対ロシア制裁の只中、消滅した環日本海経済圏構想 対米従属が生む二重の軛 

1985年にペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開・開放)を唱えたゴルバチョフソ連書記長の登場は新潟県を中心に裏日本と呼ばれ続けた日本海沿岸地方をにわかに活気づけた。ゴルバチョフ政権は中国の市場経済重視の改革開放政策にならい日本海に面した沿海州に経済特区設置を検討した。太平洋側に比べ大きな経済的ハンディを背負ってきた「裏日本」各県は新潟を核に極東ロシア、中国東北部、朝鮮半島の北東アジアを包摂する環日本海経済圏の形成に向かい盛り上がった。その勢いは1991年のソ連崩壊によっても衰えなかった。だが東西冷戦終結に伴う新経済圏形成に向かっての動きの象徴的存在だった公益財団法人環日本海経済研究所(本部・新潟市、ERINA)が2023年3月に解散した。ウクライナ戦争勃発による米主導の対ロシア経済制裁に日本政府が全面的に追随したことが致命的となった。米日の対ロシア冷戦は終わっていなかったのだ。

【図】新潟だけでなく、富山、小樽、敦賀などが中国の一帯一路構想などと絡めて日本海を囲む一大経済圏形成を構想してきた。左の図は富山県作成のもの。「日本経済の安定性と世界有数の経済圏確立。富山が日本海側(特に中国、韓国、欧州方面)の経済交流の中心地となる」としている。その大前提は、ロシア、中国、朝鮮半島との関係正常化であった。ウクライナ戦争をめぐる日本政府による対ロシア制裁と米NATO追随のウクライナ支援、そして中国封じ込めへの先兵としての参加が日本海側自治体の構想をことごとく破砕した。

 

 

 

 

 

 

本ブログでは1990年代前半に謳われた「東西冷戦の終結による平和の配当としての、政治の時代から経済の時代へ転換」云々がまったくの幻想であったことを強調してきた。1993年に非自民連立政権として発足し1年ももたなかった細川政権と後継の村山自社さ連立政権はソ連消滅によって日米安保体制の重要性は減ったとみて国連中心主義を打ち出した。これをまとめた1994年「日本の安全保障と防衛力のあり方――21世紀へ向けての展望(通称:樋口レポート)」は米クリントン政権の逆鱗に触れ、同政権は1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイレポート)」を公表し、アジア・太平洋地域に約10万人の前方展開兵力を維持することを謳った。冷戦終焉後においても日米同盟を重視することを再確認し、「日米安保再定義」へととつながる。

それはワシントンが台頭する中国を念頭に置きつつ、対ソ冷戦と対中冷戦をつなぐものとして「対テロ戦争」を位置づけていたからだ。米ネオコンはソ連崩壊の翌1992年には「単独覇権国となった米国が今後の世界秩序を作って行く。逆らう国は潰す」と謳った国防機密文書(ウオルフォビッツ・ドクトリン)を作成しており、樋口レポートはたやすくひねりつぶされた。日本側にネオコンの狂気を読み取る力はなかった。それでもロシアが米傀儡のエリツィン政権(1991-1999)の間は、環日本海経済圏形成の動きにブレーキがかかることはなかった。

エリツィンを後継してプーチンが登場すると雲行きは次第に変わってくる。当初、米国はG7をG8に拡大し、ロシア取り込もうとしたがプーチン大統領の米英との対決姿勢に変化は見られなかった。今日のウクライナ戦争の導火線と言える2014年の親ロシア政権を打倒したマイダン・クーデターやそれを受けてのロシアのクリミア再併合によりG7とロシアとの対立は決定的となり、G8体制は崩壊した。本ブログ掲載記事「プーチン追い詰めたブレジンスキー構想 ウクライナ危機と米のユーラシア制覇 | Press Activity 1995~ Yasuo Kaji(加治康男) (yasuoy.com)」で述べたように「プーチンはソ連崩壊後のエリツィン親米政権の下、米英巨大資本に蚕食されて呑みこまれる寸前だった資源大国ロシアを再建しようとして西側資本の天敵となった」のである。

