊張がピークに達した2011年半ばには同海中心域にある南沙諸島を南方からにらむ形で米日豪がブルネイ沖で大掛かりな演習を実施したのは記憶に新しい。
こんな中、米軍はフィリピンを戦略的にどう位置づけ、今後どのように軍事的に利用しょうとしているのだろうか。この問いに端的に答えたのが2010年11月にメルボルンで開かれた米豪外務・国防相会議(2プラス2)での米国防長官の次のような発言だった。
「ゲーツ国防長官(当時)は『われわれはアジア太平洋地域に新たな基地を求めることには関心がない。むしろ、同地域における米軍のプレゼンスを強化するために、既存基地の使用をどのように強化するのに着目している』と述べている」(2011年8月8日付沖縄タイムズ電子版)。
■温存された軍港スービック
マニラ首都圏北方約80キロの中部ルソン地域に位置するスービック湾はスペイン統治時代末の19世紀後半に軍港として開かれ、20世紀初頭に新植民者米国によって受け継がれた。外海である南シナ海につながる湾口から湾奥への形状が広大な長方形型をなし、水深は30メートル程度を保つ。1990年に米比政府間で始まった在比基地存続のための新条約締結交渉において、米側はこの軍港として最高の条件を備えたスービック海軍基地だけは“死守”しようとした。
基地撤収後、クラーク旧空軍基地と並び「米国外の最大の米軍基地」と言われた約5万ヘクタールに及ぶ広大な敷地は比大統領府直轄のスービック湾開発庁 (SBMA)の管理下に置かれた。自由港・経済特別区へと転用するためのインフラ整備に日本政府はクラーク旧基地と合わせ、多額な政府開発援助(ODA)資金を投じて深く関わった。そのひとつが最新のコンテナ港建設だった。スービック湾を後背地から眺めてみると興味深い。新港とコンテナヤードは湾南東の高台にあるスービック空港(旧キュービポイント海軍航空基地)の西側海域をわざわざ埋め立てて造成され、湾最奥部にある旧海軍港湾施設はまったく形を変えずに保存されていることに気づく。
比政府や国軍筋によると、1992年末の撤収前に米国は比政府に軍用施設の保存を約束させた。9・11後、当時のWブッシュ政権は10年間温存されてきたスービックの艦船補修施設を東アジア地域での軍用艦補修の拠点として活用し始めた。そして副大統領チェイニーが就任直前まで最高責任者だったハリバートン社傘下のケロッグ・ブラウン&ルート社(KBR)がWブッシュ政権末期に旧軍港施設の管理・運営権を買い取った。SBMAによると、買収時には世界12カ国の軍用艦が旧米軍補修ドックを利用していた。
ハリバートン社はイラク戦争を頂点にブッシュ米政権が遂行した対テロ戦争に伴う軍用施設工事受注で最も恩恵を受けた企業のひとつである。米政府はこの時期、南シナ海の対岸にあるベトナム・カムラン湾の旧ソ連海軍基地借用にも動いたが交渉は挫折し、スービックの戦略的重要性を一層高める結果となった。
KBRが買い取るまではラモス元大統領に近いとみられる華僑系フィリピン人が〝ダミー会社”を設立し、SBMAと50年間の賃貸契約を結んで軍港スービックを“死守”した。おまけにKBRに移譲する前の2005年には比政府資金を投入して旧軍港の船舶補修施設と補給品倉庫など関連施設を再開発した。当時のSBMA担当者は「リニューアル事業は米国の権益と密接に絡んでいる」とあっさり認めた。
KBR社は9・11後、ミンダナオ地方西部バシラン島で2002年に半年間実施された米比合同軍事演習「バリカタン02・1」中に、空港、港湾など軍用施設や道路建設、病院、学校の新設・補修、上水道工事など50件を超える事業を受注。親会社のハリバートンは英蘭系ロイヤルダッチシェル、米シェブロンを中核運営企業として02年から本格商業稼動したフィリピン初の国産天然ガス採掘事業で、南沙諸島に近接するパラワン島北東沖のマランパヤ・ガス田開発工事を請け負っており、その利権はフィリピンに深く根を下ろしている。
■米議員、スービック再駐留を要求
日本も財政破綻の瀬戸際にある。2011年3月11日に発生した東日本大震災は日本政府にさらなる赤字国債依存の財政運営を強いて、歳出の大幅見直しは必至となった。こんな中、米国の国防予算削減の権限を持つ米連邦議会が日本の震災発生を受ける形で、同年4月下旬にフィリピンと日本にそれぞれ2人の有力上院議員を送り込んだ。比政府筋などの話を総合すると、フィリピンで米議員が「日本は未曾有の災害で沖縄駐留の米海兵隊グアム移転をはじめとする在日米軍再編を賄う財政余力を失った。在沖米海兵遠征部隊の旧米軍基地スービックへの移駐を引き受けて欲しい」と要請、比政府はこれを内諾した。
だが、表に出て脚光を浴びたのはカール・レビン上院軍事委員会委員長(民主)とジム・ウェッブ同外交委員会東アジア太平洋小委員長(民主)の日本訪問だけだった。2議員は北澤防衛相(当時)や松本外相(同)らと会談、沖縄現地を訪問して帰国後、ジョン・マケイン上院軍事委員会共和党筆頭委員とともに同年5月11日、3議員連名で宜野湾市にある米海兵隊の普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画を「非現実的で、実行不可能で、財政的に負担困難」とこき下ろし、普天間基地を在沖米空軍嘉手納基地へ統合する案を提起した。日本のメディアは3議員の提案を大々的に報じたものの、連動していたフィリピンでの出来事の重要性にはまるで無頓着だった。
普天間基地返還をうたった1996年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告から16年経っても、市街地に囲まれ危険極まりない同基地閉鎖の展望は開けず、固定化必至の見方さえ出ている。沖縄県知事は辺野古移転に必要な海面埋め立て認可拒否の姿勢を打ち出し、「普天間の移設は県外か国外へ」が沖縄の不動の民意となった。過去幾度か提案されては頓挫してきた嘉手納基地への統合に実現の見込みはない。日本の県外世論は「在日米軍施設が過剰集中する沖縄の負担軽減」の総論に賛成しても、地元に波及する各論になると拒絶してきた。
このように、普天間基地閉鎖問題が完全に行き詰まってしまった中、フィリピンを訪問したのは、米上院で事実上最高位の議長代行(President pro tempore )の地位にあるダニエル・イノウエ議員(民主)とサッド・コクラン議員(共和)だった。2人はオバマ政権が要求した在沖縄海兵隊グアム移転費約1億5000万ドルを全額削除した2012会計年度(11年10月~12年9月)軍事建設等歳出法案を11年6月30日に全会一致で可決した上院歳出委員会の委員長と副委員長だった。
ハワイ選出の最長老議員であるイノウエ歳出委員会委員長は同委員会傘下の国防小委員会の委員長を兼ね、軍事を筆頭に米上院での予算編成で最も力を有する。日系2世で50年近く上院議員の席にあるだけに、日本の政財界とのパイプも太い。コクラン同副委員長はW・ブッシュ共和党政権下で上院歳出委員長(2005-2007)を務めた長老議員で、両議員とも日本を訪れた2議員より格上だった。
■カムバック米軍!
