ウクライナ危機がネオナチ問題に加え、日本問題をも浮上させた。第二次大戦終結に伴い設けられた戦勝国の連合機関・国連の最大の目標の1つに「ナチスを生んだドイツと天皇制ファシズムを生んだ日本を再び脅威とするな」があった。国連憲章には「独日封じ込め」を意図して敵国条項が設けられた。ロシアは2022年2月、ネオナチ排除を唱えながらも国連憲章に違反してウクライナに軍事侵攻。米NATOはこれを機に全力を挙げてロシア解体を図っている。米国は戦後CIAやその前身組織OSSを使いナチス残党を保護したため、ソ連崩壊後ウクライナでも残党勢力が表に出た。一方、2022年4月、ウクライナ政府が「ファシスト・プーチン非難キャンペーン」を行い、昭和天皇の肖像をナチスのヒトラー、イタリアのムッソリーニと並べファシズムの象徴として掲載した動画は日本政府の抗議でいったん消去された。世界は日本の異質さに動転した。今ウクライナ危機を介して西側諸国(戦勝国)を中心に戦中・戦後の日本に改めて厳しい視線が注がれている。
日本を一歩外に踏み出せば「天皇ヒロヒトは日本軍国主義の絶対指導者、大戦の最高責任者、戦犯」である。ほとんどの国の歴史教科書にはこう記載され、昭和天皇の顔写真がヒトラー、ムッソリーニと並んで掲載されている。人々は当然のこととしてこれを受け止めている。ウクライナ政府が添付した肖像は常識に沿った何の変哲もないものだった。
実際、ウクライナ政府はその後、件の3人並んだ肖像動画を再びアップしたという。米欧・西側諸国がヒロヒト削除に抗議したため、ゼレンスキー政権は「昭和天皇の肖像を入れたほうが西側諸国にアピールし、世界の良識にかなう」とばかりにちゃっかり謝罪を翻したようだ。
1960年代に日本の中学、高校で学んだ団塊の世代(広義には1940年代後半から1950年代初頭生まれ)は昭和天皇がヒトラーと同列に並べられた記述や写真に接してもさして違和感を覚えなかった。それは教室の内外を問わず存在した一つの時代精神であった。
戦地から辛うじて生還できた親の世代を中核に敗戦から間もない日本社会には大元帥陛下に統帥された聖戦が実は未曾有の野蛮極まる侵略戦争であったことへの嫌悪、反発、悔悟が浸透しており、「ヒロヒト=戦犯」に目くじらを立てるのは一部の右翼勢力に限られていた。何より「陛下のために死ね」と下命され続けた元皇軍兵士たちは天皇免責を前提とした日本のあいまいな戦後処理に接して近代天皇制という無責任体制に心底怒りを煮えたぎらせた。
1960年には浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件や中央公論社長宅襲撃事件(風流夢譚事件)といった右翼テロが復活し、当時のメディアは主犯の少年の所属した大日本愛国党をはじめ極右勢力を戦後の議会政治と民主主義の敵として断罪した。ただし風流夢譚事件は天皇に関する言論のタブー視と自粛の嚆矢となった。中央公論社は1961年12月、当時同社が発売していた「思想の科学」天皇制特集号の発売を中止し、雑誌の断裁まで行った。
今日の日本の「主流派」は昭和天皇をヒトラーと同列に扱ったウクライナ政府の動画を「天皇(皇室)に対する不敬、日本人への侮辱」として反発、非難した。ここ30年でこのような天皇を敬い、畏れ多いものとする風潮が格段に強まった。この問題は本ブログの主要テーマであり、ここでは俗に「右傾化」と称される日本の社会風潮の変化について本格的に論じることは避ける。多数の既掲載記事を参照されたい。
ウクライナ政府動画問題を報じた日本メディアの記事には多数の読者コメントが添付されている。大半が異議申し立てであり、憤慨である。今日の日本人の多数派にとっては上記のように「天皇への不敬は自分たちへの侮辱」なのである。明治初期の自由民権運動で謳われた「君民一体」の思想は今日に至るも脈々と息づいている。ただし民権と国権の相克を自覚していた多くの民権運動家の思想は天賦人権論、抵抗権、そして革命権すら深く包含しており、唯々諾々と対米隷属に甘んじる現代日本の保守思想のレベルを大きく超えていた。
次のコメントが総じて穏健な多数派意見の代表に思える。
「私は別に愛国主義者でも過激な思想があるわけでもないんだけど昭和天皇をこんな風に表現されるのは悲しい。
なんだろう、親を馬鹿にされた様な感じですごく腹が立った。先の大戦では確かに西側諸国から見れば侵略戦争だったかもしれないだけど、そこに至るまでの西側諸国の日本に対する圧力やらなんやらあって戦争するしか道はなかった。今日に至るまで日本は先の大戦を反省して諸外国に対して誠意と莫大な援助をしてきたではないか。」
一見穏健に見えるこの「親を馬鹿にされた様な感じですごく腹が立った」とのコメントには、「現人神である天皇は父親、臣民は赤子」という近代天皇制の礎と言える家族国家観と国体論が素朴な形で刷り込まれている。さらに「西側諸国から見れば侵略戦争だったかもしれないが、そこに至るまでの西側諸国の日本に対する圧力によって戦争を強いられた」との意見は日本右翼の歴史修正主義そのものであり、「日本は先の大戦を反省して諸外国に対して誠意と莫大な援助をしてきた」はまるで極右の日本会議をイデオロギー装置とした安倍政権の支持者らが中国、韓国に向けた「援助に感謝もせずいつまで謝罪させようというのか」との開き直りと憎悪の言葉につならる。
