会津藩士と探る日本近現代の160年( 2)公開用短縮版―失われた可能性としての「もう一つの明治」

注:序(第一章)と第三章のつながりが悪いので、一部省略した第二章を掲載します。序(1)、(2)短縮版、(3)と続きます。

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■近代史学ぶ耿之介

寺の境内の朝は静かだった。 晩秋の木漏れ日がやさしく耿之介の頬を照らしていた。 落雷で幕末から現代へと跳ね飛ばされてほぼ半年。髷は切り落とし、月代(さかやき)も生えてきた毛髪で覆われた。作務衣に着替え、食客ながら寺男の役割を進んで果たし始めた。しかし、 まだこの時代の空気に馴染めずにいた。そんな中、「日の本の来し方、行く末を知ろう」と部屋にはうず高く関連書籍が積まれていた。

「住職殿……」 耿之介は、慎重に言葉を選びながら口を開いた。 「拙者も日本の近代史を学び、日々考えてはおるが、まだ初心者。ずばり尋ねる。この国は、どこで道を誤ったのでござるか。」

僧侶はゆっくりと語り始めた。

「明治国家は、日本人にしか理解できない“大義”を掲げて近代化を進めました。 それは神格化された天皇崇拝という精神構造に支えられ、国内の統合には強い力を発揮しました。 しかし――国際社会に向けて普遍的な価値を語ることができなかった。」

耿之介は眉をひそめた。

「普遍の価値……とは?」

「世界の誰が聞いても理解できる理念のことです。 自由、自治、人権尊重、法の支配、シビルミニマム(最低限生活環境基準)、民族自決…… そうした“民の厚み”を支える価値です。」

耿之介は静かに頷いた。 「それは、会津が守ろうとしたものに近いように思える。」

「ええ。」 私は続けた。 「しかし、明治政府はそれを選ばなかった。」

「繰り返しますが、岩倉使節団…彼らが学んだのは“民の厚み”ではありませんでした。」

耿之介は眉をひそめ、答えた。 

「住職殿が先ほど述べたように、漱石がロンドンで見た『民が国家を支える仕組』に無関心だったのじゃな。」

「耿之介殿、英国は当時、世界最大の帝国でした。 その力の源は、民の自治ではなく、世界に張り巡らせた 植民地支配がもたらす圧倒的な金融力と軍事力でした。」

「 彼らが持ち帰ったのは、先に話したように領土拡大 ・軍制国家化 ・官僚支配 ・中央集権 という“帝国の骨格”でした。」

耿之介は深く息を吐いた。

「明治政府は、外政を重んじ、まずは朝鮮、台湾に軍事進出した。」「漱石が見たのは、 日本が“民の厚み”を拒否し、 “帝国の骨格”を輸入したという構造的欠陥です。」

「その欠陥が、日清・日露・満州・日中・太平洋戦争へと続く 軍事・外政優先の連鎖を生みました。」

耿之介は震える声で言った。

「ならば、日の本は……この時すでに滅びの道を歩み始めたのか。」

「ええ。 漱石の『滅びるよ』という予言は、明治のこの瞬間を指していたのです。」

私は少し間を置き、現代の政治言説に触れた。

「耿之介殿、現代にはこう言う者がいます。 『日本はアジアを解放するために戦った。 日本のアジア進出を自己批判、反省する必要はない』と。」

耿之介は驚いた。 「拙者の読んだ本にはアジア侵略とあった。」

「そのようなことを申す者がいるのか。」

「ええ。 この20年。安倍晋三や高市早苗のような国権主義者が、 その言葉を政治的に利用しました。」

「 日本が掲げた『大東亜共栄圏』は、 アジア解放ではなく、日本の支配の正当化でした。」

「米英はすでに1941年の大西洋憲章で普遍的価値を掲げていました。 日本はそれを提示できず、孤立していったのです。」

■会津には別の可能性も

「話は変わるが、申したいことが…」と耿之介。

「住職殿、 会津が民の倫理を重んじたとはいえ、 われらは徳川親藩であり、封建体制の頂点に位置しておったという事実でござる。拙者ら会津藩士は幕藩体制を保守する佐幕派として活動しておった。封建制のままでは、近代国家の基礎にはなり得ぬことも、 わしは理解できておる。」

住職はおだやかに頷いた。

耿之介は続けた。

「しかし―― もし幕藩体制そのものを打ち破り、 新しい政(まつりごと)を築くのであれば、 会津の“民の厚み”を基礎にした別の近代を作る道はあったはずでござる。

会津の村々には、 民の倫理、自治、共同体の秩序があった。

庄内にも、越後にも、豪農層を中心に、 民の生活世界から生まれる政治の芽があった。

それは、薩長が選んだ“水戸的近代”とはまったく違う道でござる。」

  • 「原田敬一『幕末維新と会津藩』、坂野潤治『日本近代国家の形成』、家近良樹『幕末政治と水戸学』を読むと、会津は 「軍事的に危険だから」ではなく、「 政治思想的に邪魔だった」から 徹底的に排除されたようじゃ。」