米国側からの強い圧力で、比大統領府をはじめ関係機関は訪問した米議員との接触を地元メディアに許さなかった。このため、2議員の滞在中の発言は一切公表されていない。主要紙のひとつフィリピン・デイリー・インクワイアラー(PDI)だけが「米軍のスービック回帰は可能 グアム移駐遅延(Return of US forces to Subic possible US military build-up in Guam delayed)」との見出しを付け、両議員がマニラ北方にある旧米海軍基地スービックを視察した際にコンタクトした人物や比政府関係者からの聞き取りをまとめた記事を掲載した。
以下、同紙の11年4月28日付記事を筆者の現地での取材データで補足しつつ、2議員のフィリピンでの動きを追ってみる。
イノウエ、コクラン両議員は4月26日正午前、米政府機でスービック空港に到着した。エコゾーンの開発、管理、運営を担当しているスービック開発庁(SBMA)と地元サンバレス州オロンガポ市のトップらが両議員を出迎え、歓迎昼食会で2時間近く懇談した。
昼食会へ出席した人物は匿名を条件に、「米国の両議員は米軍のプレゼンス拡大の可能性を探っているようだった。米軍が使用できるスービックの施設は港湾、空港ともに20年前の撤収時そのままの状態で保持されている。現在、訪問米軍地位協定(VFA)に基づき米軍はスービックを拠点にフィリピン国軍と頻繁に合同訓練を行っており、当地でのプレゼンスを拡大する余地は十分にある」と話した。
2011年3月11日に東日本大震災が発生すると、米国務省と国防総省は直ちにハリー・トーマス駐比大使をスービックへ赴かせ、スービック自由港・経済特区の管理者であるSBMA長官に対し、日本を襲った地震、津波、未曾有の原発事故という三重の大災害が沖縄駐留の米海兵部隊のグアム移転計画に深刻な影響を与えたことを説明させた。1ヵ月後の米上院議員訪問の“露払い”となった、この米大使のスービック訪問もメディアには一切公表されなかった。
スービック港の地元サンバレス州オロンガポ市長ジェームス・ゴードンが米上院議員の訪問に絡めて歯に衣着せぬ発言をした。同市長は「日本での大災害発生は沖縄駐留の米海兵部隊が移転を予定しているグアムでの軍事施設建設・インフラ整備の縮小を強いることになった。米軍が再びスービックを利用するのは可能だ。われわれは米軍の回帰を歓迎する。フリーポート・エコゾーンの運営と米軍へのサポートサービスは両立できる」と述べて、現地を訪問した米有力議員がグアム移転予定の在日米海兵遠征部隊の少なくとも一部をスービックへと移駐させたいと比政府に要請したことを示唆した。
現市長ジェームス・ゴードンの実兄リチャード・ゴードンは前上院議員で、2010年フィリピン大統領選挙に立候補し落選したものの、比政界の実力者である。1991年の新基地条約批准をめぐってはスービック基地の地元市長として批准を支持する全国運動を主導した筋金入りの親米派として知られる。また、2002年以降、沖縄駐留の米海兵隊を移動訓練の名目でフィリピンへの移駐を促すにあたり、沖縄にまで足を運ぶなどアロヨ前政権の閣僚として重要な役割を果たした。ジェームス現市長の断定的な言い回しは比政府中枢のみならず、米政界にもネットワークを持つ実兄から確かな情報を得て出てきたとみて大過ない。
フィリピン国防省幹部の発言も歯切れが良かった。筆者がフィリピン滞在時に取材源のひとりだった局長級の人物は「われわれには米国からの軍事支援が不可欠だ。フィリピン国民にとって最良の選択であることがはっきりすれば、米軍に再びスービックを使わせたいとの米政府や議会の意向は歓迎する」と語った。
イノウエ、コクラン両議員は当然ながら、ベニグノ・アキノ大統領、ポンセ・エンリレ上院議長、アルベルト・デル・ロサリオ外相、ヴォルテル・カズミン国防相らフィリピンの政府、議会トップや関係閣僚と会談した。PDIはアキノ大統領と米議員との会談内容について、比大統領府報道官の「米軍のスービック駐屯は議題に上らなかった」との”建前コメント”のみ伝えた。
だが、米議員のカウンターパートだった比政界の重鎮エンリレ上院議長は2005年9月に筆者との単独インタビューに応じ、「在沖米軍の比移駐について法的に問題はない」と明言、さらに「米国との軍事協力促進のため、現憲法が定める非核条項の見直しは有りうる」と述べている。同議長はマルコス政権で戒厳令施行2年前から計25年間も国防相を務めた末、ラモス国軍参謀次長(当時)とともに1986年のマルコス追放を主導し、「今はベニグノ・アキノ大統領を後見している」(比有力紙記者)。
■回帰への道程
撤退から現在に至るまでの米軍のフィリピン回帰の流れをごく大雑把に見ると、2012年現在、それは3つの期間に分類できる。
1期目となる1992年から2001年までの動きはほとんど水面下でなされた。この時期はマルコス追放後のフィリピン社会の民主化・改革を担ったコラソン・アキノ政権(1986-1992)を後継したフェデル・ラモス政権とほぼ重なる。米軍回帰の礎を築いた同政権は米軍基地の完全撤収と同じ年の6月に発足した。一方、在比米軍基地撤収に照準を合わせたかのように、中国は同年2月から領海法(中華人民共和国領海および接続水域法)を施行し、石油・天然ガスの宝庫とされる南沙諸島をはじめとする南シナ海の領有権をほぼ独占しょうとする動きに出た。
このような中国の強引な手法への警戒感が南シナ海の部分的領有権を主張するフィリピン、ベトナム、ブルネイ、マレーシアといった東南アジア諸国を中心ににわかに高まった。こんな中、米陸軍士官学校(ウエストポント)卒で米政界と太いパイプを築いていたラモスは大統領就任後初の東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議で「在比米軍基地撤収による東南アジア地域での軍事的空白」を強く訴えた。対米軍事関係の再編成を目指したラモス政権は任期末に「訪問米軍の地位に関する協定(VFA)」の締結を果たす。
2001年9月発生の米同時多発テロ(9・11)がフィリピンへの米軍回帰の動きを一気に表面に浮上させた。米政府がアフガニスタンに続く対テロ戦争第2弾の場としてフィリピンを選んだためだ。2002年2月から始まった比南部での「テロとの戦い」で回帰への動きは2期目に入った。この掃討戦は実戦だったにもかかわらず、VFAに基づく米比合同演習・対テロ訓練として実施された。また、演習に参加した約1千人の米軍将兵の過半数が日本の沖縄県から派遣されていた。
この時期、在日米軍施設の75%が集中する沖縄県では1996年に日米両政府が合意した普天間基地の閉鎖計画の実施が進まず、「基地の整理・縮小」を求める声が一段と高まっていた。他方、6ヶ月間に及んだ米比合同演習が実施された比南部ミンダナオ地方の自治体首長らは米軍駐留を歓迎する意向を相次いで表明した。イスラム教徒の支配的居住域であるミンダナオ地方中西部と沖縄とが軍事的に補完しあえると判断した日米両政府は比政府から「沖縄駐留米兵のフィリピンでの移動訓練は可能」との言質を取りつけ、在日米軍再編の一環として隠密裏に沖縄からフィリピンへの米軍移駐が進められることとなった。
