森喜朗の東京五輪・パラリンピック組織委員会会長辞任騒動に併せて、森が属する岸人脈、今日の自民党最大派閥・清和政策研究会(通称:清和会・細田派)の成り立ちについて触れた。東久邇宮稔彦、幣原喜重郎に続き戦後三番目の内閣を担い、保守本流と称されることになる吉田茂率いた人脈に比べ、岸信介には絶対的なハンディがあった。1948年末に戦犯容疑者としての身柄を釈放され、1952年の平和条約発効と「日本独立」によって公職追放を解除されてようやく政界に復帰したのだ。この「遅れてきた保守傍流」岸率いる復古色濃い後日の自民党タカ派人脈は1950年の朝鮮戦争勃発に伴い内外環境が大きく変化し、好戦的な米保守支配層から将来吉田人脈を凌ぐ評価を得る可能性が出て来た。その評価は岸が没した後の1991年湾岸戦争、2001年の9・11とアフガン侵攻、2003年イラク戦争を機に一気に表に出る。清和会は自衛隊を米軍に直結、補完させて、中国を抑止可能な戦力とせよとのワシントンの要請を丸呑みする。ここでは「積極的平和主義」を掲げ、幾度となく「100%米国とともにある」と誓った安倍最長政権を生み出した清和会について論じる。このシリーズは2020年11月12日掲載記事「岸信介から安倍晋三への道 親米右派の系譜4」の続編にあたる。

■雌伏22年、岸人脈が主流へ

戦後日本で政権与党の座を半ば独占してきた自民党はバブル崩壊に至るまでは「軽武装・経済優先」路線を維持した。この路線はよく知られているように吉田茂を領袖とする吉田学校が源流である。60年安保闘争を受けて「寛容と忍耐・所得倍増」をキャッチフレーズに経済成長最優先政策に踏み切った吉田の愛弟子池田勇人元首相が保守本流・宏池会の始祖とされている。

だが、戦後史の裏舞台をのぞいてみれば1945年の敗戦から1952年平和条約発効・独立まで日本に対し最も影響力があったのはウォール街、石油資本、軍需産業など米国の巨大資本・財閥を後ろ盾とするジャパンロビーであり、彼らの圧力で1948年末に早々と巣鴨拘置所から釈放されたA級戦犯の岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが米側の提示した釈放条件を固く順守して反共(反ソ・反中)の砦としての戦後日本の礎を作り上げる

1952年の公職追放解除後に岸信介が結成した日本再建連盟を端緒とする岸派グループは「遅れてきた戦後保守」として傍流扱いされ、吉田・宏池会に対抗しながらも1960年の岸退陣後は元大蔵官僚福田赳夫が総理総裁になった2年間を除き長年冷や飯を食わされてきた。だが、1991年湾岸戦争を契機とする「金だけでなく血も流せ」との米国から人的貢献の強い圧力を受け、自衛隊の海外派遣、日米安保の再定義、そして中国の台頭の動きに併せて日本の保守政界の形勢が逆転し始める。

米軍との一体化が進む自衛隊の海外展開と歩調を合せるように宏池会や田中角栄を元祖とする経世会(平成研)を退けて、2000年に清和会の森喜朗が福田以来22年ぶりに首相となる。続いて小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、そして再び安倍が2012年12月から2020年9月まで首相の座にあり第一次政権と併せると首相在任歴代最長記録を更新、清和会は不動の総裁派閥として主流派へとのし上がる。自民党の清話会支配の完成であり、「保守主流」は逆転した。

■米裏金と日本の保守勢力

護憲・日米安保破棄・非武装中立を唱え、議会を通じての社会主義革命を目指した左派社会党と西欧型社会民主主義をモデルとした右派社会党が1955年10月に統一した。これに対する危機感が1月後に保守合同・自民党結党へと向かわせた。当時の自民党は吉田グループ(自由党)と鳩山一郎・岸グループ(日本民主党)に大別できた。この保守合同がCIA資金で賄われたことはことはあまねく知られている

吉田茂は戦前の奉天総領事時代、満州権益擁護で強硬論を打ち出し、米英の敷いたレッドラインを踏み外していた。だが一方で、1939年に外交の一線から退いた後は、吉田は岳父・牧野伸顕をはじめとする対米協調グループに積極的に関わった。日独伊三国同盟に強く反対し、ジョセフ・グルー 米国大使や東郷重徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指し、開戦後は、近衛元首相ら重臣グループの連絡役となり、和平工作の中心人物として活動。憲兵隊に検挙・逮捕されたこともある。ワシントンに認知されていた吉田には1946年5月、鳩山一郎の公職追放により、東久邇宮稔彦、幣原喜重郎に続く戦後3人目の首相の座が転がり込んだ。