  • 「ならば、会津は滅ぼされるべきではなかった。」 

■会津攻めに現れた“狂気の萌芽”

耿之介の声は震え始めた。

「住職殿…… 薩長の会津攻めは、戦ではない。 あれは、殲滅でござる。」

住職は息を呑んだ。

耿之介は続けた。

「砲弾の雨が降り注ぎ、 藩士も、女子供も、 家屋ごと焼かれ、撃たれ、倒れた。

領民がその亡骸を埋葬することすら許されず、 死体は野ざらしにされ、白骨となった。

住職殿……

あの非人間性は、 後の帝国陸軍の狂気そのものではないか。」

住職は静かに頷いた。

耿之介はさらに言葉を重ねた。

「佐賀の乱で江藤新平殿を斬首したのも、 大久保殿の見せしめでござる。

自由民権運動の弾圧も同じ。 民の声を封じるためなら、 どれほどの残忍もためらわぬ。

この暴力の線は、 明治の初めから昭和の戦争の終わりまで、 一本の線でつながっておる。」

住職は加えた。

「耿之介殿…… 士族反乱、農民一揆を徹底弾圧し、民権運動の芽を潰した内務省創設者大久保利通の暗殺はこの暴力の線を断とうとした面がある。事件は民権派士族のルサンチマン(弱者が強者に対して抱く憤り・怨恨)から生じている。」

耿之介は深く頷いた。

「拙者は大久保路線の後継者山縣有朋の内務・警察・軍制政策に一番の問題を感じる。」

■南京、インパール、特攻、本土決戦――狂気の帰結

耿之介は、遠くを見るように語った。

「その路線と政策の行きついた先が、 南京での虐殺であり、 兵站を無視したインパールであり、 若者を死に追いやる特攻であり、 『国体が守られれば本土決戦で一億臣民は全滅してもよい』という狂気でござる。

住職殿…… 日本軍の狂気の萌芽は、 会津処分にすでに現れていたのだ。」

住職は言葉を失った。

■“もう一つの明治”は確かに存在した

耿之介は語気を強めた。

ならば住職殿…… わしらが探すべきは、 薩長が選ばなかった“もう一つの明治”でござる。」

住職は深く頷いた。

「耿之介殿……あなたの言葉は、日本近代の核心です。」

「住職殿…… 会津が滅ぼされた後、 民の厚みは、どこへ行ったのでござるか。」耿之介の問いは核心を突く。

■国家の周縁からの「民の自治」

住職はゆっくり頷き、語り始めた。

「耿之介殿。 会津が滅びた後も、民の厚みは消えませんでした。 むしろ、国家の周縁で静かに息づき、 やがて“民権運動”として立ち上がったのです。」

耿之介は目を細めた。

「民権……民が権利を持つということか。」

「ええ。 それは、西郷や板垣といった政治家の構想にとどまらず、 豪農、郷士、地方知識人、新聞記者、私塾の教師、 そして村落の青年たちが、自らの生活世界から立ち上げた “民の自治”の近代化でした。都市にも民権家は出現しました。」

耿之介は驚いた。

「民が……国家をつくろうとしたのか。」

「そうです。 それが、もう一つの明治の第二の流れです。」

住職は続けた。

「民権思想は、1881年の自由民権運動の爆発で突然生まれたのではありません。 その萌芽は、明治初期からすでに日本社会に浸透していました。新政府の地租改正や徴兵制の強行などへの反発が火に油を注ぎました。」