2011年には中国とフィリピン、ベトナムとの間で相次いだ漁船の拿捕、資源探査船への妨害などをきっかけに南シナ海をめぐる軍事緊張がかつてなく高まった。比政府はベトナム、日本と首脳外交を展開して両国との軍事連携を強化しつつ、米国の軍事力への依存を著しく深めた。これを機に米軍回帰は3期目を迎えた。
■再駐留のからくり
1期目の1998年2月に調印された「訪問米軍の地位に関する協定(VFA, Visiting Forces Agreement)」は翌99年5月にフィリピン上院において賛成18対反対5で批准された。これにより、比独立後の1947年に締結された米比基地協定の失効により途絶えていた米艦船の寄港、合同演習・訓練の実施、有事の際の共同行動、艦船や軍用機の補修など滞在する米軍への物品・役務・施設の提供が可能となった。
合同演習・訓練に関する期間の取決めが米側にトリックを演じさせた。VFAの条項では明文化を避けたが、米比両政府は訓練実施期間を最長6カ月と決めた。このため、米比合同演習「バリカタン02-1」は最長の半年間にわたって実施されたのである。さらに両政府は「訓練終了後、1日の間隔をおけば合同演習・訓練は再開可能」と取り決めた。つまり、「1日中断されて部隊が交代するので、常駐とはならない」との詭弁を弄して、米軍は「バリカタン02-1」終了後も公表数で約400人の将兵を残留させた。
その後、沖縄で在日米海兵隊を取材したら、過半の米兵が米本土やハワイ、グアムなどからほぼ半年毎のローテーションで日本に滞在していた。つまり、VFAの定める合同演習・訓練に参加する米将兵はローテーションで沖縄に移駐する将兵と同じ行動を取ればよいことになる。VFAにおける演習・訓練の実施期限6カ月の取決めは、常駐のための“抜け穴”として意図的に設けられたのだった。
02年の米比合同演習「バリカタン02-1」終了後、VFAを補完する目的で、演習活動に不可欠な物資、施設、役務の相互提供義務を補強する米比相互補給支援協定(MLSA)が米比両政府間の行政協定として締結された。「バリカタン02-1」を実施中、沖縄から派遣された米工兵隊はアブサヤフの本拠バシラン島に空港、港湾、道路・橋梁、通信施設など軍事関連インフラを新設したが、MLSA締結で演習終了後の撤去を免れ、米軍はこれら施設を半恒久的に利用できることになった。
さらに米政府は2006年4月、比政府と安全保障関与協議会協定(SEBA、Security Engagement Board Agreement)を締結した。協定は米比双方の国防・軍事に携わる政府関係者で構成する安全保障関与協議会(SEB)の設置を定めた。SEBはテロ対策を中心に国際犯罪、災害など広範な安全保障問題に共同で対処するとの名目で設けられたが、その目的は比共産党の軍事部門、新人民軍(NPA)ゲリラやイスラム教徒テロリストの掃討に加え、反米的とみなされる人物の根絶やしを図ることにあった。この協定は米国防総省、米中央情報局(CIA)、米軍特殊作戦部隊(SOF)による比国軍への一層の介入を促し、アロヨ前政権下で異様なまでに頻発した政治虐殺と深く関わっている。
比政府はVFAを除き、MLSA、SEBAともに議会の批准を避け行政協定とし、米政府に至ってはVFAをはじめすべてを行政協定として扱っている。比政府はSEBA締結を秘匿した。1992年の大統領選でラモスに僅差で敗れ、ラモス陣営による票の不正操作を告発してきたミリアム・サンチアゴ上院議員が締結から2カ月後にSEBAの存在を暴き出し、「ラモスが院政を敷くアロヨ政権による暴挙。比米の議会が批准していない協定は無効で、そもそも違憲だ」と激しく抗議した経緯がある。
このようして着実かつ強引に米軍回帰の条件は整備されて行った。当初、移動訓練と別称されていたフィリピンでの米比合同演習はやがて移転訓練と呼ばれるようになり、再駐留を果たした米軍は単独の演習や軍事活動に踏み切っている。
■安上がり駐留
1946年の独立後、フィリピン政府は軍事・経済援助の名の下に米国から在比米軍基地“使用料”を受け取ってきた。また在比基地は弱小国フィリピンの対米交渉での唯一の切り札であった。特に、長期独裁となったマルコス政権(1965-1986)がこのカードを巧みに駆使したため、ベトナム戦争や対ソ冷戦の激化した1960年代末から1980年代にかけ財政赤字拡大に悩まされていた歴代米政権に頭痛の種を与え続けた。
現在の米国のかつてない危機的な財政事情を考慮すれば、VFAに基づく合同演習・訓練を名目とした米軍の実質駐留は基地使用料の負担から解放された理想的な対比軍事関係であるといえる。今やかつての反米ムードは社会の表面からは消え去り、その反感と嫌悪は南シナ海のフィリピン領海や排他的経済水域(EEZ)を国内領海法に依拠して自国領と主張し、侵犯とフィリピン船舶への威嚇を繰り返す中国へと向けられている。
2010年6月に発足したベニグノ・アキノ3世政権は2011年前半に頻発した南沙諸島周辺海域での中国艦船によるフィリピン人漁師らの大量拿捕や各種船舶への武力威嚇を機に米国への軍事依存を公然と唱え始めた。そして南シナ海の名称を西フィリピン海(West Philippine See)へと変更した。2011年11月半ばにフィリピンを公式訪問し、米比間の一層の軍事協力緊密化をうたった「マニラ宣言」に署名したヒラリー・クリントン米国務長官は記者会見の場で"西フィリピン海”を多用し、「米国はフィリピンの領海権益と航行の自由を断固擁護する」と誓った。
こんな状況の下、南シナ海に面し、中国大陸とは至近距離のスービックへの回帰は米軍の東アジア地域での前方展開とって戦略的に大きな意義があり、財政的には極めて"安上がり”となった。しかもフィリピン政財界に歓迎されている。残された課題はさらに時間をかけて、これに反発する反米・左派勢力を掃討して、比社会の絶対多数を米軍スービック再駐留の黙認あるいは容認へと導くこととなった。
■在沖米軍の比移駐を巡る闇
2011年末の段階で、日本では沖縄県の宜野湾市普天間基地閉鎖と名護市辺野古への新基地建設による移設はとっくに不可能となっていた。またこれとパッケージとされていた沖縄駐留の公表数約8千人の米海兵遠征部隊のグアム移転が計画通り実現すると考える者も皆無といえる状態だった。米議会が2011年12月に海兵隊のグアム移転費を認めなかったことがすべてを物語ったためだ。
就任当初、「国外、少なくとも県外へ移設する」と発言し、自民党政権下での日米合意を覆した鳩山由起夫元首相の脳裏には間違いなく口外できないスービックの名が浮かんでいたはずである。なぜなら2009年の政権交代で民主党と連立した国民新党の下地幹夫幹事長(衆議院議員・沖縄1区選出)こそ在沖米軍の比移駐に10年近く直接関与してきた“仲介人”であり、筆者はマニラで接触を重ねた同氏の背後に日本の政界深部とワシントンの影を強く感じた。