多くのこの類の日本人の感情に通底しているのは強弱の差はあるが明治憲法第三条「天皇は神聖にして不可侵」、すなわち「天皇の尊厳や名誉は汚してはならない」である。今回の動画問題を巡るコメントの中にも「天皇は政治家を超えた存在。俗なファシズム指導者と同列に扱うのは真に遺憾」との趣旨の反発も少なからず見られた。明治憲法のエートスは日本社会の基層で脈々と生き続けている。
「126代も連綿と続く世界に類のない皇統を抱く日本」という国家観に抵抗権や革命論の入り込む余地はない。日本は時空を超えて不変の「日の本」であり「ニッポン」なのである。それは戦前・戦中体制に対し無自覚にする陥穽となる。そして米欧に見られた王権支配を打倒、廃絶して民衆主体の権力を樹立しようとする民主主義の粋である革命思想は拒絶される。
「いかなる政府といえどもその目的を踏みにじるときには、政府を改廃して新たな政府を設立し、人民の安全と幸福を実現するのにもっともふさわしい原理にもとづいて政府の依って立つ基盤を作り直し、またもっともふさわしい形に権力のありかを作り変えるのは、人民の権利である。」
これは1776年アメリカ独立革命宣言の核心部分である。今日の戦前体制に対し無自覚な日本人にとっては極左思想そのものであろう。日本では人々は永久不滅の御国の中にあり、政府=統治権力と民衆=被統治者が対立することはない。1945年8月末、厚木に降り立ったダグラス・マッカーサーが「400年前になくなったはずの民衆が国家の長に絶対服従する国がまだここにあった」と述べたとの言い伝えはあながち作り話とは思えない。米英支配層がこの祭政一致の異様な好戦的国家に半永久的に頸木をかけて支配、利用しようと決意したのはこのためである。
ウクライナ政府の日本への謝罪はもとより形だけであった。本気で「誤解していた」とは考えてもいないから昭和天皇の肖像は舌の根の乾かないうちに再アップされた。現に「ウクライナ支援国」リストにも当初は日本をアップせず、日本で論議となった後で追加したことが日本への違和感を端的に物語っている。
猛反発した日本の自民党外交調査部会、政府、そしてメディアもヒロヒト肖像の再アップには沈黙してしまった。これ以上世界の常識に目くじらをたてるわけにはいかなかったはずだ。この事件をこの国の異様さと孤立をいささかなりとも痛感する機会とすべきである。
【補論】
敗戦によって与えられた民主主義が根を下ろすにはあまりにも厚い障壁が立ちはだかっていた。上の写真は被爆2年後、1947年12月に裕仁天皇が広島を巡幸した際のもの。
広島で原爆被爆者ら5万とも7万ともいわれる群衆が天皇を熱狂して迎えた。奉迎会場は涙と歓喜の大きな渦となる。巡幸を勧めたGHQ当局も予想を超えた「現人神と赤子・臣民」関係の揺るぎのなさに目を瞠った。衝撃を受けたワシントンは翌1948年から49年5月まで巡幸を一時中断させた。
1947年12月7日当時の記録映像を見ると、街頭を埋め尽くした20万民衆の興奮と熱狂はすさまじく、天皇の乗車した車はしばしば立ち往生した。そこには被爆と敗戦の責を天皇に負わせようとする雰囲気は微塵もない。
広島駅で出向かえた当時の浜井信三広島市長は裕仁天皇の姿に「おいたわしい」と胸を詰まらせた。そして被爆に苦しみながらも歓呼する広島市民の姿を「他国で苦労した子どもが両親に会いたくなるのに似た気持ちを感じた」と回想している。
小野勝著「天皇と広島」では初めて人々の前で肉声を発した天皇と広島市民の姿がこう描かれている。
「陛下にはオーバーのポケットから小さな紙片の取り出された、御言葉だ、御間近に拝する御体から、今、直接御聞きする御声だ、5万の会衆の眼と耳はジッと陛下の御口元に集中された、涙も、声もない一瞬である。
『この度は皆の熱心なる歓迎を受けて嬉しく思う。本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情はたえない。我々はこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。』
一語一語、はっきりと力強く耳を心を打ったこの御言葉、原爆の惨苦をなめた市民に注がせ給う大御心の有難さ、かたじけなさ、会衆はあの日の苦しみを一瞬忘れたごとく御声に聞き入った。水を打ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、どっと上がった万歳の声、再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、こんな国民的感激を、こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、何時、何処で、誰が味わったであろうか、市会議長寺田豊氏が唱えた万歳の姿も声も、眼に耳に入らぬ感激、興奮が渦巻いた。」
天皇信仰からの解放を意図したポツダム宣言。だが与えられた日本の戦後民主主義には占領国アメリカと敗戦国日本の協働する「戦前体制精算サボタージュ」という巨大な壁が立ちふさがっていた。
敗戦から77年目。2022年現在、民衆の内から沸き起こったものとは決していえない、この民主主義は瀕死の状態にある。