1945年8月9日午前11時2分、広島に続き長崎に米軍機から原子爆弾が投下され、瞬時に8万人近くの一般市民が命を奪われた。この3機編隊の米B29爆撃部隊は、長崎投下に先立つ同日午前9時44分、当初の標的だった九州の玄関口・小倉市(現北九州市)中心部にあった小倉造兵廠(日本陸軍兵器工場)の上空に達した。新型爆弾を納めた爆弾庫扉は開けられ、爆撃機が高度1万メートル近い上空を旋回した約45分間、爆撃手の指は投下ボタンに何度も掛けられたと推定されている。その時、15年戦争の大半を中国、フィリピン、インドシナ半島の前線で従軍し、前年の1944年に帰還した私の父は、原爆の標的だった小倉造兵廠で働いていた。
米軍機が小倉での原爆投下を断念し、長崎に向かったのは、小倉の人々にとってただただ幸運としか言いようのない条件によってであった。その経緯は、米政府の記録文書に直接あたった日本の研究者らの手によって明らかにされている。
この運命の日から3年後。長崎の人々の犠牲によって救われた我が両親は、私をこの世に送り込んだ。盛夏を迎えると父は13年間に及んだ戦争体験を私に幼少時のころから熱く語りかけた。
「最前線で戦う歩兵でなく、後方の砲兵部隊に所属したおかげで命ながらえた」、「累々たる屍の中で見出した絶命寸前の日本兵らは唸るような声で『母さん』と叫び息絶えた。『天皇陛下万歳』と言って死んだ者は一人もいない」、「皆母の元に戻りたい。『天皇のために命をささげろ』と強いる戦場から逃げたかった。だが、軍律に縛られ、逃げるに逃げられない。肉弾として扱われて、上官や軍隊という理不尽な存在に対する恨み骨髄に入り、息絶えた」、「自分たちを英霊として祀る国の欺瞞にはらわたが煮えくり返る思いだったはず」。「戦争責任のある昭和(裕仁)天皇にはせめて退位して欲しかった」、「従軍慰安婦の管理も担当したが、慰安婦は日本軍が直接徴用した。砲弾の飛び交う戦地にどうしてわざわざ民間業者が連れてくるというのだ!」。「あんな馬鹿な戦争は二度とするものではない」。
20歳から30歳過ぎまでの青年期を戦争に奪われた父の慟哭にも近い怒り、憤り、悲しみは私の胸に深く刻み込まれた。父は東南アジア各地を転戦した。真珠湾攻撃から約2か月後の1942年2月初めには、上海からマニラに飛びフィリピンに駐屯した。転戦中に罹患したマラリアの後遺症に苦しんだ父は、1993年末に病死した。享年79歳。翌94年に私は会社記者を辞し、フィリピン最南端のミンダナオ島でフリーランス記者として活動を始めた。そこでは1992年にフィリピンから完全撤収したはずの米軍と米諜報機関がイスラムテロリストの‟養成”を始めており、2001年米同時多発テロを契機に本格化した「テロとの戦い」に備えていた。
私の記者活動と以下順次掲載する記事は、上記の原体験が核となっている。世界の、とりわけ中国、朝鮮、東南アジア、米国、そして同じ敗戦国ドイツの人々と記事を通じて交流できれば幸いである。