フィリピンでは上院議員時代に米軍を追放した「12人の英雄」のひとりだったエストラダ大統領は2001年1月末、違法賭博、略奪罪などに問われ僅か2年半で大統領の座から追放された。これを仕掛けたのは米政権と組んだラモスであった。エストラダ追放後、副大統領グロリア・アロヨが大統領に昇格した。
マルコス追放の翌年に制定されたフィリピン現憲法は大統領の任期を1期6年とし、再選を禁じている。だが、任期半ばで辞任した前職を継承したアロヨには2004年の大統領選出馬が可能だった。強力な対立候補の出現で、劣勢が予想されていたアロヨにとって在沖米軍受け入れがもたらす利権は選挙資金を大いに潤したためか、アロヨとその側近は二つ返事で「沖縄駐留米軍のフィリピン受け入れ」を引き受けた。そのアロヨは現在、前任者エストラダに続き、不正選挙の罪に問われ獄中にある。
一方、比側から最初に沖縄を訪問した有力政治家は上述のリチャード・ゴードンだった。アヨロ政権の観光相に就任したゴードンは。2002年4月に沖縄を訪問し、フラッグキャリアー・フィリピン航空の那覇‐マニラ直行便就航を実現させた。沖縄とフィリピンとの交流は深まった。続いて、ラモスの側近中の側近で「懐刀」と言われたデ・ベネシア下院議長(当時)が同年9月に沖縄を訪ね、稲嶺恵一知事(同)と面談し翌03年9月の知事訪比を決めた。
稲嶺知事訪比に同行した沖縄県元幹部は筆者の取材に対して、「フィリピン訪問の際には幾つかの密約も交わされた。国だけでなく、沖縄県も公にできない資金を準備し、仲介役のフィリピン有力企業に便宜供与しなければならなかった」と語り、地元沖縄県からも比政界に裏金が流れたことを認めた。
■普天間を待つ?スービック空港
スービック湾南東部の高台に3000メートル級の滑走路1本を有する空港(旧米海軍航空基地)があることはすでに記した。米軍撤退後は民用のスービック国際空港へと衣替えし、米国の航空貨物輸送大手フェデラルエクスプレス(FedEx)がアジアの拠点として利用したほか、台湾系民間航空会社も定期便を就航させた。ところが、2009年にFedExのクラーク空港への移転が終わり、スービック空港は一時閉鎖状態に追い込まれた。
1991年に大噴火を起こしたピナツボ山は南方のスービック、北方のクラーク旧米空軍基地に挟まれた格好で位置している。クラーク基地は噴火により甚大な火山灰被害をこうむり、米政府は新基地条約交渉中に撤収を比側に通告した。9・11後、米軍のフィリピン回帰の動きが表に浮上したのに伴い、当時のアロヨ政権はマニラ空港を補完する国際空港として3000メートル超の滑走路を2本有するクラーク空港の再開発を始めた。FedExはクラークへの移転を漸次進めると同時に、アジア地域のハブを中国・広州へと移した。それまでにスービック空港を利用していた旅客航空会社もフライトを停止した。
2010年当時のSBMA長官は地元記者に「スービック空港はがらんどうとなってしまった。今後は補給・補修拠点として利用すべく投資を促す」と語った(2010年1月26日付マニラ・ブリティン電子版)。実際、2010年12月にはグアムを拠点とする航空機収納・補修を主業務とする米系会社が進出した。また、比資本の民間旅客航空2社が定期便を就航させた。
旧知のSBMA幹部は電話で筆者に対し「米系企業はグアムで米軍用機のメインテナンスも行っている。つまり、スービック空港はいつでも軍用に再転換できるということだ。フィリピンの民間旅客航空会社は利益の上がらないのを覚悟で、ダミーとして進出した。米軍が空港を使用するようになればすぐに撤退するよ」と明かした。
近い将来、米軍が合同訓練を口実にスービック空港に常駐し、駐屯する米軍将兵がグアムに移転する予定だった米海兵部隊の一部となる見通しは大である。しかし、最大の焦点は同空港が普天間基地の機能を丸ごと肩代わりする可能性にある。これはまだ闇の中と言わねばならない。いずれにしろ、スービックはすでに沖縄、グアムとネットワークを築いている。スービック空港が何を待ち受けているのかは時間が解決することとなる。
■基地再利用を拒否 即更迭
米国が露骨に「フィリピンの旧米軍基地の再利用」を求めるようになったのは好戦的な新保守主義者(ネオコン)に牛耳られたWブッシュ政権(2001-2009)が発足して間もなくのことだった。
2003年10月半ば、Wブッシュ大統領がタイ・バンコクでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)サミットへの出席の途上、フィリピンに1日だけ立ち寄り、フィリピンに特定産品への特恵関税適用や軍需産業育成とそのための研究・開発資金を付与できる非北大西洋条約機構主要同盟国(Non-NATO Major Allied)の地位を付与した。狙いはスービック、クラークの旧米軍基地の再利用に向け、フィリピンに"飴"を与えることだった。
その2ヶ月ほど前、マニラ湾を臨むフィリピン外務省本館に米国防総省からの使節団一行が姿を見せた。議題は「米比2国間で締結した訪問米軍の地位に関する協定(VFA)の運用について」で、13人の団員を率いたのは元米陸軍大将のロバート・セネワルド米国防大学教授(当時)、一行を迎えたのはアマルド・バルデス同省次官(同)。秘密協議であった。
フィリピン大統領府VFA委員会の事務局長を兼任していたバルデス次官は米国使節団の意図を知り抜いていた。一行と事前に接触していた部下から「代表団はフィリピンの旧米軍基地の再利用を打診しにきた。主な理由として日本、韓国両国民の米軍駐留に対する反感、特に沖縄住民の強い反基地感情を挙げた」との報告を受けていたからだ。「要するに、米側はVFAを〝金科玉条”として米軍が完全撤退した1992年以前の状態への復旧を迫ってくる」と同次官は読んだ。
後日バルデス氏は筆者に協議でのやり取りの概要を明かしてくれた。それによると、セネワルド団長は「VFAに基づいてフィリピンでの米軍の活動を可能な限り高いレベルに引き上げたい」と切り出した。バルデス次官はずばり「それは旧米軍基地を再利用したいということか」と切り返した。代表団のメンバーは返答に窮し、苦笑が漏れてきた。
同次官は声高にまくし立てた。
「歴史的な経緯を真摯に振り返ってみよう。そもそも比米関係やわが国経済の歪みの根源は米軍基地の存在によってもたらされてきた。米軍基地の撤収はフィリピンの真の独立の第一歩だった。時計の針は逆転できない」
「言うまでもなく、VFAによって米軍はわが国に駐屯できない。常駐は違憲であるし、現憲法の非核条項と反核法は核兵器持ち込みを禁じている。私は現在のVFAの運用自体を違憲と考えているので、これ以上高いレベルの米軍のフィリピンでの活動など検討の余地がない」
米側メンバーの表情には驚きと不快感がありありと浮かんだ。セネワルド団長は「米政府は米軍をフィリピン憲法の枠内で活動させているし、当然、今後も憲法は尊重して行く」「あなたの発言はわれわれとの協議の拒絶と受け取らざるを得ない」と述べて、協議は早々と打ち切られた。
