■自衛官重用と幹部の増長

岸人脈である自民党派閥・清話会の領袖・森喜朗首相が組閣した2000年の第二次森内閣で衆院当選3回目を果たしたばかりの安倍晋三は内閣官房副長官に抜擢される。後継の清話会政権を担った小泉純一郎首相は第二次小泉内閣では安倍を党の顔となる幹事長に就任させた。閣僚も党の要職も未経験な50歳に満たない議員が異例な処遇を得る。

安倍がこのような形で頭角を現したのは米国の保守支配層の意向を無視しては説明が難しい。この辺の事情については前掲シリーズ記事「反共強兵と清和会支配」を参照願いたいが、2001年以降、米ネオコン政権の発足とともに自衛隊を米軍と統合し、日本を事実上戦力を保持し、交戦できる「普通の国」にする動きが加速する。まず政権党・自民党は「日陰者扱いされてきた」自衛官及び幹部OBを日向に置こうとした。安倍の異様な出世ぶりはこの動きとパラレルである。

その先鞭をつけたのが2001年に第一次小泉内閣で歴代最年少の43歳、かつ防衛大学校・自衛官出身者で初めて防衛庁長官に任命された中谷元である。中谷が歴代最年少で就任したのは、当時は防衛大学校卒、幹部自衛官OBの唯一人の自民党議員であったためであろう。おまけに中谷が吉田学校・保守本流とされるハト派派閥・宏池会系谷垣グループに属していたのも世論対策上好都合だったようだ。とにかく「時代の要請」として自衛隊出身者の国防担当閣僚への登用が必要だったのである。

安倍晋三は第3次安倍内閣(2014年12月~2015年10月)で中谷を防衛相に登用した。2014年7月の集団的自衛権行使を容認した閣議決定を受け、2015年9月に自衛隊法改正を柱とする一連の安保法案が成立する期間に自衛官OBを防衛省トップに据えたのは強い政治的思惑あってのことであろう。

報道によると、中谷は2016年8月4日、防衛相離任会見で1年8カ月に及ぶ在任期間で一番辛かった思い出を聞かれ、安全保障関連法(集団的自衛権行使容認に伴う安保法制改定)の国会審議を挙げ、「222回審議がストップした。私なりには精いっぱい答えたつもりだったが、(野党側に)なかなか分かってもらえず、非常に辛かった」と嗚咽(おえつ)した。(左写真)産経新聞などは、「号泣した」と報じ、新安保法制成立により自衛隊が事実上普通の軍隊になったことへの「自衛隊OBとしての感無量ぶり」を強調した。

 

 

■田母神礼賛と鳩山排斥

日本会議を大きな支柱とした第一次安倍政権の登場と社会風潮の変容を受ける形で、現役自衛官からむき出しの復古主義的言動や民主党政権批判が噴き出る。典型例を2つ挙げる。

1つは現職の航空幕僚長(空将)として2008年アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文」に「日本は侵略国家であったのか」との題で応募し最優秀賞を得た田母神俊雄の言動である。村山談話、河野談話で示された政府見解を真っ向から否定する主張が問題視されて航空幕僚長の職を解かれるが、田母神は一躍「時代の寵児」のようにもてはやされた。

2008年末に定年退官すると日本会議系右翼グループとともに東京裁判と侵略戦争の否定を全面に押し出し積極的な政治活動を行う。2010年には「頑張れ日本!全国行動委員会」代表に就任、同年10月に起きた尖閣諸島中国漁船衝突事件を契機に全国で反中デモを主催する。

また日本のフジテレビを偏向報道したと糾弾、専守防衛では抑止力にはならない、核兵器所有は容認すべきと発言、米英諜報機関の中国破壊工作と密接に関連する世界ウイグル会議代表者大会への出席等々。警察予備隊発足から60年余りの長きにわたり、旧軍高官らに”皇軍魂”を叩き込まれた自衛官幹部らに伏流してきた不満、うっ憤を晴らすかのように、復古色濃い国家主義の立場から戦後日本の在り方に激しく異議申し立てした。

自衛隊イラク派遣を違憲とした名古屋高裁判決に対する「そんなの関係ねえ」発言など暴言の数々は日本政府にとっても許容し難いものになったようで、田母神は2014年に立候補、落選した都知事選で公職選挙法違反に問われ2016年に逮捕される。2018年末の最高裁判決で有罪が確定した。これを機にこの増長した「時の人」は鳴りを潜める。