会津藩士と探る日本近現代精神史――慶応2年からのタイムスリップ なぜ会津なのか 差替え記事

注:本稿は書籍の冒頭文(序)です。著作は戦前編と戦後編に分かれ、各編とも10章程度の構成を見込んでいます。本は本年末までに自費出版で刊行の予定。本ブログでの公開は、この序のほか各編毎1章を検討しています。続きは書籍にてお読みください。

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■なぜ会津なのか

この物語の主人公は幕末に生きていた会津藩士である。 なぜなのか。それは日本の近現代160年を読み解き、歴史の深層に迫るためである。

会津は、幕末日本でただ一つ、 民の生活を守るために政治を行った藩である。 藩校日新館の教育は、武士の道を権力のためではなく、 民のために使うという民本倫理を体系化していた。

歴史家・山川浩(元会津藩家老)が『京都守護職始末』で克明に記したように、 会津の政治は単なる忠義ではなく、京都守護職を引き受けたのは 京の民の安全と生活を守るための“民本の政治倫理”に基づくものであった。それは、 単なる美談ではなく、 実証史料に裏付けられている。

長州は尊王攘夷の怨念と倒幕の情念を政治化し、 明治政府を樹立したのち、その精神を「皇国史観」として国家の中心に据えた。 明治以降の日本は、長州が作った国家の枠組みの中で、 天皇を絶対化し、国民を動員し、 やがて破滅へ向かう道を歩んだ。

その長州=明治国家の精神と 対極 にあったのが会津である。

会津は滅びた。 長州は国家を握った。 その結果、日本は「栄光の明治」という虚構の物語を生み、会津の精神は歴史の表層から消された。

だからこそ、 160年後の日本に呼び寄せられたのは、 長州でも薩摩でもなく、 “栄光の明治”史観を根底から批判できる最後の侍―― 架空の会津藩士・渡部耿之介でなければならなかった。

会津の視点を織り交ぜながら、 日本近現代160年の精神史を探ってゆく。

■序

幕末、慶応二年(1866年)の京都は、湿った夏の気配を帯びていた。 会津藩が京都守護職を務めて四年目。 新選組とともに市中見回りに出た藩士渡部耿之介は、 三条大橋のたもとで長州の勤王志士と切り結んでいた。

刀が火花を散らす。 その瞬間、空が裂けた。

雷鳴が落ち、白い光が耿之介の視界を奪った。 身体が宙に浮き、何かが砕ける音がした。 次に目を開けたとき、彼は見知らぬ寺の境内に倒れていた。

蝉の声が聞こえる。 しかし、どこか違う。 空気が違う。 建物が違う。 人の気配が違う。

「気がつかれましたか。」

声の主は、僧衣をまとった男――この寺の住職だった。

耿之介は跳ね起き、刀に手を伸ばした。 しかし、腰には何もない。 刀も、鞘も、帯も、すべて消えていた。

「ここは……どこだ。 京の寺か。」

「ええ、京都です。上京区の寺です。」 住職は静かに答えた。 「ただし――慶応二年ではありません。」

耿之介は目を見開いた。

「現在の元号は令和。 あなたがいた時代から、160年が経っています。」

耿之介はしばらく言葉を失った。 やがて、震える声で言った。

「薩長同盟は……どうなった。 会津は……どうなった。」

住職は問いにどうこたえていいものかと思案した。

まずはタイムスリップしてきた客人を「お疲れでしょうから一息入れましょう」と居間に招き入れた。空腹をいやしてもらうため、妻は急ぎにぎり飯を用意した。

耿之介は目を丸くして曰く。「こんな美しいコメは見たことがない。食すのがもったいない。」

おにぎりの美味さに感激した耿之介は食後に出したショートケーキにも驚く。今の日本ではいつでもどこでも買えると説明すると、「誰でもこのような美味なものを食せるとは。」