協議結果の報告を聞き、激怒したブラス・オプレ外相(同)は即刻バルデス次官の更迭を決めた。フィリピンの主要紙はこの更迭人事を大きく報道した。
その後、大統領府の閑職に就いたバルデス氏は筆者に対し「自分の信念を伝える日がついに来たと考え、私ははじめから更迭覚悟で彼らとの面談に望んだ。協議に応じるつもりなどさらさらなかった」と告白してくれた。
この稀有な反骨の人は2年後には大統領府からも追われてしまった。米国はいまだフィリピンに対し事実上の宗主国として振る舞い、“その懐に抱かれる”のを拒む人物は追放を免れない現実をまざまざと見せつけた。
米比関係には日米関係と異なり、政治的従属という表現を超えたものがある。米国の意に沿わないフィリピンの歴代大統領はエストラダのように露骨に追放され、7代大統領マグサイサイは1957年に疑惑の残る航空機事故で死去している。極論すれば「服従か、死か」なのである。米比関係における暗部、すなわち反米と"認定”された人々への無差別な政治殺戮は今日まで連綿と続いている。
アムネスティインターナショナルなどによると、非武装の農民運動、市民団体、教会関係者のリーダーら約1千人が2001年以降10年足らずの間に比国軍兵士や警官とみられる覆面した武装犯に殺害されている。地元兵士、民兵、警官らに対し、テロ行為を密かに訓練・指導してきたのが「フィリピンに約600人駐留している」とオバマ政権が公表している米陸軍特殊部隊(グリーンベレー)にほかならない。筆者はその現場を鉱物資源の宝庫とされるミンダナオ地方中部で目撃してきた。
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中国の海洋進出と日比軍事連携への道 平和憲法破壊する米pivot政策
■中国の攻勢を逆手に~序にかえて
オバマ米政権の「アジア太平洋重視」、いわゆる方向転換(pivot)政策は二〇一四年四月二八日、フィリピンに米比軍事協力協定を締結させ、一九九二年末までに完全撤収した米軍を“正式に”フィリピン再駐留へと導いた。一方、「日米同盟」強化の掛け声の下、安倍第2次政権は集団的自衛権行使の容認時期をにらみながら、米比協定とほぼ同一内容とみられる対比軍事協力の実現を目指し、水面下の動きを加速させている。フィリピンが南シナ海での領有権問題を巡る中国との武力行使を伴った紛争で、ベトナムとともに、かつてない深刻な事態に直面しているのを奇禍として、自衛隊をフィリピンの国防に関与させ、有事に際し集団的自衛権の行使を可能にするためだ。
四月下旬に訪日したオバマ大統領は、中国との緊張が続く東シナ海の尖閣列島領有問題に絡み、「尖閣は日米安保条約第5条の適用対象」と米大統領として初めて明言。これを弾みとしたかのように、安倍政権は日本を米国はじめとする「同盟国」と共同して戦争の出来る国にすべく突き進んでいる。
米国に迫る大国となった中国は、日本を含む近隣諸国との領土紛争で強硬な姿勢を崩さない。この事態を逆手に取るかのように安倍政権は、国民の危機意識を煽り立てながら、「米軍に前方展開拠点を提供して自らは専守防衛に徹する」との日本の戦後レジュームの根幹を破壊し始めた。太平洋を東進する中国に対し、日本は、米国の傘の下、集団的自衛権を行使する態勢を整えつつ、まずはフィリピンとの軍事連携の道を選択した。
■米比軍事協定‐行政協定という抜け道
一九八六年に独裁者マルコスを追放した後、民主・自主独立・非核平和を掲げたフィリピン現憲法(一九八七年制定)は「条約があれば可能」との例外規定を設けながらも外国軍駐留を原則禁止した。比上院が一九九一年九月、米軍基地存続を図る米比友好安全保障条約の批准を拒否したため、植民地時代から一世紀近く駐留した在比米軍は翌年末までに完全撤収した。だが、四半世紀近く経て、米政府は比上院での批准手続きを意図的に回避、その際、取られた方法は、行政協定締結という「抜け道」だった。
一九九一年九月に新基地条約の批准が拒否されて以降、米比間では議会の批准が必要なはずの軍事関連条約を行政協定へとすり替え、「国権の最高機関」の諾否の判断を回避する姑息な手段がまかり通ってきた。二〇〇二年のテロリスト掃討名目で実施された米比間の長期合同演習終了後、米軍が拠点とした比ミンダナオ地方に新設した空港、港湾、輸送・通信施設など軍事関連施設を米軍が半恒久的に使用するのを保証する「米比相互補給支援協定(MLSA)」、反米組織と関連人物を根絶やしにする政治殺戮の実施を図るため、国防・軍事に携わる米比政府関係者で構成する安全保障会議(SEB)の設置を定めた「安全保障関与協議会協定(SEBA)」ともに、行政協定とされた。
米政府の米国内手続きに至っては、後述の一九九九年に比上院で批准された「訪問米軍の地位に関する協定(VFA, Visiting Forces Agreement)」から今回の米比軍事協力協定に至るまですべて行政協定として処理した。国民や議会に諮ることなく独断専行するフィリピン政府の外交手法がホワイトハウス主導であることに疑いの余地はなく、この点では、オバマ民主党政権とブッシュ前共和党政権にまったく差異はない。
オバマ政権のpivot政策の背後からは、中国の西太平洋、インド洋への進出を頑なに拒否しようとする米国の強固な意思が透けて見えてくる。日比両国は米国に「ユーラシア大陸東部沖を護衛する“南北の盾”、“不沈空母”となれ」と強いられる形で共同防衛体制の構築を進めてきた。これに伴い、平和主義を基調とする両国の現憲法の基本理念は骨抜きにされつつある。
■米比軍事協定と沖縄
米政府は在比米軍撤収とほぼ同時に水面下で再駐留への画策に着手し、二〇〇一年の米同時多発テロ(9・11)を契機にこれを実現していた。今回の行政協定締結による米軍再駐留はそれに「お墨付き」を与えたに過ぎない。
二〇一四年四月二八日。オバマ大統領がアジア四カ国歴訪を締めくくるフィリピンのマニラへ到着する直前、カズミン比国防相とゴールドバーク駐比米国大使が軍事協力協定(公式英語名:Agreement between the Republic of the Philippines and the Government of the United States of America on Enhanced Defense Cooperation)に署名した。
米比両国が公表した協定全文によると、①米軍は今後十年間、フィリピン軍基地とその施設を利用して比国軍と合同訓練、演習、共同作戦を実施できる、②比基地内に駐留する米軍将兵はフィリピン政府の監視下に置かれる、③駐屯する米軍部隊はローテーションで派遣され、常駐はしない━がその骨子となっている。だが、この協定は「新しい革袋に盛られた古い酒」だった。これは12年前に米軍がフィリピンに実質回帰する際に使われた詐欺まがいの口実の延長線上にある。