「豪農層の集会場には、 ルソー、ミル、スペンサー、ベンサムといった近代思想の翻訳書が置かれていました。」

耿之介は息を呑んだ。

「農民が……ルソーを読むのか。」

「ええ。 彼らは単なる農民ではなく、地域社会の指導者であり、 読書会を主催し、私塾を支え、村落自治を担う知的階層でした。」

「兆民の『民約論』が刊行される前から、 “人民主権”“抵抗権”“自由”“権利”といった概念は、 生活世界の切実な問題として受け止められていたのです。」

耿之介は深く頷いた。

「それは……会津の村々にも似ておる。」

■民権家たちは「もう一つの明治」を立ち上げようとした

「耿之介殿。 民権家たちが構想した明治は、 岩倉・大久保・伊藤・山縣らが作り上げた帝国主義型の国家とはまったく異なるものでした。」

「彼らが求めたのは、 国家が民を統合するのではなく、 民が国家を構成するという近代国家の原理でした。」

すると耿之介はこう言った。

「それは……わしが語った“民の厚み”そのものではないか。」

「ええ。 豪農層は、村落自治の伝統を背景に、 “国家は民の生活世界の延長であるべきだ”と考えました。」

「彼らにとって国家とは、 遠い中央の権力ではなく、 自らの生活を守るための共同体の延長だったのです。」

耿之介は問うた。

「板垣退助殿はどうなのだ。 『自由は土佐の山間より』と聞いたことがある。」

住職は静かに答えた。

「板垣は民権運動の象徴でしたが、 民権国家の担い手ではありませんでした。」

「民権国家の可能性を担っていたのは、 板垣ではなく、 板垣の背後で闘った無数の民権家たち―― 豪農、郷士、都市・地方知識人、新聞記者、私塾の教師、 そして村落の青年たちでした。」

耿之介は深く頷いた。

「民が国家をつくろうとしたのだな。」

■運動は明治国家の骨格を揺るがす寸前にまで達す

「1881年から1884年にかけて、 民権運動は日本全国に広がり、 一部は武装蜂起・反乱を起こし、 国家の骨格を揺るがすほどの力を持ちました。」

(中略)

 

「ならば住職殿…… この国が再び民の自治国家として再生するための鍵は、 この“失われた可能性”の中にあるのだな。」

「ええ。 それが“もう一つの明治”の第二の流れです。」

「住職殿…… 薩長が選んだのは、水戸学の道でござる。 天皇を頂点とし、軍を国家の背骨とする近代化でござる。吉田松陰殿は1851年、会津からの帰途、水戸に遊学した。水戸学の会沢正志斎殿の『新論』は長州の志士たちの必読書になったと聞いたが、拙者には違和感が強かった。」

「日の本にはもう一つの道があった。 豪農民権、村落自治、民の生活世界から立ち上がる近代化でござる。この二つが、明治の二つの流れでござるな。」

■“近代化は果たした

住職は耿之介に向き直った。

「耿之介殿…… あなたが見抜いた二つの流れは、まさに明治の核心です。

ただし、一つ補っておきたいことがあります。

明治は、封建体制から資本主義的体制へと移行したという意味では、 確かに“近代化”を果たしました。

鉄道、銀行、工場、学校、議会、憲法―― これらは外形としての近代化であり、 世界史的に見て大きな転換でした。

しかしその内実は、 天皇大権と軍事官僚制を中心に据えた“前近代の主権構造”が温存され、 民が政治の主体となる“精神としての近代”は育ちませんでした。

つまり明治は、 外形としては近代化し、 精神としては近代化しなかった―― その二重構造こそが、後の帝国の暴走と戦後の従属構造を生んだのです。

あなたが語った会津的近代と民権国家の可能性は、 この“精神としての近代”の側に属するものです。」

耿之介は深く頷いた。

■民権運動の“影”

住職は声を落とした。

「耿之介殿…… 民権運動は、光だけではありませんでした。 その内部に、克服できなかった“影”がありました。」

耿之介は眉をひそめた。

「影とは……何でござる。」

住職は静かに答えた。

「差別です。」

耿之介は息を呑んだ。

「民権派の多くは、 国内の被差別部落、琉球(沖縄)、アイヌへの蔑視を克服できず、 外に向かっては朝鮮や台湾の人民を見下しました。」

耿之介は問うた。

「民の厚みを語りながら、 民そのものを差別したということか。」

「ええ。 その矛盾が、民権運動を内部から蝕みました。」

◆差別は“国権主義”への転落を生んだ

「耿之介殿……

差別意識は、政府の外交情報操作や排外主義的な世論と結びつき、 民権派を“国権拡張”へと転落させました。」

耿之介は目を閉じた。

「ならば住職殿…… 民権運動は、朝鮮への侵略を後押ししたのか。」

住職は頷いた。

「ええ。 民権派の一部は、 “文明化”、“保護”という名目で朝鮮支配に同調しました。」

耿之介は深く息を吐いた。

「民の自治を掲げながら、 他国の民を蔑視する…… それは、会津が守ろうとした道とはまったく異なる。」

■朝鮮支配 ― “もう一つの明治”の内部崩壊

住職は、耿之介の目を見て語った。

「耿之介殿。 朝鮮は、明治国家の“外政の中心”でした。 そして、民権運動の変節は、 この朝鮮支配を後押ししてしまったのです。」

この混迷の中でも一貫性を保ったのは、琉球の分割案に反対してその独立を支持した植木枝盛、被差別部落の側に身を置いた田中正造、中江兆民などです。彼らは差別の根源に目を向けました。」

(以下省略)