 

 

■目くらましの復古主義

一方、極刑に処せられると見られていた岸信介がなぜ釈放され、政界に復帰できたかについては米国政府文書など一次資料に基づく数多の研究、調査の結果がある。いずれにせよ、端的に言えば、岸は「日本における米国の利益を実現するため、米国が選び、米国の資金でつくられた首相」だった。

岸の政策は自主憲法制定、自主軍備確立、自主外交展開を訴え、憲法問題を表に出さず「軽武装・経済優先」を掲げた吉田・宏池会路線と対立した。岸が「自主」路線を強調し古・反動色を装ったのも所詮は「米国の掌の中(たなごころのうち)」だった。それは多数の翼賛政治家らを追放解除することにより、日本に根強く残ることになった復古的国家主義者や右翼対策のための目くらましであり、ガス抜きの役割を果たした。

一例を挙げると、「自衛核武装合憲論」を打ち出す一方で「原子力平和利用」を推進して「反核外交」を展開した前者は1960年に改定された日米安保条約に双務性を持たせるための駆け引きとされ、後者に関しては首相在任中に「米国の水爆実験に反対、中止を求める」と公言している。しかし、後年公開された米国の公文書により、岸が米国政府に「日本の世論対策で行ったと伝えていた」ことが判明。岸の「核実験反対政策」は国内ナショナリズムを「吸収」するのが狙いで、姑息な対米追随姿勢であったことが暴露されている。

岸の脳裏からは米側と交わした釈放条件が片時も離れなかったことだろう。その路線を外れれば政治的死のみならず、自らの身が葬られることになる。巣鴨拘置所の死刑執行台からは解放されたものの、その背に常に米国からの冷徹な視線が注がれていることは岸自身が一番わきまえていたはずである。

■米国の影に脅える

東西冷戦の激化とともに連合国総司令部(GHQ)の主役が現憲法の草案作りに奔走し日本の民主化に尽力した民生局(GS)から冷戦対処最優先の参謀2部(G2)へと交代したいわゆる「逆コース」の産物が岸人脈である。そこにはウォール街の代理人である当時のニューズウィーク誌外信部長ハリー・カーンらが出所した岸と直ちに接触して暗躍した。米国の陰の権力を代理するカーンやCIA初代東京支局長ポール・ブルームらの背後にはロックフェラー、モルガンと言った名だたる米金融財閥があった。彼らが米国務省人脈を核とするアメリカ対日協議会(AJC)というジャパンロビーを実質的に取り仕切った。

米支配層にとって、共産主義者・左翼の封じ込めとともに、放された戦犯や公職追放を解除された右翼指導者や超国家主義者を利用して日本を不動の反共の砦とすることは至上命題であった。大量に社会に戻した超国家主義者、反米右翼を手なずけて親米・反共右翼に仕立て上げ、泳がせるためにカネと労力を惜しまなかった。

ともに釈放された児玉や笹川らが赤尾敏にみられるように「親米・反共」右翼を育成したように、岸は親米、対米従属を絶対条件として「自主憲法、自主軍備、自主外交」を掲げたにすぎない。これがロックフェラーを筆頭とする米支配層との密約で、踏み外してはならないレッドラインだったはずだ。

■偽装の「戦前回帰」と改憲提唱

約半世紀を経て孫の安倍晋三はこれを忠実に順守する。安倍は憲法遵守義務のある行政府の長・首相でありながらできもしない「憲法改正」を9年近く空念仏のように唱え、自主外交をかなぐり捨てたまま、自衛隊を米軍の補完部隊として統合させ対米隷属型軍拡にまい進した。安倍日本会議政権のいう「戦後レジュームからの脱却」とは「軽武装・経済優先」という吉田ドクトリン・宏池会路線の破棄であり、「日本を取り戻す」とは米国の駒として中国を抑止可能な「軍事大国日本を取り戻す」だったと言えまいか。本気で目指したのは決して戦前回帰ではない。

また岸信介と表裏一体だった「親米・反共」路線は今日、神社本庁、生長の家を柱にした日本会議を筆頭とする新たな右翼組織が主流となった。彼らは台頭した共産中国を徹底敵視、言論攻撃する一大勢力となり、岸派を源流とする清和会を最大にして最も長期に及んだ総裁派閥に押し上げた。孫の安倍が御輿に担がれて、日本社会を大きく脱リベラルへと向かわせた。

(続く)