2001年の米同時多発テロ(9・11)を受け、アフガニスタンに続く対テロ戦争第二弾として翌02年にフィリピン南部ミンダナオ地方で半年間実施されたアルカイダ系テロ組織・アブサヤフの掃討作戦は、米比合同軍事演習とされた。それは「後方で米軍の訓練を受けた比軍兵士が前線でテロリストと戦う」実に奇妙な戦争で、演習はあまりに“稚拙”な言い訳だった。米軍の実戦参加に疑いを挟む余地はなく、「頻繁に単独で戦闘している」とも伝えられた。
これを皮切りに、沖縄、グアム、ハワイ、米本土から海兵隊、陸軍特殊部隊(グリーンベレー)を主力とする米軍部隊が移動訓練と称し、半年毎のローテーションでフィリピンに実質再駐留し始めた。今回の新協定は「米軍部隊はローテーションで派遣され、常駐しない」と謳うが、沖縄のみならず、グアム、ハワイなど米国領から派遣部隊でさえ米軍将兵は基本的に半年で交代している。したがって、「常駐しない」は虚言となる。
特筆すべきは、虚言を弄してフィリピンに回帰した米軍の主力が沖縄からの移駐部隊だったことだ。一九九二年に完全撤収した在比米軍部隊の大半は沖縄に移動しており、二〇〇二年から始まった米軍の比回帰は沖縄からの“里帰り”と言えた。ラムズフェルド米国防長官(当時)は、沖縄を視察した際、現地の反米軍世論を肌で感じ取り、「米軍は歓迎されるところに行く」と開き直ったと伝えられた。「歓迎される場所」の1つがフィリピンだったのだ。同時並行的に沖縄県への自衛隊配置が促進され、日米両軍の一体化=統合が具体化して行った。
フィリピンへの米軍の再駐留の“抜け穴”となった合同演習、移動訓練に法的根拠を与えたのが、上記の「訪問米軍の地位に関する協定(VFA)」だった。これによって、フィリピンが米国から独立した翌年の1947年に締結された米比基地協定の失効により途絶えていた米艦船の寄港、合同演習実施、滞在する米軍への物資・役務・施設の提供などが可能となった。
■ベトナム、「南北の盾」に参入へ
一九九〇年代に入ると、中国の海洋進出が米国、日本、東南アジア諸国などで脅威として喧伝され始めた。端緒は、中国が在比米軍の完全撤収した一九九二年に領海法を施行しての、東シナ海の尖閣諸島(中国名:釣魚島)をはじめ、石油、水産資源の宝庫とされる南シナ海の西沙諸島、南沙諸島などその大半の領有宣言だった。以来、東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟するフィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイの四カ国と台湾が激しく反発。今日に至るもASEAN加盟一〇カ国と中国との間で懸案となっている、南シナ海での活動に拘束力を持たせる「行動規範」策定の目途は立っていない。
中国の軍事台頭が本格化した二〇〇〇年代には、フィリピンがオーストラリアとの間で米比間のVFAと同等な訪問豪軍地位協定(SOFA)と物品役務相互提供協定(ACSA)を締結。以降、南シナ海とその周辺海域で米、豪、比三カ国合同の軍事演習を頻繁に実施している。一方、日本はフィリピンと次官、局長級の外務・防衛当局間協議の年次開催に踏み切り、オーストラリア(〇七年)、インド(〇八年)と安保協力宣言に署名した。
その後も、日本はオーストラリアとACSAを締結、自衛隊が豪軍との2国間合同演習を毎年実施している。米、日、豪三カ国の外務、国防(防衛)担当相が近年、フィリピン訪問を繰り返し、さらに二国間の外相、国防相会談に加え、事実上の「2プラス2協議」を頻繁に実施している。
さらに二〇〇六年一〇月には、ベトナムのズン首相が来日。南シナ海の西沙、南沙諸島の領有権を中心に激しく中国と対立を続けるがこの輪に参入する意向を示したとされる。これを機に日本、ベトナム、フィリピンの三カ国間でトライアングル首脳外交が繰り返えされ、西太平洋域への海洋進出を加速する中国をけん制する「南北の盾」を拡大させた。言うまでもなく、日中間の尖閣諸島の領有権紛争激化が「盾の拡大」を促した。
■米比新協定は自衛隊への呼び水
日比関係筋によると、安倍政権は現在、オーストラリア、インドに続きフィリピンと安保協力宣言の署名、米比新軍事協定とほぼ同一内容の安全保障協力協定(仮称)の締結という2つの選択肢を担保しながら、軍事連携に向け詰めの協議に入っている。当面は安保協力宣言にとどめるか、あるいは協定締結へと進むのかは、自民党と公明党とが与党間で行っている集団的自衛権行使容認を巡る協議の結果次第とみられる。
こんな中、電話取材に応じたフィリピン国防省元幹部(元国軍将官)は、「次官、局長級の事務レベル協議を踏まえた両国の国防・防衛相会談で、昨年末までに協定(Agreement)のアウトラインは出来上がった。日本の自衛隊は当面、(マニラ北方に位置する米海軍・空軍基地跡の)スービック、クラークにあるフィリピン国軍の施設を共同使用するようだ」と語った。
実際、小野寺防衛相は二〇一三年六月に日本の防衛担当大臣として八年ぶりに訪比。その後、一一、一二月にも訪問し、半年間に三回も矢継ぎ早にカズミン比国防相と会談している。この間、外務省も副大臣をフィリピンに派遣した。
オバマ大統領のアジア四カ国歴訪の直前、二〇一四年四月半ばにマニラで二〇〇五年からほぼ年次開催されてきた第七回日比外務・防衛当局間協議がマニラで開かれた。今回の事務レベル協議や二〇一三年末の日比両国の防衛・国防相会談の内容に立ち入るまでもなく、両国政策立案者の慌ただしい動きが「昨年末までに日比軍事協力に関する協定のアウトラインは出来上がった」との情報の信ぴょう性を補強する。
二〇〇六年に最終合意された在日米軍再編の目玉の一つとなった在沖縄米海兵隊のグアム移転に絡み、日米当局はグアム島アンダーセン空軍基地に増設される新飛行場を自衛隊と米軍との共同使用とする計画だ。言葉を換えれば、新飛行場は自衛隊基地となるのである。だが、米議会の予算凍結措置で建設計画は遅延し、さらに安倍第二次政権発足前には集団的自衛権行使容認の見通しが立っていなかったため、日本の関係筋は「自衛隊はグアム、テニアンなど米国領の米軍空軍基地で合同の訓練・演習を実施する」と弁明、日米両政府、そして米議会は口裏を合わせて、グアムの統合軍事開発計画を嘘で塗り固めてきた。
つまり、限定的にせよ集団的自衛権の行使が容認されるまでは、フィリピンに派遣される自衛隊は比国軍基地内、あるいは南シナ海のフィリピン領海や公海上で米、比両軍との「合同演習に徹する」ことになる。オバマ大統領が今回の歴訪先に選んだマレーシアも定期的に参加する可能性が高い。南シナ海の主要海域を自国領とした、一九九二年施行の領海法を根拠に中国政府がこの合同演習を領海侵犯と抗議し始めれば、尖閣問題で燃えたぎっている中国の反日感情にさらに火をつけるのは必至となる。
上記の日比関係筋によると、集団的自衛権行使容認が万一頓挫しても、安倍政権は少なくともオーストラリア、インドに続き、フィリピンと安保協力宣言に署名する見通しだ。いずれにせよ、米比新軍事協定の締結は自衛隊のフィリピンを拠点とする共同防衛活動への呼び水となっている。
■安倍ASEAN外交の真相は?