「厠も腰を抜かすほど清潔。輝いている。ハエ一匹いないではないか。」

「日の本はいい国になったのでござるな。」と迫るように問うた。

僧侶は深く息を吸い、ゆっくりと答え始めた。

「ええ、日の本は、いい国になりましたよ。」

「 あなたが、会津が、守ろうとしたこの国は、 その後二度も、世界の人々に『日本の奇跡』と称賛されました。」

住職は少し間を置き、続けた。

「日の本は特に1955年以降の高度経済成長をきっかけに豊かになりました。 ただ――生活の豊かさが、人の心を必ずしも豊かにするとは限りません。」

そして住職は、ゆっくりと話を続けた。

「薩摩と長州が作った維新政府は大日本帝国と称したものの、80年足らずで崩壊しました。日本帝国は米英と戦争して完膚なきまでに打ち負かされ、無条件降伏したのです。

耿之介は住職の言葉を待った。

「しかし――」 と続けた。 「薩摩と長州が作った維新政府は大日本帝国と称したものの、80年足らずで崩壊しました。日本帝国は米英と戦争して完膚なきまでに打ち負かされ、無条件降伏したのです。 その後、日本は事実上米国の管理下に置かれ、 半独立のまま80年余り今日まで続いています。この間、 奇跡と呼ばれた豊かな国へと成長を遂げましたが、ここ40年近くは著しい衰退が続いており、 第二の崩壊に向かっているやもしれません。」

耿之介は息を呑んだ。 「薩長が設けた新政府の政(まつりごと)が……破綻したと申すか。」

「しかも会津は戊辰戦争で薩長に滅ぼされました。 しかし、その話は急ぎません。 あなたが耐えられる時に語りましょう。」

耿之介は静かにうなずいた。 だが、その表情には動揺の気配がありありと見て取れた。

言葉を失っている耿之介に住職は語り掛けた。

「この160年の旅を、あなたと共に辿りたいのです。 あなたが守ろうとした日の本が、どのような道を歩んだのか。 そして、どこで道を誤ったのか。」

耿之介は膝を正し、「会津も、薩長政府もなぜ滅びた」とうなるように声を発した。

■漱石の直感

「薩長の政府は元号を慶応から一世一元の明治と変え、自分たちの遂げた体制転換を御一新・維新と呼びました。」

「まずは、明治随一の文豪とされる夏目漱石という文士の話をしましょう。」

「文士?」耿之介は首をかしげた。 「なぜだ」「その者は、何をしたのだ。」

「漱石は、明治の終わり20世紀の初めに英国ロンドンへ渡りました。 そのとき、彼は日本の未来を直感したのです。」

住職は、漱石の小説『三四郎』の一場面を思い出しながら耿之介に語った。

「列車の中で、ひげの男が日本の将来についてぽつりと語るのです。 『滅びるね』と。」

耿之介は息を呑んだ。 その言葉は、先の見通せない混乱の只中にあった幕末の武士の胸にとてつもなく重く響いた。

「漱石は、感情ではなく、観察の結果としてそう言いました。 日露戦勝の浮かれた空気の底に、 日本の構造的な脆さを見ていたのです。」

耿之介は静かに問うた。

「その脆さとは、何であったのだ。」

 住職は答えた。

■破綻の根源

「慶応二年からわずか5年経た明治維新期の1871年から73年にかけて12か国を歴訪した、 岩倉使節団と呼ばれる新政府の欧米視察団は英国にも渡り、そこで多くを学んだ。だが、彼らは、英国社会の“民の厚み”を見ようとしませんでした。 議会、自治、社会運動、工場法、人権尊重、討議、公共圏―― 近代国家の根を支える民の力を受け入れようとしなかった。」

耿之介は眉をひそめた。 「では、何を学んだのだ。」

「領土拡大、植民地支配、帝国の統治術です。 大英帝国の“外政優先の国家モデル”を骨格として持ち帰ったのです。」

耿之介は深く息を吐いた。 「会津は民を尊重した……。明治政府のそれは日の本の採るべき道とは違うように思える。」

「ええ。 これが悲劇の始まりでした。」

住職は続けた。

「日本は、英米アングロサクソンのユーラシア地政学ゲームの駒として 使われる運命を、この瞬間に背負ったのです。」

「ユーラシア地政学とは何じゃ?」耿之介は問うた。

「19世紀末に提起された西欧の学問です。詳細はさて置き、かいつまむとユーラシア大陸を跨ぐ大国ロシアを封じ込め、管理して、英米の利益にしようという外交政策です。」

「7つの海を支配する巨大な海洋国家・大英帝国はそのようなとてつもなく遠大な戦略を立てて、極東の日の本を巻き込んだのか。われらは何も知らず、『開国、尊王攘夷、佐幕、倒幕だ』とこの小さな島国で井戸の中の蛙のように角突き合わせていたのか!」

耿之介は静かに目を閉じた。

「ならば、拙者が26歳だった慶応2年から現在までの160年を共に辿ろう。 日の本がどこで道を誤り、 どこで奇跡を起こし、 どこで滅びへ向かったのか―― 確かめたい。」

こうして、 会津藩士・渡部耿之介と共に160年の道を辿る旅が始まったのであった。(続く)