日本政府が渡航自粛勧告を出す中、2023年10月にロシアを訪問した鈴木宗男参院議員は所属していた日本維新の会から事実上除名され、日本メディアからは「成果のない無意味な訪露」「スタンドプレー」などと徹底バッシングされた。北海道東部を地盤とし北方領土問題を政治家としてのライフワークとして取り組んできた同議員にすれば「当然なすべきこと」であったが、反ロシア一色に塗りつぶされた日本の世論はそれを許さなかった。日本はもはや全体主義社会と化している。

”失言王”と揶揄されてきた森喜朗元首相は2022年11月に都内で開かれた鈴木議員主催のパーティーで、ロシアによるウクライナ侵攻をめぐって「プーチン大統領だけ批判され、ゼレンスキー大統領はまったく何も叱られないのはどういうことか」と発言をしている。この時ばかりは失言でなく、まともと言える見解を打ち出した森のロシアと鈴木に対する寛容さと擁護は自身の出身地が日本海沿いの石川県であることと無縁ではあるまい。

日本海側各県、とりわけ東北地方の衰退が著しい。2015年から2020年の都道府県別人口動態(総務省統計)をみると、青森、秋田、山形、新潟の4県は減少率4%を超えて全国ワーストとなっている。全国的にも最も人口減少が進んでいる秋田県は、出生から死亡を引いた自然増減率、転入者から転出者を引いた社会増減率共に全国最下位。1956年に135万人だった人口が、2017年には100万人を割り込み、2030年代には半減し60万人台となる見込み。山陰の島根、鳥取などと並び若年層の著しい流出と高齢化で自治体としての存立基盤が揺るがされ、「座して死を待つ」状態と言える

ロシア極東の中枢都市ウラジオストクの街並み、景観は筆者が訪問した30年前と比べ一変した。ウラジオでは2015年から東方経済フォーラムが開催され、2019年の第5回会合には世界各地65カ国から8,500人以上が参加した(前年は60カ国6,002人)。日本からは最多の588人が 参加。当時の安倍晋三首相も出席し、スピーチした。2022年のウクライナ戦争勃発と対露制裁実施で参加国は激減したが、勝利を確定的にしたロシアはフォーラムの将来を楽観しているようだ。

ロシア極東は中国からの投資が極めて活発だ。人の動きも活発で、シベリア鉄道はバイカル湖畔のイルクーツクあたりまで中国人観光客で大賑わいである。人口が約3万人にまで減少し疲弊した日本最北端の街、稚内を一衣帯水のサハリン最大都市ユジノサハリンスク(旧豊原)の賑わいと比べるとその格差に驚く。ロシアの経済力はIMF発表のGDPだけでは決してはかれない。

新潟とロシア極東のハバロフスク、ウラジオストクを結んでいた航空2路線は2010年に廃止となった。1973年に開設したハバロフスク便は新潟空港の国際線では最も歴史のある定期路線だった。同空港を北東アジアの「玄関口」、環日本海経済圏の拠点と位置付けていた新潟県は決定的なダメージを受けた。

米国の対ロシア代理戦争であるウクライナ戦争でのロシアの勝利は揺るがない。凋落する米NATOにひたすら追随する日本は、当然にも、ロシアの敵国となった。この理不尽な現状に異議を唱える声は日本海沿岸の自治体からはまったく上がらない。中露を敵視する米国にひたすら服従する日本政府。その日本政府に補助金・交付金漬けで財政的に従属する日本海沿いの地方自治体。この自立、自由と自治を放棄した二重の従属というあまりに大きな軛が降り積もる雪以上に日本海沿岸に住む人々に重くのしかかっている。

 

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