安倍首相は二〇一二年一二月の就任以来、一年足らずでASEAN加盟一〇カ国をすべて歴訪した。確かにかつてない異例な首脳外交だった。日本のメディアの中には「中国と韓国を除き、すべての東アジア諸国が親日であることがさらに明白にした」などと評価する向きがあった。
だが、この安倍ASEAN外交は果たして自発的なものだったのか。この疑問を解くカギは、再登板したばかりの安倍首相が早々と二〇一三年一月にワシントンに赴き、日米首脳会談に臨みたいと申し入れたのに対し、オバマ大統領が拒絶した事件だ。
訪米を断念した安倍首相は同年一月、代わりにベトナム、タイ、インドネシアの三カ国を訪問、ASEAN一〇カ国歴訪のスタートを切った。この見返りとして、オバマ大統領は同年二月、しぶしぶ安倍首相を迎え入れた。その際の冷遇ぶりは再録するまでもない。要するに、オバマ氏は「日米同盟強化などとつべこべ言う前にまずはASEANを回って来い」と一喝したとみるべきだ。
オバマ政権は二〇〇九年一月の発足以来、ヒラリー・クリントン前国務長官の精力的な歴訪を軸にASEAN外交を積極的に展開。ビル・クリントン政権時代にチモール問題で悪化したインドネシアとの関係修復、南シナ海での領有権問題で対中関係が悪化するばかりのベトナムとの友好関係促進、軍事政権が親中路線を貫いていたミャンマーの体制転換、マハティール政権時代には反米と非同盟諸国運動の砦だったマレーシアとの関係改善、在比米軍撤収を受け、直ちに米艦船の寄港、補修を肩代わりした親米のシンガポールやタイからの一層の対米協力確約の取り付けなどで一定の成果を収めた。
この米国の対ASEAN外交の成果は二〇一四年五月一一日にミャンマーの首都ネピドーで開かれたASEAN首脳会議で鮮明になった。関係各国や日本のメディアの報道などを総合すると、議場では中国を批判する声が噴出した。折から、中国が南シナ海のベトナム沖で石油掘削作業に着手。これに対し、ベトナムでは激しい反中デモが連日展開され、これに呼応してフィリピンでも在マニラ中国大使館前などで集会やデモが相次いでおり、首脳会議は中国非難の場と化した模様だ。
(注:フィリピンにドゥテルテ政権が誕生して以降、ASEANは総じて対中融和に転換)
採択された「ネピドー宣言」は、中国を名指しするのは避けたものの、首都ジャカルタに本拠(事務局)を設けるASEANの盟主インドメシアのユドヨノ大統領がこれを代弁した。インドネシア大統領府によると、同大統領はベトナムの「ASEANの結束が試されている」との声に応えて「南シナ海問題に(ベトナムやフィリピンなどと)同じように関わる」と明言。四月下旬にオバマ大統領を迎え入れたばかりのマレーシアなどもこれに同調し、中国を批判したという。
米政府はW・ブッシュ前政権時代から「東アジアの軍事的重心を(北=日韓から)南(東南アジア)へシフトさせる」との方針を打ち出していた。オバマ現政権のPIVOT政策の最重点地域はASEANなのである。
つまるところ、二〇一三年の安倍ASEAN一〇カ国歴訪はオバマ外交を補完したに過ぎない。良く言えば米国との責任分担であり、酷評すれば米国のダミーとして機能したことになる。もちろん、安倍ASEAN外交は、米国の財政負担軽減のための経済、軍事支援とともに、「アジア最後のフロンティア」となったミャンマーへ中国資本を駆逐する勢いで日米欧からの投資を殺到させた“功績”も上げた。また日本政府は中国からASEANへの移転投資を促しており、中国のインド洋進出の窓口となっているミャンマーの体制転換画策など中国封じ込めを図る米政府を後押ししている。
■日・米・中、三つ巴の確執
こうしてみると、ベトナム沖での石油掘削に象徴される中国の南シナ海での強硬姿勢の根っこに対米反発があるのは疑いの余地がない。これを補佐した安倍政権への拒絶感は激しさを増そう。中国のASEANに対する横暴、挑発とみるのは皮相に過ぎる。
中国は日本主導のアジア開発銀行(ADB、本部・マニラ)に対抗し、二〇一四年秋には日米を除外し、中国主導の「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」の設立覚書を東南アジア諸国と交わすと伝えられる。さらにウクライナ問題で米欧と対立、G7から排除されたロシアのプーチン大統領を同年五月下旬に上海で開催したアジア信頼醸成会議第4回サミットに招き、中露結束で西側に対抗する姿勢を改めて鮮明にした。
一方、間違いなく、オバマ大統領は改憲に固執する安倍首相に潜む対米自立志向を強く警戒している。四月の国賓としての日本訪問で見せた夫人非同伴、迎賓館宿泊拒否、それに先立つ夫人と娘の中国派遣など前例のないパフォーマンスは、二〇一三年一二月の靖国参拝での失望声明と同質の警戒シグナルと思われる。日本とフィリピンとの軍事提携は米国の傘の下での中国を標的にした共同防衛体制の構築であるが、同時に日米両国が水面下で確執しつつ進行している。
米国、中国、日本が三つ巴となって確執しているのを象徴したのがオバマの四月の「対中バランシング発言」だった。オバマ政権は米国経済の回復に不可欠なパートナーとなった中国に神経質に配慮を示す一方で、中国の軍事台頭に激しく動揺し、日本とASEAN諸国を束ねて封じ込めようとする自己撞着に陥っている。
二〇一四年四月二八日。マニラ入りしたオバマ大統領は記者会見で「米軍基地の復活はない」と“ダメ押し”。さらに「米国は中国の平和的台頭を激励し続けたい」との日本での“親中”発言に続き、ここでも「我々は中国との対決や対中封じ込めを目標としない。(東シナ海や南シナ海の)紛争地域を含め、国際的な行動規範を尊重させることがゴールだ」と独自の対中バランシング政策を貫いた。一連の発言は、中国の党指導部や軍幹部を苦笑させたに違いない。
フィリピンで最もリベラルとされる有力紙デイリー・インクワイアラー(電子版)でさえ鵺的なオバマ発言に失望と不満を露わにし、「(オバマは)フィリピン防衛を確約せず」(四月二十九日付トップ記事)と報じた。
■貫かれるユーラシア地政戦略
米国は太平洋戦争で降伏した日本を連合国の名の下に一九四五年から五二年まで占領下に置き、一八九八年の米西戦争の“戦利品”としてフィリピンを一九四六年まで植民地とした。歴史学上ほとんど議論になっていないようだが、米国が一八五三年の第一次ペリー来航時にフィリピンに先駆けて日本をユーラシア大陸進出のための橋頭保にしようと意図していたことを完全に否定することはできない。
しばしば傍証として引き合いに出されるのが、一九四五年九月二日、東京湾に停泊した米艦ミズーリ号上での日本の降伏文書調印式でペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗が再び掲げられたことである。
いずれにせよ、現在進行中の日本とフィリピンとの軍事連携を歴史的、地政学的な視点から考察することも、オバマ政権のPIVOT政策及び対日、対比政策を理解する上で欠かせない。
オバマ大統領の最高外交顧問とされ、カーター政権(一九七六-八〇)下で国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたズビネフ・ブレジンスキー氏がこのための入門書と言える著作を一九九七年に刊行した。「The Grand Chessboard(邦訳書名:世界はこう動く 21世紀の地政戦略ゲーム)」がそれだ。
同氏の主張の骨子は①冷戦終結後、史上初の世界覇権国家となった米国がなすべきは新たなライバルを再び出現させないことだ、②したがって、かつてソ連に指令されて米国の脅威となっていたような国の再現を阻止する統合的な戦略を構築すべきだ、③米国を脅かすグローバルパワーを生みだしそうな地域は西ヨーロッパ、東アジア、旧ソ連邦の領土、南西アジアだ━と言え、「世界全体が協力しあえる体制構築という最終目標達成までは、米国に挑戦する力をつける勢力をユーラシアから登場させてはならない」と提唱した。
この米国の国家意思は19世紀に起源を持つ。米国は米墨戦争(一八四六-四八)でメキシコからカリフォルニアなど北米大陸西海岸を奪取した後、一八九〇年に「フロンティアの消滅」を宣言。これを契機に太平洋を新たなフロンティアとみなして西進し、米西戦争(1898)を機にハワイ、グアム、フィリピンを次々と併合、占領し、中国大陸(ユーラシア東部)への進出をうかがった。
ブレジンスキー氏の提言は決して目新しいものではない。大西洋、太平洋の制海権を掌握した覇権国・米国がユーラシアの大陸国家である中ソをいかに管理し、その体制転換を図るかを画策する地政戦略は、第2次大戦終結と東西冷戦開始直後から米国の政治学者らが論じている。その代表格ニコラス・スパイクマンが、中国の海洋進出を「ユーラシア沿岸・周縁地域を指す造語・リムランド(Rimland)に隣接する東シナ海、南シナ海、そして西太平洋域の防衛」ととらえるべきとのヒントを与えている。
実際、鄧小平指導下の中国は1982年に海洋国家・米国の地政戦略への対抗策とみられる中国海軍近代化計画を策定した。換言すれば、それは「中華リムランド」の防衛を目的としており、今日の中国脅威論ではやし立てられている「挑発、進出、攻勢」という見方とは異なった捉え方が可能となる。
ここ10年ほどで流行語と化した観のある中国の第1列島線、第2列島線という海洋戦略用語は、19世紀の代表的な米海軍の戦略家アルフレッド・S・マハンが提唱した「第1層・2層の島嶼群」と一致する。つまり、米国にとって日本とフィリピンはユーラシア東部の中国大陸進出への橋頭保となる第1層の島嶼群の要なのである。一九九二年の中国領海法、今日の東シナ海、南シナ海での日本やフィリピンなどとの領有権紛争は太平洋を西進し、侵攻した米国に対する中国の反攻とみなしても大過ない。
■「日米同盟」という虚構
結論すれば、日本とフィリピンは一貫して米国の地政戦略上の二つの駒である。一九七〇年代後半から八〇年代にかけての日本の経済大国化と米国経済の衰退が、安保・外交面で事実上宗主国として振る舞う米国と敗戦国・日本との関係をいつの間にか同盟関係に仕立て上げてしまった。
「責任分担」の名の下、米国は主として財政面での肩代わりを促すために日本を便宜的に主要同盟国とした。実際、ブレジンスキー氏は上記著作で「日本は保護国だ」と本音を吐露している。経済力のないフィリピンは米国からの独立後も一貫して属国として扱われている。米比新軍事協定はそのいびつな関係をさらに強化した。
「取り込み、封じ込め」という飴と鞭で揺さぶり、中国の体制転換を図ろうとする米国の志向が露わになっている。だが一方オバマ政権が進める米中間の経済・戦略対話や軍トップ交流などからは「戦勝国としての米中連帯」「日本の軍事再台頭封じ」という面がうかがえる。
一九九〇年末にマレーシアのマハティール首相が米国抜きの「東アジア経済グループ(EAEG)」構想を提唱。これに激怒しクアラルンプールに乗り込んだブッシュ父政権のジェームス・ベーカー米国務長官(当時)は同首相に対し「アジアでの真の敵は中国と日本だ」と口走ったとされる。
米国は安倍政権が集団的自衛権行使で暴走するのを恐れている。その懸念を間接的に表明したのが安倍政権発足直前の二〇一二年八月に発表された超党派の対日提言・第3次アーミテージ・ナイ報告書である。頑ななまでに憲法改正にこだわる安倍氏をけん制し、現行憲法の解釈の枠内で集団的自衛権の行使容認に踏み切るよう釘を刺したからだ。
一方で、世界第2の経済大国となり、米国に迫る勢いで軍事費を急増させている中国と日本や東南アジア諸国との軍事緊張は、米国の軍産複合体だけでなく、日本、西欧諸国の軍需企業を潤わせている。新興の中国国営の軍需産業とて例外ではなかろう。
米国の日本ハンドラーや同ロビーにとって安倍晋三氏とそれを取り巻く時代錯誤なネオナショナリスト集団は「首輪をつけていられる限り」使い勝手がある。彼らが安倍再登板の舞台裏で暗躍したのは想像に難くない。
集団的自衛権の行使容認を巡る与党協議の座長を務める自民党の高村正彦副総裁は五月二一日、記者団に対し、「内閣が変わるたび、ころころと憲法解釈が変わることは、百に一つもない荒唐無稽の話だ」と語ったという。
しかし、「憲法改正ではなく、解釈改憲なら、米国に不利益になれば再び日本政府に解釈を変更させるだけで済む」との米国関係者の本音がワシントンから漏れて来そうだ。
ハノイからの報道によると、日本の与党協議開始に歩調を合わせたかのように、ベトナムのグエン・タン・ズン首相が同日、フィリピンを訪問し、アキノ大統領との会談で、中国と対立する両国が国防での協力強化を目指し戦略的パートナーシップ締結に向けた作業開始で合意した。